三日月
殺したかった。
目の前には、殺してやりたいほど憎んだ相手がいる。
にたりと笑う唇。
殺してやる。言葉は、空気を振動させることもなかった。
ありもしないナイフを抜こうとし、身動きが取れないことに気付く。瞬間、さっと血の気が引いた。全身が冷たくなり、寒さで凍えそうになった。
口には猿轡がはめられ、言葉を封じられている。腕、脚は縛られており、身動きとれない。
「―――」
何か言われたように思う。だが、何を言われたのか分からなかった。聞き取れなかった? 否。
全身から殺意が引っ込む。
殺したかった。殺してやりたいほど憎んでいる。いつか殺そうと思っていた。
それなのに、今この瞬間、我が身を襲うであろう最悪が容易に想像出来た。
にたにたと笑う気持ち悪い顔。
仲間と思しき輩。
それが指しているのは、ひとつだった。
これから何が起こるのか。察したことに気付くと、三日月の唇が深まった。
殺したい。
殺してやりたいほどに憎んでいた。
いつか殺してやろうと思っていた。
同時に、それは恐怖の象徴だった。
忘れたかった。思い出したくもなかった。何一つ知りたくなどなかった。気配すらも感じられないところで安息に暮らしていたかった。
そして、地獄はやってくる。
這いずりまわる掌。にたにたと笑う三日月。
悲鳴もあげられなかった。
厳重に封印したパンドラの箱は合鍵を作られ、何重にも閉じた箱は災厄を招いた。
何度逃げ出そうとしたことか。
されど、その度に捕まっては意欲すら奪われ、箱の中身を取り出されていく。封じられていたものはごっそりとられていっては、擦り減っていく。
途中、助けを求めた。
体力も根気も奪われながらも、他に縋れるものはなかった。
しかし、向けられたのは軽蔑だった。
同類。
あの気持ちの悪い三日月と同類だと思われているのだ。好きでこうなっていると、これもまた余興の一つでしかないのだと。宛ら汚らしいとでも言うように。
この世に助けも縁もない。
あるのは、身一つ。我が身を守れるのは誰もいない。
この手ですら、力になれない。
逃げたのは一瞬の隙をついてだった。
漸く出られた外は決して安全地帯などではなかった。追いかけてくる恐怖との討ち合いにならなかった。
逃げて戻った先で倒れ込む。
訝る目など知ったことではなかった。束の間の安息を得たかった。
だが、それすらも叶わない。
執念だけは深く、軽快な音が反比例するように恐怖を表した。
さっと蒼褪め、何事もなかったかのように取り繕う。
ここは、人前であると言うように。
三日月が笑う。にたにたと。
ぎょろりと瞳は歩き、見世物でも愉しむかのごとく。
背中を冷たい汗が這う。それすらもあの這いずりまわった感触に似て、気色が悪かった。
時間との戦いだった。
やがて気が済み、瞳は去る。
そうして、向けられる疑いの目に、何も言わなかったことに感謝した。
たったこれだけのことで救われた気がした。
→return