青山に息づく稚児の鉢
「うぁあああああああ、あああああ、あ、ああああああああああ」
 今日、妻が発狂しました。
 昨日もしました。一昨日もしました。一日に一回はします。
「大丈夫、大丈夫だよ」
 私はなす術もなく、言葉だけの慰めを送ります」
「あああああああ、ああああああ、ああああああああ」
 こうやって、なんお前触れもなく、しかしながら何か琴線に触れたかのように発狂します。頭を振り、何かから逃れるように、もしくは怯える自分を守るために蹲って庇おうとします。嵐が過ぎ去るのを待つようです。
 私は妻から目を離せなくなりました。いつどこで発狂するか分からないからです。
「うぅううう、うぅううう、うぁあああああ」
 私のことさえも怖がる瞳にそろそろ慣れた頃でしょうか。最早自分のことですらわかりません。きっと死んでしまったのでしょう。心が死んでいるのに身体が死なないなんて、人間とはなんと不便なことでしょうか。
「あー…あー…」
 一頻り発狂した後は、こうして空を見詰めて唸ります。いえ、見ているわけではないのでしょう。虚ろな瞳には何も映っていません。
 背中を撫でても頭を撫でても、妻は無反応です。まるで全ての事柄に放っておいてと言っているようでした。放っておいたら放っておいたで、一人旅立ちでもしそうなのでそれも出来ません。
「あー…うーあー……」
「大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫だよ」
 なんて空虚な言葉なのでしょう。
 大丈夫。安心させるように、落ち着けるようにと言っているはずなのに、中身が伴っていません。そんなこと妻は知っているのでしょう。理解せずとも、分かっているはずです。
 妻は背中を丸め、涎を垂らし、言葉にすらなっていない音の塊を吐きました。
 髪は乱れ、洗うことも出来ないのでつんと臭いがたちこめ、身体も洗っていないのでよりきつい臭いが鼻を突きます。爪も手入れをしていません。ところどころ剥げていたり、ガタガタになっていたり、とびぬけて伸びていたり様々です。
「あー…うーあー…」
 身体を掻き毟り始めました。痒いわけではないでしょう。痒いという感覚すらないはずです。
 腕、肩、胸、顎、顔。あちらこちらを掻きます。垢がボロボロと落ち、掻いたところが赤くなり、瘡蓋は剥げ、血が滴ります。
 自分を傷付ける妻を止めることはしませんでした。してはいけないからです。
 上半身から下半身へ。すっかり筋肉の抜け落ちた脚を、腿を、脹脛を、脛を、掻きます。
 バリバリ、ボリボリ、ボリボリ。
 妻は掻きます。掻き続けます。
 私は止めることをしませんでした。妻が掻き続ける様子を、疲れた身体をソファーに凭れながら見ていました。見ているかも怪しいものでしょう。私も虚空をただ映しているにすぎなかったのかもしれません。
 やがて、妻は私を探し始めました。
 右を見て、左を見て。
 私を確認すると、生気のなかった瞳に涙が溢れます。
 妻が私の名前を呟きます。呼んでいません。
 妻の目から涙が伝い、頬を滑りました。
 目脂が酷く、ニキビも無駄毛も酷い顔に涙が走ります。
「ごめん、なさい…」
 妻は、言いました。何度も何度も言いました。
 私は答えませんでした。
 何度も何度も。しわがれた声で、ボロボロと涙を零す妻をじっと見ながら、それでも何も言いませんでした。
 許してはいけない? いいえ。
 疲れた? どうでしょう。
 ただ、私は妻の贖罪に答えるものを持っていません。
 それでも妻は言います。何度も何度も。いつも、言います。
 私が答えないことを知っていても、妻は言います。
「ごめんなさ…」
 泣かないで。
 もう謝らなくていいよ。
 そんな陳腐な言葉も浮かびません。言いたいとも、言おうとも、そんな慰めの言葉をかけてあげたいとも思いませんでした。大丈夫なら言えるのに、どうしてだかそれだけは言えません。
「ごめ…なさ……ごめん、なさい……」
 謝るのならば、最初からしなければいいのに。
 そう思ったのは、昨日だったかもしれません。いいえ。一昨日だったでしょうか。
 けれど、それも出来なかったことも知っています。
 妻だけが悪いわけではないことも知っています。
「ごめんな…っ、さ……」
 私は答えを持っていません。
 妻は答えない私から視線を逸らしました。
 彼女の腹に視線が注がれます。
 何の変哲も見受けられない腹ですが、そこには災厄が眠っていることを私達は知っています。
 妻は、呆然と見詰めていました。私はそれをただ映していました。
「聞ければ、いいのに…」
 なんの気まぐれか分かりません。無意識でした。言ってから、言葉が頭に回りました。
「生まれたいか、生まれたくないか」
 妻は、ゆるゆると目を瞠ります。
「たくさん考えてるのに、本人の意志を尊重出来ない。結局は私達のワガママ」
「あ…ごめ…っ」
「生まれてきても、きっと私は愛してあげることが出来ないでしょう。ちゃんと、愛情を注いであげることが出来ないでしょう。あなたも……違いますか?」
 妻は目を逸らしました。それが、答えです。
「だから、せめてどうしたいかを選ばせてあげられたらいいのに。声が聞けたら……そうしたら、私達はこんなに迷わずに済んだのに」
 妻は、もう何も言いませんでした。
 いつか聞くことになるでしょう。何故自分を産んだのか、と。
 私達はきっとそれに答えることが出来ません。
 何故? 殺せないから? 命をなくしてしまうことが恐ろしかったから?
 そして、言うのでしょう。それなら産んでほしくなかった。生まれなければよかった、と。
 何が正しいか分からない。
 なるほど。そのとおりです。
 きっとどちらを選んでも恨まれることは間違いありません。
 私は父親ではありませんし、妻は母親になりたいわけではありません。
 今ひっそりと芽吹いている命を愛することすら出来ないのです。
 ですが、そんなことは関係ないのです。
 仮令、避けようのないことだったとしても、関係ないのです。祝福され、生きることを愛するだけの人間なのですから。
 子供は親を選べない。生まれるところを選べない。
 先人はよく言ったものです。
 私達以外のもっとちゃんと愛してやれるところにどうして行ってくれなかったのでしょう。世界には欲しいと思っても出来ないところもあるというのに、何故よりにもよって今来たのでしょう。私達のところへ。
 それにも意味があるのですか?
 では、そのために私達は苦しまなければならなかったのですか?
 何故、死んではならなかったのですか?
 殺してはならなかったのですか?
 私を尽きることのない問いを、神と呼ばれる人へ向けました。しかしながら、答えは返ってきません。
 崇高な神は人間に簡単には答えをくれません。
 妻は力なく腹を見詰めていました。なんの感情もなく見詰めていました。
 私は、妻を映しました。なんの感情もなく映しました。
 命は一年も経たず生を受けるでしょう。
 私は祝福の鐘が鳴り響く死刑台に立っています。
 そして、妻は顔のない命を腹に抱えています。足元に、じゃりじゃりと散らばる小さな白い骨を踏みながら。
     
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