神に愛されし歌姫
人間は信用するものではない。
それは、わたしではない。
それは、他人である。
あるところにとても綺麗な歌姫がいました。
歌姫は毎日国の中央広場で歌を歌います。雨の日は大きな傘をつけて。雪の日は温かい暖房をつけて。毎日毎日歌います。
歌姫はとても綺麗な顔立ちをしています。大輪の花がふわりと花開いたような美しいかんばせを持っています。体格は細く、しかし細すぎず、確りとした強さがあります。
声は勿論美しいです。人々の心に太陽の光を照らし、疲れた心を癒してくれます。
歌姫は「太陽の光」と呼ばれていました。
今日も歌姫は歌い続けます。人々のために歌います。人々へエールを送ります。
歌姫の歌は、今日も人々の心へ届きます。
少女はぐちゃぐちゃに塗り潰し、羊皮紙を丸めて放り投げました。部屋の中には丸められた羊皮紙がいくつもありました。
コンコン。
ノックの音に少女は気付きませんでした。
扉の向こうから男が顔を覗かせました。眉尻を下げた優面の男です。
少女は気付きません。
ガリガリ、ガリガリ。
ペンを走らせる音だけが響きます。
ガリガリ、ガリガリ。
ガガガガガガガッ。
やがて、ペンで羊皮紙を黒く塗り潰すと、先程と同じように丸めて捨てられました。
少女は捨てた羊皮紙のことなどちっとも振り返らず、また新しいものへペンを走らせました。
ガリガリ、ガリガリ。
男はそっと地面におにぎりとたくあんが乗せられた皿を置くと、ドアを閉めて部屋を後にしました。
一度だけ気持ちを残すように振り返りましたが、口を開くことすらないまま歩き去りました。
その日は、雨でした。
大きな傘を使って、歌姫には絶対に雨が降りかからないようにステージを組んでいます。
歌姫は人々へ笑顔を振りまきます。慈愛の微笑みを送ります。
人々は時に涙を流し、また時には感謝の念を捧げました。
歌姫は言います。
ありがとう。
何度も言います。
ありがとう。ありがとう。
観客へ手を振り、歌姫は歌い続けます。
今日も歌姫は人々の心へ届けます。
少女は歌を歌うことが大好きでした。
小さな頃から歌が上手だと褒められ、誰もが少女の歌を聴きに来ました。
少女は歌うことがとても大好きでした。
ある日、誰かが言います。広場で歌ってよ、と。
幼い少女の腕を引いて、言います。さあ、歌って!
少女は歌いました。
綺麗な歌声でした。聴く人の心を癒し、安らぎを与えました。その美しい旋律に誰もが拍手を送りました。
少女は歌いました。毎日毎日歌いました。
観客は日毎に増え続け、誰しもが少女の歌を聴くために広場へ集まってきました。
少女は歌います。
少女はいつしか歌姫と呼ばれるようになりました。
人々の心へ太陽の光を注いでくれる歌の女神様。
観客は言います。歌を聴きたいと。
少女は歌います。今日も歌います。
人々のために、歌い続けます。
ガリガリガリガリ、ガリガリガリガリ。
血走った目をした少女は、羊皮紙と顔がキスするくらい顔を近付けて一心に何かを書いていました。
ペンが紙の上を走る音が続きます。
稍あって、少女は頭を掻きました。美しい彼女の髪が見るも無残に荒れ狂います。
ガガガガガガガガッ。
羊皮紙を黒く塗り潰し、丸めて放り投げます。
すると、何処からか男がやって来ました。おにぎりを置いた男です。
男は丸められた紙を手に取りました。
そこには、幾つもの言葉のかけらがありました。
男は暫くそれを眺めて、小さく溜息を零しました。
「もう、いいよ」
少女へと向けられた言葉は、拾われることがありませんでした。
ガリガリガリガリ、ガリガリガリガリ。
少女は気付きません。振り向きもしません。
少女の視界にあるのは羊皮紙とペン、それから言葉だけです。
男は肩を掴み、少女を無理矢理振り向かせました。
幼い顔に隈やニキビがあり、げっそりと痩せこけています。
「もういい!」
男は言います。
「もう、いい…」
努めて冷静に言います。
「もう……やめるんだ」
願うように、振り絞られた声が響きます。
しかし、少女の耳は捉えていません。
「書かなきゃ」
少女は口を開きました。
ポツリと零された言葉に、瞬間、男の顔が土気色へと変わります。
「はなして。書かなきゃ」
男の手からみるみるうちに力が失われ、少女は自らきちんと座りました。
すっかりタコが出来た手で、ペンを持ちます。
ガリガリガリガリ、ガリガリガリガリ。
ガリガリガリガリ、ガリガリガリガリ。
ガリガリガリガリ、ガリガリガリガリ。
男はただ呆然とするしかありませんでした。
今日も歌姫は歌います。
人々の心へ歌を送ります。
人々は祈りを捧げ、或いは涙を流し、或いは心を震わせました。
歌姫は言います。
ありがとう。
その様子を人垣から離れて見ている男がいました。
男は悲痛な面持ちで少女を見詰めます。
誰も気づきません。
化粧で覆い隠された歌姫の顔。元々美しかった顔が徐々に痩せこけていること。
ただでさえ線が細かった歌姫の身体のラインが驚くほど骨ばっていること。
誰も気付きません。
誰も、誰も、気付きません。
誰もが少女を歌姫と呼びます。
その歌声に心を惹かれます。
少女は言います。ありがとう、と。
「嫌よ!」
少女は叫びました。
「ダメだ」
男は首を振りました。
少女は目に涙を溜めて訴えかけます。
「どうして? どうして、ダメなの?」
「仕方ないだろう。これではダメだから、だ。現に見ろ。人々はお前の歌声を求めているんだ。なのに、こんな歌じゃダメだ。人々の心へ届く歌じゃないと」
「でも、わたしはわたしの歌を歌いたいわ!」
「ダメだダメだダメだ」
「おねがいよ!」
少女は涙を零して訴えかけました。
そのお願いをきいてやりたくなって、すんでで自身を引き留めました。
「ダメだ」
男は厳しい顔で、棄却しました。
少女はしょんぼりと肩を落とし、ぱたぱたと涙を落としました。
「お前は歌声が綺麗なんだからいいだろう? こんな綺麗な歌を歌えば、もっと歌を聴いてくれるぞ」
それでも少女は納得しませんでした。
男はあれこれ言い包め、渋々と少女を納得させました。
それから、少女は歌いました。
歌姫として歌い続けました。
何処の誰ともしらない、或いは顔の知れた人の歌を歌いました。
誰もが少女の歌声に感動しました。心を打ち震わせ、もっと聴きたいと言いました。
少女は歌い続けました。
そして、書き続けました。
ずっとずっと書き続けました。自分の歌を書き続けました。
納得が出来るまで書き続けます。
いつも納得が出来るものは出来上がりません。
少女は書き続けます。いつか自分の歌を歌うために。
人々は少女の歌声に感動します。
そして、男は少女に今日もおにぎりを差し入れます。
そのおにぎりが減ることは、きっともう無いでしょう。
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