忘却の里(理想郷)
昔、神がいた。
この国にはやおよろずの神がいるが、神は一人だった。天の神も地の神も存在しない時。
神はずっと一人だった。天から人の世を眺めては眠り、退屈凌ぎに人の願いを聞いたりした。叶えることはなかったが、神が神としてそこにあるだけで人は崇め奉った。
そもそも神には力などなかったので、願うだけ無駄なのだが。そんなことは人が知る由もなく。
ある日、あまりにも退屈が過ぎて、とうとう神は人の世に降りた。禁じられているわけでもなかったが、進んで人と関わろうとも思わなかった。人は神と異なる存在だ。所詮交われるわけもない。
人の世で生きていると、案外人は面白かった。神には思い付かないことをしてみせたり、本気で片腹痛いことをする。人の思考は神が思うより複雑怪奇で、単純明快な神からすればわざわざ生きにくい道を選び、進んで不幸を歩んでいるようにしか見えなかった。
ある日、神は一人の人間と出逢う。まだ小さな人間で年の瀬は五つにもならないだろう。か弱くも微かな息をしていたが、放っておいてもすぐに死ぬ。手厚く看病したところで十にもなれないだろう。
この先生きたいと苦しむくらいなら今ここで死んだ方がいいだろう。神は放っておくことにした。
けれど、人は立ち去ろうとする神に願った。力もなく、退屈して飽き飽きしていた神の足を掴んで。
死に際の人間はこんなに力が出せるのか。これが噂の火事場の馬鹿力というやつか。神は笑った。面白い。今にも死にそうな命が、最後の最後に力を振り絞って何を願うのか聞いてみたい気もした。
人は、途切れ途切れの声で願った。
生キタイ。
こんなところで死にたくない。
人は生まれた時から弱く、人の親は大層心を痛めた。朝に夕に人に死なないでくれと言って看ては、神に祈り、心を尽くした。けれど人の命というものはどうしようもないもので、日に日に弱っていく脆弱な人に、段々と苛立ちを募らせた。生きていくこともままならないのに、食い扶持だけは自分達よりとる。将来働き役に立つことも見込めない。
人の親は、人を看ることをやめて、小さな人を殴っては役立たずめと罵った。ろくに言葉も喋ることができない人を蔵に押し込め、飯も与えずに放った。
しかし、思い出せば腹立たしいので、引っ張り出しては殴った。
ある日、もう我慢ならないと切りつけ、森の中に捨てた。
人は、もう間もなく死ぬのを感じた。生まれてこのかた弱い体に生まれ、殴られ、切られ、もう残り少ない命は止まったら動き出すことはない。二度と。
そこへ現れたのは神々しいまでに美しい神。まるで旅立つ自分を迎えに来た使いのようだ。人の世の輝きではなかった。
願ったのは、多分その輝かんばかりの美しさのせい。願えば、叶えてくれるような気がした。きっとそれさえも幻と分かっていても願わずにはいられなかった。ろくでもない一生を、このまま終わらせるには、最期に見たものは美しく希望に満ち過ぎていた。
神は、面白いと笑った。叶えてやろう。その願いを。
そんなはずはない。人の命を長らえられるわけがない。人は、笑った。それでもせめてもの慰めには有難い。
神は万能ではない。だから、願いは叶えられない。
けれど、願いを叶えてやる術は持っていた。
神は己の目を片方くり抜いた。
この目をやろう。代わりに、お前の人の一生を貰い受ける。
目を人に与えると、驚くことに人の命が動き出した。再びはなかったはずの命が、確かに音を刻んでいた。
神は人を住処に連れ、傷の手当てをしてやった。
人は七日目を覚まさなかったが、傷が癒える頃には起き上がれるようになり、生きていることを知ってありがたやと涙ぐんだ。この命を救っていただいた恩を決して忘れはしないと。
それから、人は神と暮らした。神は人とあまり関わらずひっそりと生きていたので、二人しかいなかった。退屈はせず、のんびりと暮らす神に付いて回った。
そうして、五年が過ぎる。
人は、流行病に罹った。
あの時救ってもらったこの命、恩も返せぬまま失うことになろうとは惜しくてなりませぬ。人は神を一人残してしまうことに泣いた。
神にはよくわからないものだったが、それでも人が泣いて恩返しも出来ないというので生かしてやることにした。
今度はもう片方の目をやった。すると、忽ちに人は元気になり、起き上がれるようになった。
しかし、神が両目を失い、二度と光も拝めないと知ると、涙に明け暮れた。私が目になります、と。
言葉通り、人は光も見ることが出来なくなっ間神を支え生きた。神は光がなくとも生きる存在とは異なったので、構いはしなかったのだがさせたいようにさせた。
そうして一年が経った頃。人は誤って谷に落ちてしまった。光のない神の代わりに、向こう岸まで橋を渡ろうとしたが、朽ちていた。
今度こそ人の命はない。
人は、願いを唱えることもなく命絶えていた。否、僅かに雫ほど残った命があった。ほんの僅かな命は、けれど瞬き一つの合間に尽きてしまう。
生キタイ。
神は、声を聞いた気がした。ずっと耳から離れない声。
神は手をやった。すると、またもや人はその命を動かし始めたではないか。
今度こそ命はないと思われたというのに、返ってこれたことに人は喜んだ。しかし、手のなくなってしまった神に、人は嘆き悲しんでこの命を生きながらえるくらいならばあなた様の手をお返ししますのにと泣き伏した。どれだけ宥めても、人は泣き止むことがなかった。
人は、自分がそばにいれば、神の一部を奪ってしまうと人里に下りた。約束を違えた人を神は怒ることはなかった。いい退屈凌ぎにはなったが、人が泣いてあなた様のそばにいることは出来ないのですと言うから追いかけることもしなかった。
そうして、十年の月日が流れた。
人は妻を持ち、子供もいた。貧しいながらも慎ましやかに生きていた。
けれど、ある日子供が病に倒れた。身体の弱かった人に似て、子供は病がちだった。
医者にはとうとう明日をも生きれるか分からないと宣言され、人と妻は嘆いた。ああ、可愛い我が子よ。なぜ神はこのような宿命を背負わせたのか。
人は、毎晩子供についてやった。そうして、思いだす。ついぞ忘れていた、神の存在を。何度も自分を救ってくれた人を。
そうして、里を離れて子供を抱え神の住むところまで歩いた。
神は別れた日と何一つ変わらない姿で待ち構えていた。
人は願った。お願いです。可哀想なこの子をお救いください。なんでもいたします。ですから、お願いいたします。
久方ぶりに見えた人が涙を零し願う姿に、神は心は動かなかった。だが、こちらを見た子供の目があの日生きたいと願った人と重なって、願いを叶えてやることにした。
神は、子供にもう片方の手をくれてやった。
すると、子供は病も忘れて立ち上がったではないか。
人はありがたや、ありがたや、と感謝した。
里に下り、妻に子供を見せると泣いて喜んだ。今日を生きれるかもわからなかった子供がすっかり元気になったのだ。
人は神の住まう地へ僅かばかりの供えを置き、祈った。ありがたや、と感謝した。
それからまた一年経った。ある日、神の元へ人が訪れた。息も切らして、また願った。
お願いです。どうか人を殺してください、と。
人は子供のためにあらゆるところから金を借りていた。子供は元気になったが、取り立てに困り果て、子供を売らなければならないくらいだった。
里から逃げても何処かからやって来る。眠ることもままならず、妻は倒れてしまった。
神は願われるまま叶えてやった。
人を追いかけ金を返せと追い立てたものはいなくなった。代わりに、神は足を失った。
だが、半年も経たぬうちにまた人は訪れた。今度は金をくれという。子供が元気になり、追い回す人はいなくなったが、その日の暮らしもままならなくなってしまった。おまけに妻はまだ倒れ伏している。このままでは生きていけないと。
神は、もう片方の足の代わりに叶えてやった。
人はありがたや、といったその口ですぐに妻も治してくれと願った。金もあるのに妻がいなくては生きていけないと、涙で濡らして。
神は、腹をやった。人は泣きながらありがたやと、里へ帰った。
人がまた訪れたのは、三月の後。
人は噂が回り、里の人と話すこともままならないという。子供は悲しみ、金はあり、妻もあるのに、このまま人里では生きていけないと。
神は、胸をやった。すると、里の人は人のことをすっかり忘れて迎え入れてくれた。
それから一月も経たぬ間に人はまた訪れた。
商いをしたいのだが、才能もなく、折角ある金もなくなってしまう。生きていくためには必要なのだと。
神は、首をやった。すぐさま商いは成功し、人は富を得た。
人が里に下りてからそう経たないうちに、また訪れた。
顔だけになってしまった神を申し訳ありませぬと涙に暮れ、けれど人を纏めるためには
致し方ないのですと、里に神の顔を持ち帰った。神は外で生きていけないわけではなかったし、里にも興味はあったので付き合ってやった。
里は神を崇め奉り、豪勢な造りに神を住まわせた。
そうして、朝に夕に長蛇の列が出来、願いを言った。だが、神は気まぐれで人の願いを叶えてやる気はなかったので、何一つ叶わなかった。
代わりに、あの人の願いは叶えてやった。
歯の代わりに、沢山の子を。
髪の代わりに、里が逆らわぬように。
鼻の代わりに、多くの女を。
舌の代わりに、その女にも子を。
口の代わりに、人にも豪勢な造りの住処を。
頬の代わりに、うるさくなった妻を黙らせた。
顔の代わりに、孫を。
脳の代わりに、子々孫々の繁栄を。
そうして、神は少しずつ人にくれてやった。人は満足し、ありがたやと泣き伏した。
やがて、人の命の終わりが来た。今度こそ、病にも怪我でもない終わりだった。
退屈凌ぎにはなった。と、神は思った。
人は、病に倒れながら、願った。
マダ生キタイ。
神は、最後の心臓をくれてやった。
退屈にも飽きていたのでちょうどいいと。
神には何もなくなった。代わりに、人は尽きることのない命と、誰しもが持ち得ない全てのものを手に入れた。
尽きかけていたはずの命は動き、立ち起きた。
そうして、願った。
神になりたい。
しかし、神はもう願いを聞いてやれなかった。全てを人に与えてしまい、人の世に残れなかった。
人は腹を立てた。
役立たずめ。昔あれ程面倒を見てやったのに、この恩知らずめ。
そうして、神の住処を燃やし、嘗ての住処も跡形もなく消してしまった。
そして、神を悪しく罵り、天に向けて矢を放った。
神は、人の所業に怒った。
人の子の分際で不敬な。よくもやってくれたな。
許さぬ。未来永劫、許してたまるものか。
神は、人の永遠の命の代わりに、人の子孫の短命を。ある者は病に、または大きな汚れを。
里の人を殺し尽くし、誰も立ち寄れぬようにした。
里は阿鼻叫喚の地獄絵図へと姿を変え、化生がうろつくようになった。そうして、人は化生に怯え、死ぬことも出来ず、子の短命を見ていることしか出来なかった。富はあれど、医者も雇えない。女達も次々と死んでしまった。
里は次第に形を変え、黒い炎で焼き尽くされ、どろりどろりと変貌した。
神は、天に戻ってしまった。
外つ国から神がやってきて、里を不浄の地と洗い流すまで住む者はなかったという。
外の神は、天に昇った神を崇め奉り、怒りを鎮め給えと願った。貢ぎ物を捧げ、神のなくしたもの全てを返した。
神は、外の神が住まうことを許し、清めることも許した。
だが、もう二度と降りてくることはなかった。退屈凌ぎに人を見ることももうない。
外の神が治める地を捨てて旅立ってしまった。
     
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