黄昏の弦
「おかえりなさい」
 とびきりの笑顔で、可愛らしく微笑んで出迎える理想の妻。箱入りの淑やかな何処ぞの令嬢ではなく、旦那の帰りを健気に待つ可愛い妻。
 それが、俺。
「ただいま」
 仕事から帰った夫は、疲れた顔で笑った。
 優しい笑顔は俺だけに向けられるもの。
「ごはんにする? お風呂にする?」
 それとも、俺? とは、言わない。
 可愛い妻は、そんなこと言わない。知っていても、言えない。
「先に風呂に入るよ」
「分かった。お湯はもう張ってあるよ。後で着替えとタオルを持っていくね」
「うん。ありがとう」
 夫は、俺に鞄を託して風呂場へと消えた。
 夫と住む大きなマンションの一番上。広い部屋。
 夫の鞄を私室に置いて、着替えをとる。
 脱衣所にはワイシャツとスーツが籠に入っているので、どちらも皺が出来ないようにハンガーにかけた。明日クリーニングを取りに来てもらう予定だ。
 それを終えて、キッチンに戻った。
 夫の好きな洋食。スープと、パンと、ひらめのムニエル。
 ワインは、ちょっといいものを。ワインセラーから白ワインをとり、ゴブレに注ぐ。
「……ククッ」
 まるで、少女漫画の世界。この俺が、こんなことをしているなんて。
 夫に献身的に尽くし、愛される妻となる。休日には、二人でデート。
 けれど、その実夫のいない間に不貞を働き、一体何人に抱かれたのかも覚えていない。そのうち俺の動画でもばらまかれるんじゃないかと思うと、嗤えてくる。
 夫は俺が何も知らない可愛い妻だと思っている。可愛い妻が何人もの男を咥えこんで離さないことも知らず。
 この俺が。
「クク……ッ、ハハ!」
 ああ、楽しい。
 人を騙し、罪悪感と背徳感を味わうなんてゾクゾクする。
 ワインを注ぐ音が、まるで砂時計に見えた。タイムリミットは、今日か明日か。中の砂は中の人間には見えない。いつか砂と共に堕ちていく。
「楽しそうだね」
 皮肉る声に、三日月を象った唇が一文字に引き結ばれた。
 振り返ると、まだ濡れた髪のままの夫が腕を組んでドアに寄りかかっていた。優しげに緩められた唇とは対照的に、瞳は熱い。
 熱い? 冷たいではなく?
「純」
 声は、冷たい。
「そんなに楽しいかい?」
 唇と、瞳と、声と。全ての温度が狂っている。
 喉元を唾が嚥下する。大きな音と共に。
「今日の相手は、そんなに良かった?」
 今まで見ていた夫は一体なんだったのか。
 こちらが騙されていたような感じが、夫の纏うものから伝わる。
「な、に……」
「何? まさか、私が知らないとでも思ったか?」
 夫は、徐に俺の方へ進み、通過し、ソファーの後ろの戸棚を開ける。
 次の瞬間、幾枚もの髪がばらまかれた。
 否。
「こ、れ……」
 それは、写真だった。
 俺が別の男とホテルに入るところ。ヤっているところ。いつのまにか販売されていたDVDのパッケージ。
 全部に俺がいる。
「可愛い妻の行動を私が把握していないと思ったのか? 好きな人のことならなんでも知りたいだろう?」
 知らない。好きな人なんていたことなかった。
 そんなことすら言えない。
「なんだ? 想像していなかったという顔だな。騙された、と思ったか?」
 淡々とした口調。この人は、こういう風に話す人だっただろうか。
 砂上の楼閣がさらさらと崩れる音がした。
「純。私の可愛い純」
 夫との間にあった距離は一瞬で埋められ、頬にするりと伸びた腕に捕らわれる。
「純。愛しているよ。それでも」
「っ、」
 掌の上で転がして遊んでいた。それが、実は夫の掌の上で遊ばされていた。
 何が騙している罪悪感と背徳感。何が遊び。
 夫には、それすらも意味のないことだったのだ。
「ざけんな!」
 冷たく感じた掌を、音をたてて払う。
 許さない。俺を騙すことは、絶対に。
 視線がかち合う。全身で睨みつける。
 夫は、笑みを崩さない。
「楽しいかよ! 俺を騙してたんだからな!」
「楽しい?」
「ハッ、今更。俺は騙されるのは嫌いなんだ! 何が悪い! 不倫して、騙して、俺がすることの何が悪い! 今まで散々イヤな目にあってきたんだ。だからしてやったんだよ。不幸になろうがどうなろうが知ったことじゃねえ。俺がされてきたことをしてやったんだよ」
 ろくな目にあったことがない人生。
 信じては裏切られ、普通にしているつもりなのに奇異の目で見られる。ならばと、仲間に入れてもらえるよう頑張っても、いつしか悪いところばかりが目立つようになってしまって。
 離れていく。
 嫌いという目が俺を見る。
「いいじゃねえか……一度くらい……」
 もう今までバカな目にあってきたんだ。
 仮令、心がキリキリとネジを回しても。
「純」
 ゾワリ。
 全身が総毛立つ。
 優しくするりと入り込んでくるような、声。
 事実を知っても尚変わらない。
 変わらない?
「いいよ。最終的に私のところに帰ってくるんだから」
「まさよし……さん?」
「勿論、閉じ込めたりしない。ああ、私がくたばったら遺産も好きにするといい。いつでも純名義に変えられるよ」
「……」
「愛しているよ、純」
 俺は、悟った。
 キスの雨が降り注ぐ中、枷のない檻の中に閉じ込められたことを。
 夕暮れ時の、燃えるような黄金。優しさを纏って、その腕の届く範囲を広げていく。
 何処へ逃げようとも、ぐんぐん伸びる腕は追いかけてくる。
     
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