残火
実は、氷雨にはナイショにしていることがある。
それは、記憶があることだ。なんのこっちゃと思うだろう。だが、氷雨は忘れていたほうがいい記憶を持っていた。
両親には隠しているが、父が現れたときのことは今でも忘れることが出来ない。まだ十にも満たない子供だったため、いつか忘れてくれることを両親は願っていることを知っていた氷雨はある日から少しずつ忘れたふりをしてきた。
氷雨は父と血の繋がりはない。ある父だった人は、母と氷雨を捨てて愛人のもとへ行ってしまった。それから母は氷雨に暴力をふるうようになった。
暴力をふるっても母は母で、いつも後でごめんねって抱き締めてくれるから嫌いになんてなれなかった。大丈夫だよ、僕がいるよ、と心の中で呟くことしか出来なかった。でも母が求めているのは氷雨で捨てた父でもないことは分かっていたので、口に出して言うことは出来なかった。
そんなある日、父が母の手を止めてくれた。氷雨を可哀想だと言って、母の傷付いた手も心も可哀想だと言って止めてくれた。
神様みたいだった。まるで天から降り立ったみたいに。
そのことは今でも強く記憶に残っている。
けれど、両親は忘れることを願っている。氷雨が置いて行かれたこと、暴力を母親にふるわれていたことを覚えていてほしくないのだ。勿論、二人とも氷雨を愛してくれている。だからこそ、愛されなかった記憶を残してほしくなかったのだ。誰だって親に愛されなかったなんて悲しいに決まっている。
だから、氷雨は忘れたことにしている。
けれど、ずっと覚えているだろうことも知っている。何故なら、あまりに記憶に強く残りすぎているからだ。
あれは、救いだった。
氷雨は本当は辛かった。大好きな父がいなくなり、母は父の面影のある氷雨を愛せなくなってしまった。
それでも、母はいつも辛そうだったから頑張って我慢していたのだ。
けれど、父が来てから母は変わった。
氷雨を、ちゃんと見てくれるようになった。面影もあるのに、それでも氷雨を見てくれた。
だから、氷雨は父が大好きだった。氷雨だけでなく、母も救ってくれた。まるで神様みたいに。
そして、もうひとつ大事なものをくれた。
「にーにっ、にーにっ」
「んーどうした。蛍灯」
父が父となって少ししてから、氷雨のもうひとつの大事なものが増えた。
「にーに!」
兄ちゃん、とうまくまだ言えなくて、にーに、と呼ぶ声は愛らしくて仕方ない。もう十を優に越えて、もうすぐ二十になるというのに、氷雨は年の離れた弟を目に入れても痛くないほど溺愛していた。
「にーにー」
「んー?」
弟はいつも雛のように、時には母以上に氷雨について回る。それが可愛くて仕方なくて、氷雨は甘やかしてしまう。
母にはよく甘やかしすぎだと窘められてしまうのだけれど、仕方なさそうに、分からないでもないといったかんじなので全然懲りてはない。
「にーにー」
「けーいと」
「にーにー」
もう少ししたら言葉もちゃんと喋れるようになるのだろうか。それは、ちょっと寂しい。いつかにーにとついて回ることもなくなってしまったら、きっと氷雨は泣いてしまう。
「まったく。氷雨、久々におやすみのパパにも蛍灯をかまわせなさい」
「やーだよ。俺も日頃学校であんまり一緒にいれないんだから」
「あなたたち、あまり蛍灯を甘やかさない」
「はぁい」
「ママ、私は久々なんですよ」
「なら早く帰りなさい」
「いや、あのですね」
「パパはカッコいいからすぐ出来ちゃうでしょう?」
「ぐぅ……」
氷雨は、夫婦の会話を白い目で聞いていた。誰が親のイチャイチャを聞きたいのか。
両親は氷雨が蛍灯に甘いというが、両親はまだ甘すぎる。それも、氷雨は蛍灯だけだが、二人は全員に甘いのだからまだマシ。いやこれも血か。
「ま、しょうがないか。蛍灯はかわいいもんね。ねー、蛍灯」
「にーに!」
返事のように自分を呼ぶ弟に、氷雨は破顔した。
     
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