日没の鐘
いつからか、なんてものは明確には覚えていない。
キリキリ。キリキリ。気付けば、ネジはおかしな方へ回っていた。
それに気付いたところで今更どうしようもなかった。流れに身を任せ、本能に従うしか残されていなかった。
流れのままに生きている方が楽だ。
抗うことは疲れて、生きていることさえ苦痛に感じる。それがどうだ。流されていると罪悪感など消え失せ、揺蕩っていれば望みのものが手に入る。ならば、このままでいいではないか。何故わざわざ抗う必要がある。
どうせ抗ったところでこの手に入るのは何もないのだから。
抗って何かを得られるのはほんの一握りの存在にのみ許されたこと。
俺は、選ばれた人間ではない。そんなこと、分かっている。
分かっていた、はずだった。
「あ、あっ、あっ……」
嬌声が暗闇に響いた。
ぐじゃぐじゃ、と煩わしい水音が耳を掠め、声と合わせて犯してくるようだった。
耳から侵入してくる音はとろりとろりと忍び寄り、思考回路すらも断ち切ってしまう。
この快楽に流される瞬間が、好きだ。何も考えなくていい。支配される瞬間。
「は、ぁ……ぁっ、あ、アァアアアーッ!」
じわじわと迫りつつあったものが解放され、頭が真っ白になった。
身を起こすことも億劫だ。
熱い肌が頬から胸、と重なり、どくどくと脈打つ鼓動に耳を澄ませ、心地いいリズムに瞼を下ろした。
「今日は、帰るのか」
男が、問う。
寡黙なこの男との会話なんて両の手で数えきれる程度で、抱き合った回数の方が多いくらいだ。他の男達は気障たらしい台詞を次々と舌に乗せ、思わず笑いそうになってしまったことも一度や二度の話ではない。人形を相手にしているわけじゃなし、口ぐらい開けばよいものを。
胸板に預けていた頬を離し、顎を乗せた。
暗闇で男の顔は見えないが、相変わらず表情ひとつ変わっていないのだろうと容易に想像がつく。絶対顔の筋肉が凍っているに違いない。
「んーどうしようかなぁ?ねぇ、どうしてほしーい?」
わざと甘ったれた猫なで声を出す。帰らないで欲しい、と相手に言わせるための常套手段で、ついでにそろと胸を撫ぜることも忘れなかった。
だが、この男はあくまでも鉄仮面だった。
俺の手を跳ね除けることもせず、気のない声でどちらでもいい、と答えた。
本当に気に食わない。
「ならなんできくの?」
「帰るなら風呂にいれるし、帰らないなら寝る」
「んもう、酷いんだからぁ」
俺がここまでやって義務のように言って来る奴も、こいつくらいだ。後は俺に魅せられて、帰らないでくれと縋り付いて来る奴らばかり。面倒であれば跳ね除けるし気が向いたら相手してやる。あくまで選ぶのは俺でなければならないのに。
こいつの場合、俺が選ばせてもらってるような気になるから腹立つ。
しかし、表面上はそんなことなどおくびにもださず、どうしようかなぁ、と擦り寄った。
今日は何日だっけ。ああ、夫が帰ってくる日だ。今日こそはこの鉄仮面を陥落させてありたかったのに。
「今日は帰るね」
「そうか」
「シャワーは自分で出来るから」
あえて素っ気なくしても、男は全く動じた様子もなく早々に寝る体勢に入った。やっぱり腹立つ。
心の中で中指を立てながら、脱ぎっぱなしのシャツやスラックスをとって、シャワールームに入った。
俺は、結婚している。書類上は養子縁組だが、相手は男だ。社会的にも名の知られている人で、俺に一目惚れしたと猛アタックしてきた。
三年前、俺がついに折れて入籍した。―――表面上は。
俺は別に折れても気があるわけでもない。こいつなら、遊びやすそうだと思っただけだ。後は財産。
俺は昔から何処か頭のネジが何個か失くしているんだと思う。生きていく度に、ひとつ、ふたつ、と。そうでなければ、不倫だなんてしない。それも、不特定多数の相手と。
今日の相手は大企業の社長だが、しがないオッサンや若い女、チャラついた若造など選り取り見取り選びたい放題である。俺の顔は人を惑わせるらしい。
まあ、それも数年前に整形して創り上げたものなので紛い物でしかない。
セックスは気持ちいい。誰としても楽しいし、ずっとしていたい。でも、一人に限定したくはないし、いろんな相手と楽しみたい。ハーレムなんかあったら最高だ。
けど、日本は一夫一妻制だし、これは法的に不貞である。だからと言って罪悪感だなんてこれっぽっちもないわけだが。
今日の相手はどこかの大企業の社長だが、一代で築き上げたカリスマ社長である。寡黙で表情ひとつ変わらない。セックスの時も同じ。セックスは横暴で、尿道拡張なんかもされてそろそろガバガバになってるんじゃないかとひやひやしてたりする。
それでもこのゲームをやめられないんだから末期だ。
旦那に不満があるわけでもない。否、旦那の事すらどうでもいい。快楽さえあれば。
ばれたところで慰謝料を払えばいいだけだし、それも身売りすればどうにかなる。俺はセックス好きだし構わない。
適当にシャワーを浴びて部屋に戻ると、男は眠っていた。なんてやつだ、と思うもこれも男らしい。
思わずくつり、と笑ってベッドの端に腰掛けた。
暫く男の顔を眺めて、俺は部屋を後にした。
「……純」
パタン、と閉まったドアの向こうに消えた人物の名を呟く。
一度も教えてもらったことのない名前を。
いつだって掴み所がなくて、存在さえ危うい。それなのに人の心を掴んで離さないから余計にたちが悪い。
心に沸き立つ感情はいつだってごうごうと燃え立ち、嫉妬の炎が噴き出してしまわないようにするので精一杯だ。
掴もうとしてはいけない。
だが、掴んで、と言わんばかりの行動に翻弄される。剰え、それも悪くないと思わせる魔性の魅力。どうやったらあんな人間がこの世に存在するのだろうと、気が気ではない。
「純」
なんだって知っている。名前も、経歴も、住所も……婚姻歴も。
それでも尚つれない男であるのは、この胸に宿る業火を露わにしてしまえば切られると分かっているからだ。そして、横暴に振る舞うのは名残を残したいからだ。
そうまでしても手に入らない。
それなのに惹きつけられる魔性。
「もう、おしまいだ」
しかし、遊びは終わりだ。
こちらだって我慢の限界はある。相手は貞淑な妻ではなく、不貞の妻。ならば、奪うことも容易い。
遊び相手の一人で有り続けるのは、怯え続けることと同じだ。それは、性に合わない。
「籠の中に閉じ込めたりはしない」
そう。大好きな快楽の地獄に落としてやるのだから。
「ゲームスタート」
始まりの鐘が、鳴った。
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