L'amore bella addormentata
「これを」
 銀色のカードキーが、月明かりの光を帯びた。
「あなたに待っていてほしいんです。帰ったらあなたの顔が見たいんです」
 互いの部屋を行き来しながらも、合鍵を持つことはなかった。タイミングが合わなかったとかではない。なんとなく。渡さないという雰囲気があった。
 いざ手にしてみると、軽いそれに驚く。自分の中に大した感情の変化もないことも。もっとずっしりと重く、感慨深いものを想像していたのだが。
 ふふっ、と笑う。思わず零れたものだった。
 瞬く男へ、ウィンクを投げる。
「裸エプロンでお出迎えしてあげるよ。ハニー」
「……」
 男は言葉を飲み込み、やがて溜息を一つ。呆れたと語る予想を裏切らない反応。
「お好きに」
 これは予想していなかった。今度は自分が驚く番だった。
 男はやれやれといったていで口を開く。
「言ったでしょう。あなたに待っていてほしい、と。裸エプロンだろうがなんだろうが、あなたがそれを受け取ってくれた時点で私の目標は達成されました」
 なんてことだ。冷たいと見せかけて情熱の言葉を貰ってしまった。愛を謳うこの自分が、よもや男に情熱的な言葉を贈られるなんて誰が予想出来ただろう。
 降参だ。
 だから、好きなんだけれど。
「ちゃんとおかえりって出迎えるよ」
 だってオレもそうしたかったんだから。
 続きは、口にはしなかった。
 言葉の代わりに、唇で紡いだ。










 ピッ、と軽快な音。施錠が開いたことを示すランプの色の変化。
 来るのは初めてではない。但し、出迎えてくれる男の姿があったり、その男と一緒に入ったり。
 鍵を使うのは初めてである。
 中は真っ暗だった。人の気配はない。今日は仕事が入っている。
 灯りをつけて、中へと進む。部屋の主が不在だというのに、この緊張感のない足取りの軽さがおかしいったらない。今日は仕事が早く終わる日だったので、早速使えると気付いてからこの調子である。我ながら単純というかなんというか。
 リビングまで進むと、清潔感溢れる空間が広がる。ちっとも掃除のし甲斐もなさそうな、散らかっているところを探すのが大変そうな部屋である。そもそも最初から諦めている。
 荷物を置いて、コートやマフラーも脱いでソファーに放った。暖房をきかせて、部屋が温かくなってから漸く動き出す。
 キッチンへと入り、水回りやシンクの下などを確認して調味料を眺める。普段から食べ物に人一倍気を遣う彼らしく、無添加だとかそういった系統が多い。
 次は冷蔵庫。やはりというべきか。ほぼ野菜である。いっそ動物にでもなった方がいいんじゃないだろうか。
 予想通りの冷蔵庫を閉じて、俎板と包丁を取り出す。
「よしっ」
 目指すは、ヘルシーなお肉。人一倍気を遣う彼だけれども、偶にはお肉食べてるところが見たいな、なんて自分勝手な理由だ。
 後は、味付けを薄め?にすること。
 この日のために、ライバルにわざわざみっちり指導してもらった腕前を見せてやろうではないか。










 疲れた。
 撮影が長引き、元々夜中までと言われていたものの、新人モデルのために予定時間を大幅に過ぎてしまった。
 明日も番宣や収録があり、朝早く起きねばならないというのに。
 溜息をつくことすらも疲れてしまう。
 疲れの原因はそれだけではない。
 先日、鍵を渡してから擦れ違う日々が続いた。仕事が重なることはあっても、すぐに別行動になってしまう。姿を一目見れただけでも満足だが、恋人としての時間を過ごせていないのが不満である。
 この仕事を選んでしまった以上、仕方のないことと諦めるにはもう溺れすぎている。会いたい時に会いたいのだ。会えない、なんて疲れ以外のなにものでもない。ましてや、十代の遠距離恋愛バカップルではないのだ。離れている間お互い気持ちを高め合えるなんてことはない。
 会いたい。会って、恋人としての時間を過ごしたい。
 それなのに、引退を考えないあたり大概なのである。
 悶々と恋人のいない現状を悩みながら、やはり足は止まらないもので。いつのまにか自宅マンションに着いていた。カードキーを取り出したところで気付く。習慣とは恐ろしい。
 軽快な開錠音に、招き入れられる。
 だが、すぐさま足を止めることになる。
 部屋の明かりがついているいるのである。加えて、温かい感じがする。
 まさか。ふと頭を過ったものに突き動かされるがまま、奥へと進む。
 そんなこと一言も言ってなかった。
 リビングに続くドアを開ける。
「……」
 しかし、そこには期待した人物の姿はなかった。
 電気と暖房の消し忘れ?いや、まさか。
 その時、ソファーの上に散らかされたコートやマフラーを発見した。それは、恋人のものだった。
 では、どこへ?コンビニだろうか。でも、マフラーもコートもここにある。
 まあ、出かけているならばそのうち帰ってくるだろう。今は鍵を使ってくれたという事実の方が嬉しかった。「お出迎え」はまだ先の話になるようだが。
 知らず上がっていた口角におかしくなりながら、寝室へと向かう。
 帰ってきたら、ありがとう、と言おう。きっとビックリしてなんのことだととぼけるだろうけれど、今はこの気持ちを伝えたい。
 浮足立つ自分を隠せず、スキップでもしそうになりながら寝室に入る。
「っ、」
 今度こそ、言葉を失う。
 視線の先には、ベッド。見慣れたそれは、しかしながら日常とは異なりこんもりと山が出来ている。
 引っぺがすと、現れたのは筋肉質ながらも艶やかな肢体。常日頃愛している身体が丸くなっていた。
 こちらの気など露知らず、すやすやと眠るあどけない姿。
 思わず、天を仰ぐ。
 だめだだめだだめだだめだだめだだめだ。明日は仕事。睡眠不足で仕事が出来ないなんて矜持が許さない。そもそもこれは彼の眠る時のスタイルだ。見慣れているだろう。いやでも仕事疲れにこの刺激は強すぎる。
 必死に理性で抑制し、クローゼットからパジャマを引っ張り出して着せる。途中、何度か心地悪そうに身動ぎしたが鉄壁の理性で保った。
 それだけでなんだか疲れてしまった。
 ケアのために、足を引きずって風呂へと直行した。
 今日は眠れるだろうかと、不安を滲ませて。





 不安は的中した。
 帰ってくると、見事に着せてやったパジャマは脱ぎ散らかされていた。床やベッドに散らばるそれらに項垂れ、もう一度着せてやる。
「まったく……手のかかるお兄さんですね」
 眠っているあどけない横顔にキスを一つ送り、お返しだと呟く。
 直後、またもや脱ごうとしたので、後ろから抱き締めて眠った。暫くもぞもぞしていたが、やがて諦めたように眠りについた。




「ん……うん」
 窮屈さに、起こされた。
 見慣れた彼の部屋が視界に入り、帰ってこないので待っているのにも飽きて眠ってしまったことを思い出す。
 反応は明日きこう、といつも通り裸でベッドに入った。彼にはその度に冷えてしまうだのなんだのと怒られるけれどどこ吹く風。こっちの方が楽なのだ。
 そういえば、今は何時だろう。彼は帰ってきたのか。
 身を起こそうとして、動けないことに気付く。
 そして、背中から感じる体温と腹に回る腕。裸のはずが、パジャマを着ている。
「ふふっ。いいね」
 サプライズ返しをされてしまった。顔の見えない恋人が一体どんな顔をしてこんなことをしたのか見てみたい気もするけれど、眠気に勝てそうにもない。
 そうっと目を閉じ、もう一度笑みを零した。
「キミの夢が見れそうだよ、イッチー」
     
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