陰楼の夢
「あにさま、どこへいかれるのですか」
 子供には、十以上も離れた弟がいた。と言っても、父が通う未亡人の子供であり、過日とうとう儚くなったところを哀れに思って引き取ったらしい。
 弟は人見知りをしない元気でよく懐く愛らしい子供だった。おっとりとした母も子供を可愛がり、父も小さな弟を目に入れても痛くないほどに可愛がった。大きくなってしまった子供には可愛げがなくなってしまったと散々文句を募らせて。
 斯く言う子供も弟を可愛がっていた。
「すぐ終わるよ」
 どこへ、とは告げずに優しく微笑む。
 弟はじっと、小さな顔立ちには似つかわしくない大きな目で子供を見詰めた。束の間、瞬き一つ零すことなく視線を向けて、子供はにっこりと笑った。
「おかえりをおまちしております、あにさま」
「ああ、すぐ帰るよ」
 小さな頭を撫でると、白い柔らかな頬を赤く染めて喜んだ。
 こういう素直なところを見ると、子供はなんとも言えない気持ちになる。
「あにさま、はやくかえってきてくださいね。まっております。ちゃんと、いいこでまっております。だから、はやくかえってきてくださいね」
「ああ。私もいい子だから早く帰るよ」
「はいっ」
 小さな手を大きく振り回し、弟に見送られて子供は邸を後にした。
 だが、その約束はついぞ果たせぬものとなることを子供は予想だにしていなかった。
「××××っ、××××っ!」
 子供は慌てて邸に取って帰った。しかし、そこは燃え盛る炎が占拠し、住人を悉く焼き尽くしていた。
 炎の勢いは時を追うごとに強さを増していく。
「父上、母上!どこにいるのですか。返事をなさってくださいっ。××××っ、帰ったぞ!××××!」
 人骨さえも焼き尽くす炎の中では無力だった。
 子供は、炎の中に突っ込んで行った。だが、新たな獲物を見つけたと言わんばかりの炎に飲み込まれそうになるばかりか、舞い上がる煙がたちこめていた。とてもではないが、奥に進むことは出来そうにもない。
 しかし、あの炎の中に父や母、小さな弟までいるのだ。残った自分が守らなくてどうするというのだ。
 意を決し、飛び込もうとした。がしかし、駆け付けた大人によって引き留められ、子供は崩れゆく邸の中から連れ出されてしまった。
「離せ!離してくれ!」
 子供の訴えに、大人の力は強くなるばかりだった。そんなことをしてはいけない。折角拾った命を無駄にする気か、と。
 違う。無駄にするのではない。ここで助けにいかなかったら、それこそ死んでしまう。無力感と、無念で押し潰されてしまうだろう。
 けれど、子供の尽力虚しく。残ったものは何一つない。あんなに焼け広がっていた炎すら残らなかった。父や母、小さな弟の命すら奪って。
 この情念を一体どこへぶつければいいのか。命を奪われた炎すら残らず、何を罵ればいいのか。
『あにさま。はやくかえってきてくださいね』
 小さな弟の声が蘇る。
『ちゃんといいこでまっていますから。だから、はやくかえってきてくださいね』
 すまない。早く帰ってこれなくて。いい子な兄ではなくて、すまない。
 すまない。
 ちゃんと、愛してやれなくて。
 気付いていた。母親に愛情の片鱗すら見せられず、いつも窺うように見ていたことを。弟を厭っていることに気付いていながらも、縁を離すまいと懸命だったことも。笑いながら、心の中では悪し様に罵っていたことに感づかれていたことも。
 それでも、上辺だけの兄弟を続けた。弟を可愛がり、いい兄でいた。
 知っていた。
 それでも、ずっと帰りを待っていたことを。
 ずっとずっとただ一心に頼っていたことを。小さなその手や背で負いきれないほどの悲しみと些細な願いを抱えていたことも。
 全て知っていながら出掛けた。帰ってくるからと、菓子を与えるように。
 その結果がこれだ。
 失ってから気付くとはよく言ったものだ。言葉通り、もう帰りを待っていてくれる小さな掌すらないと悟ってから気付く。いつだって、待っていてくれたから帰ってくることが出来たのだと。
 厭っていた。どうせ父の新しい愛人の子だ。加えて、血の繋がりがあるわけでもないと。
 けれど、健気に兄に「かえってきて」「いいこでいるから」と願う姿に、雪解けの春を迎えていた。物事に動かない心が揺れた。
「××××!」
 帰ってきてくれ。いい子でいるから。愛しているから。あにさまは、ちゃんと帰ってきたから。もう置いて行かないから。
 帰ってきてくれ。いい子だから。もう十分すぎるほどに。
 もう厭ったりしないから。帰ってきていいから。
 お願いだから。










 俺には、年の離れた兄がいる。十以上も年が離れた兄だ。血は繋がってない。母さんの再婚相手の連れ子だ。
 母さんの再婚相手は裕福な家で、母子家庭で今を生きるだけで精一杯の暮らしとは正反対。
 新しい父は人の良さそうな笑顔で俺を出迎えてくれた。けど、コイツは何をするかわかんねえ。血の繋がった父も俺と母さんをボッコボコに殴るようなヤツだったけど、近所には笑顔を振りまいていた。いつ化けの皮を剥がすか分からない。母さんはおっとりとしたところがあるから俺がしっかりしていないと。油断は出来ない。
 母さんの後ろで新しい父親を品定めする。今のところ、母さんには手をあげたりはしていないようだ。
 だが、敵は一人ではない。
「ん?どうしたの?」
 優しい笑顔を浮かべていながら、実質あの新しい父親よりも油断ならない敵がいる。
 父親の連れ子で、十以上も年が離れている。いつも優しい笑顔をしているけれど、嫌悪が行動の端々から滲み出ている。
 コイツも敵だ。俺を嫌いなんだ。油断したらいけない。
 いつでもこの家を母さんと出ていけるように毎日探検した。荷物もちゃんと纏めている。
 新しい父や兄が母さんに酷いことをしたら、いつでも母さんを連れて逃げられるように。だから大きい家から外への道もちゃんと知っておかなきゃ。
 そう思っていたのに。いつのまにか迷ってしまった。気を付けてはいたのだが、いつもより少しだけ奥深いところに入ったら道が分からなくなってしまった。
 どうしよう。今頃アイツらが母さんをいじめているかもしれない。俺が迷子になんかなったから心配してるかもしれない。
 どうしよう。母さんが泣いていたら、どうしよう。また、母さんが泣いたら。助けに行けない。
「ふ、……っ、うぅぇえええええっ!」
 どうしよう。
 帰れなくなったら。
「××××!」
「う、え……?」
「このバカ!何してるんだ、みんな心配して」
「う、うぇええええええええっ!」
「っ、」
 コイツは母さんをいじめるかもしれない敵なのに。俺は、無我夢中で抱き着いた。離したくなくて、しっかりとしがみついた。
「……安心しろ。一緒に帰ろう」
「うんっ、うんんんっ」
 頭を撫でてくれるあったかい手が、俺の不安を吹き払ってくれた。
 その後、邸に戻ると母さんと新しい父にこっ酷く叱られた。部屋にまとめてあった荷物も見られて、全部白状させられた。
「そんなことあるわけないでしょう!」
「僕は、お母さんをずっと大事にするよ。ずっと、××××のことも可愛いよ」
 ぼろぼろに泣きながら怒る母さんと、泣きそうに言う新しい父に、もう大丈夫なんだとなんでだか思った。
 それから、俺はもしもを考えなくなった。
 父さんの優しさも全部ちゃんと受けとめられるようになった。母さんも笑うようになった。
「××××、あにさまとお庭を散歩しよう」
 それは、俺にとことん優しい兄のせいもあるかもしれない。
 あの日から一転、厭うようなものがすっかり消え失せて、兄は俺に構い倒すようになった。一人でいる時間が少ないほどだ。
 一緒にいないのは、兄がどこかへ出かけてしまう時。それも本当に偶にのこと。父について、何処かへ行ってしまう。俺の知らない何処かへ。
 けれど、以前よりは何処かへ行く回数も減ったと聞いた。
「あにさま、お出かけですか」
「ああ。なるべく早く帰るよ」
「早く帰ってきてください」
 今では俺もすっかり打ち解け、甘えた言葉が出てくるようになった。
「お土産も何もいらないから。だから……」
 俯いた俺の頭に、兄の大きな掌が乗る。
「お土産も買って帰るよ。早く、とびきり早く」
「はい」
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 車に乗った兄が、見えなくなっても俺はずっと待った。
 やがて、本当に両手にお土産を抱えて、父を置いて帰ってきた兄に俺は飛びつく。
「おかえりなさい、あにさまっ」
「ただいま、××××」
 その後、兄が仕事も放って帰ってきたことを父にこっ酷く叱られることになるのは、いつもの光景である。「ごめんなさい、俺が悪いんです」と、涙ながらに訴える俺がいることも、また。父は怒るに怒れなくなり、これが日常化しつつあることにうんうん悩むことになるのである。

『あにさま、おかえりなさい』



     
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