乞い登り
今は昔、神が世を捨て外の神が降り立った頃。
世捨て人となった神には、いくはしらもの子がいた。その内のひとはしらは、他の子が神に従い世を厭う中、人の世を捨てなかった。
いつもいつも天から人の世を眺めていた。
ある日、とうとう好奇心に負けて、人の世に降り立った。この神も、さる神と同じく人に姿を変えず、神々しいまでに美しい姿で現れた。
しかし、人里に近寄ることはせず、日がな一日風に身を委ねて呼吸をするだけの日々を送った。掃除をすることも飯を食らうこともなく、はたまた着物を洗濯しに行くこともなかった。
酷い雨の日だった。竹藪の方から異なった空気を感じ、神は足を運んだ。滅多に動くことはせず、時たまに人里に目を飛ばして人の様子を窺っては好奇心を満たしているような神だったが、この時ばかりは好奇心が勝った。
嘗て、母なる神を裏切った人の子。人に虐げられ、瞬きほどの命を早くも終えようとしていた。退屈凌ぎに生かされ、恩恵を与えられ感謝していたが、次第に虐げた人と同じように身を滅ぼした。
はてさて、今度の人はどうなるのか。
竹藪を大分進んだところで、人が転がっていた。大の字になって、ひっくり返っている。息も小さく、命も僅かだった。
奇しくも、神はかの神と同じ状況に陥ったのである。面白い、と笑った。
この人は、どうなるのか楽しみだった。
そして、人は願った。
あの時と同じように、かすれそうな吐息に紛れて。小さな声で。ともすれば、聞き逃してしまいかねない、けれど万能なる神の耳には届いたたった一言。
生キタイ。
神は、面白いと笑った。
母なる神と同じく、命を乞われたのである。どうしようかと、人を見下ろしていると、徐々に人は息を止めようとしていった。
人は、普通の家に生まれた。兄弟もいた。
けれど、飢饉で一変した。父は母を売り、兄弟は小さい方からいなくなっていった。代わりに、次の日の飯には肉が出て来た。人は知っていた。それは兄弟だったものだと。いずれ人も同じように食われるのだと。
ぞっとした。昨日まで隣で寝ていた兄弟が、朝には飯になっているのだ。いつ自分がそうなるのかと怖ろしくてならず、月が出た頃を見計らってそっと家を抜け出した。すると、気付いた父が鉈を持って追いかけてきた。鉈にはべったりと血がこびりついており、新しい血もあった。
ああ、また朝餉が出来てしまったのだ。人は理解した。まろびながら、くたくたになっても駆けた。後ろでは兄弟の声がした。助けて、だとか、逃げろ、だとか。口々に勝手なことを言って。鉈を持った父に飛びかかり、止めてくれた兄弟はまず朝餉になった。
そうして逃げて逃げて逃げて、とうとう父に追いつかれた。父は鉈を投げ、人の背に切っ先からずぶりと音を立てて刺さった。
土砂降りの中、人は倒れた。もうだめだと諦めた。
けれど、声がする。
逃げろ、と。先に朝餉になった兄弟が、生きろ、と勝手な願いをぶつけていくのだ。
人は再び走った。そうして、竹藪の中へと入り、いつしか歩くこともままならず血を吐いて倒れた。
人は悟った。もうここで終わりだ。逃げろと、生きろと、兄弟は願って朝餉になっていった。けれど、もうくたくただった。もうすぐ父も来るだろう。今度こそ自分は朝餉になる。
そこへ、現れたのは神々しい光。じいっと自分を見つめる一対の眼差し。
それが、何かは分からなかった。
しかし、人は願った。
生キタイ。
光は、終えゆく命をまじまじと眺めていた。
ああ、もうだめだ。願いが叶うこともない。
終わりを悟った。
最後に浮かんだのは、最後に食べた夕餉だった。母が作ってくれて、兄弟もみんないないなんてことはなくて、揃って、父もいた。みんなで最後に食べた夕餉のなんとうまかったことか。
涎を垂らし、人は笑って、終わった。
それから、半月が経った。そうっと目を開けると、そこは家のようだった。人は笑った。死んでも同じように家があるのか、と。
しかし、声がそれを笑った。
死んで笑えるのか、と。
そこには、神々しい光があった。否、神がいた。
人が目を丸くすると、神は生かしてやったという。願いを叶えてやった、と。
一体どういうことか、と目を疑う人に神は笑っただけだった。
そうして、神と奇妙な生活が続いた。神は母なる神と同じく目をくりぬいて与えてやり、命を助けてやったので目が一つなかった。片方は闇に包まれていたがさして困ることもない。
しかし、人は己のせいだと悔い、何かとあっては神を支えようとする。邪魔だと払い除けても、お願いですからさせてくださいと泣く。仕方なく思う通りにさせるが、こそばゆいことこの上ない。
人は何処へ行くにも神を側に置いたし、神が何処へ行くにもついていった。
なぜそうするのか。ある日神は問うた。
すると、人は悲しげに笑った。そうしたいからするのです。
そうして、言った。
あなたと同じ存在になりたい、と。
まさか、かの人と同じ願いをもう抱いたのか。神が驚いていると、人は言った。
あなたの目を返して差し上げられる存在になりたい。
あなたより命短いこの身が恨めしい。生涯をあなたに捧げたいのに、私にはこれくらいしか出来ない。と。
神は、驚き言葉を失った。
嘗ての人は、命も、富も、繁栄も手に入れた末に、神と同等の存在になることを願った。
けれど、この人は全てを捨ててただ神と同じでありたいと願う。
同じ神に命を救われた人が、全く同じ答えを、全く異なる方法で願ったのである。
神は、腹を抱えて笑った。
やがて、人は里へ降りた。何も言わず、神の元から去って行った。
それから、幾年も幾年も月日が過ぎ、桜も若葉も紅葉も雪も見飽きた頃になって。神は人里へ降りた。
そこには、一匹の鯉がいた。仲間すらおらず、池の中を泳いでいた。
それは、神に救われた人だった。
どうしたことか。神が首を傾げると、鯉は言った。
あなたと同じ存在になれずとも、あなたを支えられる存在になりたくて、神に願いました。神は、私をこの姿へ変えました。
神は、目を丸くした。とてもではないが、人よりも頼りない存在だ。
しかし、人は言う。いいのです。いいのです。これは、私の願いの果てなのです。
神が残された目をくりぬこうとすると、やめてくださいと、命を絶とうと地に下りようとする。
神にはなんの手立てもなかった。
鯉は言う。
お約束いたします。いつか、あなたの右目の代わりに、あなたをお支えいたします。ですから、それまで待っていてください。
神は、約束を代わりにして、住処へと戻った。神にはどうしようも出来なかったし、約束は神を連れ戻した。
神はどうにかしようとあれこれ探ってみたが、如何とも出来ず。頭を抱えた。よもや神が人の子を救い、その想いに打ち拉がれるとは。
そうしている間に、鯉の命の終わりがやってきた。
神が池を訪れると、鯉はぷかぷかと浮いて、その命を終える間際だった。
神は、泣いた。
鯉も、泣いた。
ああ、泣かないでください。この私のために、残されたあなたの目からそれ以上宝玉を落としてはなりませぬ。
しかし、刻々と命の終わりは近付き、とうとう鯉は息も出来なくなった。
神は、初めて声をあげて泣いた。
ああ、人と関わってしまったが故に、このようなことを知ってしまった。母なる神ように
裏切られればよかった。いっそのこと、憎んで、恨んで、辛さを消し去れたら良かったのにと。
はらはらと落ちる神の宝玉の雨は、鯉の上にぱたぱたと落ちた。やがてそれは光となり、鯉の鱗に張り付く。
光が集まり、鯉の身を包んだ。
すると、光は閃光となり、徐々に大きく姿を変え、あまを駆けた。
光が弾け、一匹の竜が現れた。
神が驚いていると、そこには外つ神が現れた。
嘗てこの地を治めし神の子よ、あなたの愛した人の願いに、私は胸を打たれました。もし鯉の姿を厭うて、人に戻りたいと勝手を言うならば、命短い鯉よりも早く一生を終わらせたでしょう。しかし、人はそれでもあなたを支えたいと願いました。私はその心に応え、その願いを叶えてやりました。
そうして、竜を一瞥した。
人であった子よ。あなたに命の終わりはありません。この神と同じく、永い永い時を生き続けねばなりません。さて、あなたはその永い時間を共に生きることが出来るでしょうか。命の終わりを願わないでしょうか。
人であった竜は、言った。
ありがとうございます。私は、やっと目の代わりになることが出来ます。この背に乗せて、揺れる大地の代わりになることが出来ます。
竜は、神の前にこうべを垂れた。
お願いいたします。私をおそばに置いてください。あなたのなくした右目の代わりにさせてください。
神は、竜を撫でてやった。硬い鱗に覆われた身体は、鯉のように軟弱でも、人のように柔らかくもない。
けれど、心は変わらず同じだった。
神は竜の背に跨り、そらを駆けた。
それから、神は時には天の母なる御柱の元へ、また時には人の世に降りたという。金の竜と共に、永い永い時を人と神の間で暮らしたという。
     
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