廓の怪事
 いちまーぁいにまぁーいさんまーぁい。
 あの歌が、きこえる。
 童たちの跳びはねる声が。












 ほろほろと降り積もる雪をなんともなしに眺める。銀世界に包まれた外では道行く人がたいそうな厚着をしており、こちらまで身震いしそうないでだちで、火元を一度見遣ってしまった。
 一見すればそれはそれは美しい雪景色とやらも、いつまでも延々と、じぃっと見詰めていれば早々に飽きが来るというもの。代わり映えしない景色。人、雪、自分。
 ああいやだいやだと駄々をこねれば気も済むものなれど、厄介なことに大人というものは分別がきかない。いざというときに童心に帰れないのだから。
 ほうと息をつくと、ガラスが曇った。白い一瞬の景色は、瞬く間に消えゆく。
 また、息をつく。
「坊や。つまらないでしょうけれど、もうちょいとだけお待ち」
 腹の中で確かに芽吹いている命に話しかけると、頷くかのように反応が返ってくる。
 いい子だねぇ。いい子だ。
 やさしぃくやさしぃく撫でてやると、喜んでいるようだった。
 元気にうまれてくるんだよ。いいね。坊や。
 とくんとくんと、鼓動かそれとも足蹴か。願いどおり健やかさを示す。
 遠くへ行ってしまった夫を思い、そうと目を閉じた。
 女は、元はたいそう裕福な家のうまれだった。けれど、お家が立ち行かなくなり、飯を食らうだけでろくに食い扶持も稼げない下の子であったため、親に売られたのだ。
 はじめの頃は父母を思ってたいそう泣いたが、次第に自分を売らなくては生きていけなくなり、諦めて働くことにした。先に売られてきていたよその家の女たちは状況を理解せず泣く子供に顔を顰めていた。自分の立場を理解するようになると、それなりの扱いはしてくれた。
 そうして自分を売って、何年も経った。
 父も母ももう迎えに来てくれないことは理解している。
 いつだったか。兄弟に会ったことがある。否。兄弟が来たのだ。妻も子もいる身でありながら、女をその日ばかり買った。酒に戯れ、肉に溺れ。彼らは大口開けて笑っていた。
 兄弟に買われては己を曝け出すことも出来ず、なくなく口を閉じたのである。
 それから兄弟はもう来ることはなかったが、もう一度会えたらいっそのこと言ってしまおうかとも考えたことがある。
 あの時は怖くて怖くて。自分を抱いて、震えているだけだった。それがまた気に入ったらしく、喧しくも自分の身の上を隣にも聞こえそうな声で述べていた。
 自分のことはまったく覚えていないらしく、当然ではあるが自分より上の兄弟も下の方は売られて行ったらしい。
 兄弟は運がなかった女たちを哂い、あれからいかにして自分が家を立てなおしたかをまくしたてた。
 閨で聞く夢物語にしてはあまりに心が痛く、耳を塞ぐことも泣くことも出来ずにじっと燭台の影に隠れて耐えた。
 いちまぁーいにまぁーいさんまぁーい。
 昔。兄弟が歌ってくれた。一緒に遊ぶと、決まって数え歌を歌ってくれた。
 たまに思い出しては心懐かしく、温かいものが過ったものである。
 いつか子がうまれたら聞かせてやりたい。
 子を宿してからであろうか。次に会った時に名乗ろうという、岩の影から覗く闇ごとを考えなくなったのは。兄弟のこともどうでもよくなって、ただ情をかわした人が渡してくれた絵空事だけがそれはそれは綺麗に輝くものだから。許したわけでもなく、ただ無性にどうとでもよくなってしまったのだ。
 背の君と慕う男とはもちろん廓で出逢った。
 やたらめったら年ばかりとって口先がうるさい男に連れられた、口数の少ない人だった。
 女を買いに来た客をもてなすと、酒に酔ったのか少しだけ口が増えて、やがて熱も入ってその勢いのままに買っていった。酒を浴び過ぎたわりには情熱的で、女も滅多にないその手つきにうっとりと身を委ねたのだ。
 男は朝になって自分が隣で寝ていることに顔を真っ青にしていたが、事情を知ると丁寧に謝って、また会いたいと言ってくれたのである。
 気にしなくていいから、来たい時だけに来てくれればいいのだと告げると、男は胸を撫で下ろしていた。
 それから拙くも子供のような逢瀬が続いて、やがて女は子を身ごもった。
 男に告げると、それはそれは驚いて、顔を真っ青にして大丈夫なのかと案じてくれた。
 心配性な男に大丈夫だと笑うと、ああよかったと言ってくれたものだからおかしなことである。
 それからしばらくして、男はおつとめに行かなければならなくなった。
 女がついていこうとすると、いいやと首を振った。
「僕の帰るところで待っていてくれ。君には子供と一緒に待っていてほしい」
 男はそう言って、泣く女を置いていってしまった。
 とても大変なおつとめで、いつ終わるともしれなかった。
 女は毎日男を思って泣いたが、その都度、笑って腹の子供をあやしてやった。大丈夫、大丈夫。あの人はきっと帰ってくる。大丈夫なのだと信じて疑わなかった。
 帰ってきたら男の喜ぶ顔が見たいと、女は腹を撫でた。
 いちまぁーいにまぁーいさんまぁーいよんまぁー……
 子供の歌が、途切れる。
 白銀の世界に橙色の光ともとれるものが覆い、目を向けた時には、











 ああ、危なかった。
 男は胸を撫で下ろした。
 ぶつぶつととぎれとぎれに聴こえる機械音から耳を放し、欹てていたものを漸く解放した。珈琲を一口啜り、清々しい風のにおいを腹いっぱいに吸い込む。
 男はたいそう気の小さな気性だった。昔からそうで、親にももっとしゃんとしなさいとよく言われたものである。しゃんとするにもそのやり方がわからないのだと言うと、いつかそれで酷い目にあうと口酸っぱく言われたものである。
 仕方ないだろうと聞き流していたが、よもや事実そのような目にあうとは露ほどにも思わなかった。
 妻を貰い、子にも恵まれ、何不自由なく暮らしていた。仕事もうまくいっており、上にもへこへこ頭を下げていれば可愛がられたものである。おまけに気立ての良い妻まで貰えたのだから順風満帆といって差し支えないだろう。
 義父とはよくのみに付き合わされており、付き合いさえすれば地位も仕事もくれるものだから我慢してよく回る口にうんうんうなずきながら耐えていたのだ。女遊びに付き合わされることも決して少なくはなく、義母には黙っておけと言われるがままに頷き、気立ての良い妻もいる身でありながら付き合ってやっていたのだ。
 ところがある日。義父に付き合わされて行った先で出逢った女がこれはこれは美しい、まこと現世かと言わんばかりで。酒がすすみ、男は義父が馴染みの女の肩を抱いた頃あたりから徐々に口数を増やし、物静かな遊び女を抱いてやった。肩を抱くだけでほんのりと頬を染めて、口元を綻ばせる様といったら! 愛らしいと思わず遊んでやってしまったのである。昨夜の事情を忘れるにもしっかり覚えていて、女に平謝りすると、どうやら勘違いしているようだった。これはいい。男は嘘でっちあげをまくしたて、女としばしば会うようになった。
 女は会うたびに頬を染め、家でうるさい子供と、目を光らせているようでおっかない妻に比べたら可愛いこと。それもそうだろう。年端もいかない女だ。たいそう年の離れた男から見ればまだまだあどけなさが残るのだ。
 やがて恐れていたことが起きる。
 女は、腹に子を宿してしまったのである。
 なんということだ。
 確かに義父に誘われたものだが、娘への愛は人一倍で、巷でよく見かけるだめな男の典型であった。
 男はうんうん頭を悩ませた。
 妻も怒り狂うであろうことが目に見えていたし、義父に捨てられてしまったらと思うとなかなか踏み出せない。
 しかし間のいいことに、義父が新しい家を買ったと言い、そこに住まうと言うのだ。これはいい。男は女におつとめに言ってくると法螺ふき、涙を流す女を置いて軽やかな足取りで飄々逃げて行った。
 女を残した地は爆撃が落ちると言われていた。そのため、義父も馴染みの女を置いて逃げ出したのである。義母もたいそう恐ろしい人なのでここで切ってしまえばちょうどいいと同じことを考えたのである。
 さて。後顧の憂いもなくなったところで、今度は義父に何処へ連れて行ってもらおうか。
 男は軽やかな足取りで家路をたどったのである。
 家に帰ると、妻が出迎え、夕餉が出来ていますよと笑う。子供が出迎え、おかえりなさいと笑う。ただいまと抱いてやると、はしゃぎまわって、簡単なことで喜ぶ女子供をそれはそれはいい笑顔で見つめた。
 夜。男は妻と共に眠っていると、こんこん。こんこん。近くで音がするではないか。
 妻が何かしているのか。うるさくてかなわない。眠れないと言ってやろうと男は目を開けた。
 しかしてそこには妻の姿はなく、仄暗さの中男は目を瞠る。
「わたくしの背の君。ああ、愛しい背の君」
 なんとそこには置いて行ったはずの女がいるではないか。
 悲鳴をあげ男が飛び退るも、女は距離を詰める。
「早く迎えに来てくださいまし。わたくしを早く迎えに来てくださいまし。ずっと待っているのですよ、この子といっしょに――ずうっと」
 驚き慄く間もなく、下からひたりひたりと小さな手のようなものが男の足に絡みついた。小さいわりに強い力で、どんなに振りほどこうとしても振りほどけない。段々恐怖がせり上がってきて、迫る女と手に挟まれて身動きもままならない。
「わたくしの背の君。迎えに来てくださったのでしょう」
 ひやり。女の冷たい手が男の足に触れ、ぞくぞくと身震いをした。
 女はうっそりと笑い、徐々に距離を詰める。
「かわいいでしょう? わたくしたちの坊やですよ。背の君、どうかあやしてやってくださいまし」
 小さな手が這いあがる。
 やがて、のっそりと見えた顔は、ぐちゃぐちゃになっていて顔と言えるようなものではなかった。
「ふふ。かわいいでしょう?」
 悲鳴を最後に、男を見た者は誰もいなかった。
     
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