一
それは、微笑ましい光景として、殺伐とした宮殿でも受け入れられていた。
「芽凌様ぁああああああ」
静寂が鎮座する王宮の一角。
今日も恒例のおいかけっこが始まっていた。
「芽凌様ぁあああああ。待ってぇええええええ」
追跡者は齢十五ほどの少女。裳の裾を指で摘み上げ、男顔負けの爆走を見せている。
一方、逃走者は立派な髭を蓄えた武官である。刀を佩き、官服に身を包んだ男だった。こちらも常人離れした走りを見せていた。
丁度通りかかった内人達は驚く風もなく、寧ろ二人を応援しつつ通り過ぎる。
男の同僚と思しき者達などは賭け事に興じる始末である。
文官などは顔を顰め、見て見ぬふりだ。
「てめえこの野郎! 後で覚えてろよ!」
「そこの者! 私に賭けてるんでしょうね? もし私ではなく芽凌様に賭けていたら首切るわよ!」
観客気分で檄を飛ばす武官達にそれぞれ思い思いの台詞をついて、瞬き一つのうちに通り過ぎた。
「あーあー。公主様も芽凌もよくやるなー」
「ほんとほんと。あー平和だって思っちまうわ」
と、呑気な会話が交わされるのはいつものことである。
「芽凌様ぁああああ。お待ちになってぇえええ」
少女の名は、柳暎柱。封号を蒄珎。王の第一子であり、この国の第一公主である。
「だぁあああかぁああああるぁあああああ。嫌ですってばそろそろ諦めろくださいぃいいいい」
男の名は張芽凌。そろそろ四十を自称すべきかと頭を抱える年齢である。
二人が何故おいかけっこに興じるはめになったのか。
それは、一年ほど前のこと。
蒄珎は退屈な講筵を終え、外苑を散策していた。
当時、謹厳実直の名が高く、高嶺の花と謳われていた。王の寵愛も並々ならず、一体どこの殿方が公主を娶るのかと宮中でも噂の的であった。
外苑には季節折々の花が咲き誇り、その時は夏であったために芙蓉が所狭しと花をつけていた。
太陽が燦々と照りつける日。
日差しを遮る傘をさしていたが、その日は特に暑かった。
散策を楽しんでいる最中、突如眩暈に襲われ公主は倒れた。
側仕えの尚宮は慌てふためき、内人はおろおろと立ち尽くす。
蒄珎の額にはじっとりと汗の玉が伝っていた。顔色は蒼白である。
国家の一大事に、蒼褪める。その時。
「何をしている!」
野太い男の喝が響いた。
側仕えの者達がはっと見遣ると、髭を蓄えた大男が眉間に皺を集めていた。
「直ちに公主様を房にお連れせよ!」
大男は側仕えの者達を叱り飛ばし、自ら公主を背負って先導した。
公主の起居する殿堂に運ぶと、すぐさま医官が飛んできて診察を行った。
幸いにも、大事には至らなかった。
「大丈夫ですよ、もうすぐですから」
自分を背負って、ずっと声をかけてくれたことを蒄珎は覚えていた。
苦しくてどうしようもなかった。至密の者達は青くなるばかりで、苦しいだけだった。
そんな時、叱り飛ばして助けてくれた。触れるのも恐ろしいと、命すら危ぶんでもおかしくはないのに。
目が覚めてすぐに男の名を確かめ、一日と経たずして顔と一致させた。
それから、王宮の恒例行事となるおいかけっこが始まったのである。
今でこそ和やかに例えられる光景だが、当初は誰しもが困惑を露わにした。
王は怒り、蒄珎を呼び出して叱り飛ばしたほどである。
しかし、蒄珎は引かなかった。
今まで蝶よ花よと育てられ、嫋やかな花に例えられた公主が嘘のように堂々とした佇まいで食って掛かったのである。
「私の色恋沙汰に口出ししないでくださいませ。娘一人の恋路くらい素直に見守ってはいかがですか」
手出しするつもりなら胸を切って男になってやる。と宣言され、王は言葉を失った。
王が目を瞑らざるをえなくなったため、王宮では恒例行事として人々の目を楽しませるようになったのである。
そして、今日も今日とておいかけっこは続く。
「芽凌様お待ちになってくださいませぇえええ。お慕い申しております。お料理もお裁縫も剣も学も全て修めております。だから妻にしてください!」
「そこまで修めたのなら俺ではなくもっと相応しい方の妻となってはいかがですか?」
「だからー! それが芽凌様だと言っているのですぅううう」
「違うから! 絶対違うから! 考え直すなら今ですからねえ早くそうしましょうさんはい!」
「やっぱり芽凌様ですぅううう」
「なんてこったい!」
応酬を交わす間も足は止めない。止めたら終わりだ。
張芽凌は頭を抱えて蹲りたくなった。
王にも睨まれ、昨今ではとうとう王妃にも「うちの娘の何処が不満なのかしら」という目で見られ、王子達には「義兄上、姉上をいつまで泣かせるおつもりですか」と剣を手に問い詰められ、文官達には武官風情がと睨まれている。同僚達は賭け事にするという所業である。
誰も俺の味方はいないのか!
今すぐ現実に足を向けて、布団を頭からかぶって寝たい。こんな現実信じてたまるか。受け入れてなるものか。
しかし、現実とは情け容赦ないものである。
芽凌は大仰に溜息をついた。
「芽凌様っ? 一体どちらへ……」
背後に迫る蒄珎の気配。
物陰に身を顰め、息を殺して去るのを待つ。
稍あって、舌打ちがひとつ聞こえてきた。
「逃がしたか……」
え。芽凌は目を瞠った。
蒄珎は束の間探す素振りを見せたが、諦めて去って行った。
「おいおい……」
公主の本性を見てしまったような気がする。
芽凌は呆然と立ち尽くした。
あの高嶺の花が……そんな。まさか。
しかし、これが現実だと芽凌は誰よりも分かっていた。
→return