君を、守る。
男には、妻がいた。幼い息子もいた。身体の弱い男には勿体無いくらいの良くできた妻と、息子だった。
妻とは見合いで、身体の弱い男に嫁いで来てくれた大切な女だった。父も母もそれはそれは喜び、妻を娘のように可愛がった。
息子は自分に似て身体の弱い子供だったが、初めて出来た妻との子だ。男は目に入れても痛くないくらいに可愛がった。父と母も息子を可愛がり、初孫を大層喜んでくれた。顔立ちは妻に似て愛らしく、幼いながらも秀でたところのある子供だった。
男は一年の殆どを寝たきりで過ごすことが多かった。身体が弱く、医者には二十を越えられないと宣言されていた。だが、結婚してからは調子も良く、今のままならば二十を越えることは出来るかもしれないと淡い期待を乗せていた。
あまり外に出たことのなかったためか、その日が待ち遠しくてならなかった。二十を越えたら、いつも息子が話してくれるところへ行こう。キラキラ輝く若葉、そよそよと音の鳴る花畑、居眠りをすると何処かからともなくやって来る猫のいる草原。
何処から行こうか。いつもお土産を嬉しく思いつつも、思い馳せることしか出来ない我が身を恨めしく思っていた。息子とともに歩きたかった。駆け回れなくてもいい。踏みしめて歩きたい。
だが、希望に溢れた日々はそう長く続くことなく。
終わりは、妻の失踪とともに訪れた。
寝たきりの男を捨て、別な男と妻は駆け落ちしたのだ。こんなはずじゃなかった、このまま老いさらばえるなんてごめんだと言い残して。
男は仕方ないと笑った。怒り狂う父と母を宥め、身体が弱く、まともな夫であれなかった自分にここまで付き合ってきてくれただけでも有難いと。
それから、みるみるうちに男の身体は暗転した。元々弱い男の身体は、結婚生活で気を持ち直したことによりほんの少し好転していただけ。妻が出て行ってしまったことにより、男は縋るものもなくなり、気も落ちてしまった。
二十どころではない。最早、明日を生きれるかも危うい。医者は最後通牒を出した。
それでも、男は笑うだけだった。
それは、唐突に終わりを告げる。
息子の姿が見えないのだ。どれだけ家の中をひっくり返し探そうとも、愛した息子の姿が見えない。
男には息子だけだった。父と母以外、何もなかった男には。仮令、自分を捨てた妻との子供であろうと、何よりも大切だった。
そして、息子は干からびた姿で発見されることになる。
父と母の住まう部屋の奥。男は知らなかった部屋があった。父と母が部屋を移っていることも、男は自分の寝床しか知らず、知る由もなかった。
そこに、息子はいた。愛くるしい面影もなく、ぞっとするような恐ろしい姿へと変わり果てて。
駆け付けた父と母は、あの女に似ている子供を許すことが出来なかったと言う。身体の弱い男を置いて、他の男の元へ走った女を許せなかったと。だから、女に似ている子供に飯も水も与えず、泣いても聞こえないような部屋に閉じ込め、餓死させたのだという。
男の腕の中にいる息子は、ガリガリで、頬は痩せこけ、三つになるはずなのにずっと小さく。目の下には隈が出来、唇はかさついていた。骨が浮き出ており、爪は血がべったりとついて剥げていた。扉に残った血痕から、助けを求めていたのだろうと分かる。
男は、泣いた。初めて、泣いた。
本当は、悔しかった。妬ましかった。許せなかった。悲しかった。
父と母が怒るから、怒れなかっただけで。女を八つ裂きにしてやりたいくらいに憎らしかった。息子のことを考えられるようになったのも、本当は会いに来れなかったのだ。妻に似た息子に酷い言葉を投げかけてしまいそうで。漸く落ち着いた頃に探したのだ。
だけど、死んで欲しいわけではなかった。いくら憎い女の血を分けた子であろうと、自分の子だ。結局行き着くところは、可愛いのだ。
もう男には息子だけだったから。
それなのに、息子を殺された今、男はどうすればいい。怒りを向けることも出来ず、愛することも出来ず、失った悲しみに打ちひしがれる。
こんなことなら生まれて来なければよかったのかもしれない。男の子供として。そうしたならば、きっとこんな苦しみを知らなかっただろうに。まだ三つなのに、飢え死ぬということもなかっただろう。
男は、笑った。泣いて、泣いて、泣いて。それから、笑った。
この怒りを、憎しみを、悲しみを、苦しみを、痛みを、何処にぶつければいい。全てを失い、先も短いこの身をただ息繋げばよいのか。
いらない。
この命も。
希望もない、絶望しかくれない生も。
そうして、男は目の前の異物を払った。横に一閃、まるで蝿を払うように、切った。










男は、女も、女の新しい夫も払った。近付くものを皆払った。
いつしか、男は一人になった。もう眠ることも、息をすることに喘ぐこともなかった。
「ようやりおるわ。化生へと成り果て、恨み辛みを晴らし、まだ足りぬか」
仙人は呆れたていで、しかし双眸には剣呑なものを宿らせた。
ずっと大樹の下で見ていた。男の一生も、化生へと姿を変えてからも干渉することなく。それは、男が他の化生となんら変わりなく、手を出すまでもなかったからだ。興味はなかった。
しかし、気が変わったのはその手に抱き続けるものに気付いてから。
「それを持ち続ける限り、其奴の悲しみもお主の悲しみも成仏出来んのに。それでも、離せなんだか」
今はもう人の姿をしていない、骨。皮も何もかもどろどろになり、ぼたぼたと腐敗し、骨ばかりになったもの。
「愛するものだけは手離さない、か」
ふうふうと威嚇し、最早人の言葉を理解していないはず。意識すらないだろう。
それでも腕に抱くのは、残された意志か。
「よかろう。次の生ではせいぜい愛し合うがいい」
仙人は、そっと化生に触れた。
途端、化生はぐるると唸った。
「案ずるな。引き離しはしない」
もしこの男が本性を忘れ、ただ荒れ狂うだけの生き物であったなら気にもとめず、誰かが消すのを待ったかもしれない。
だが、男は姿形を変えても尚話すことはなかった。腕の中でどれだけ姿を変えようとも、もう離したくはないのだと泣いていた。
だから、気まぐれを起こしてやった。
化生の身体が発光した。腕の中の骨も、また。光は徐々に淡く雪のように仄かに消え、やがて跡形もなくなった。
「これだから、人は面白い」
仙人は、ひっそりと笑った。
光の消えた先を眺めて。










男は、一人っ子だった。過去形になったのは、つい最近のことだ。年の離れた弟が生まれた。母に似て愛らしい顔をしており、二十近くも年の離れた弟を抱き締めると、ふえふえと泣いて可愛らしいことこの上ない。
男は決めた。弟の顔を見た瞬間に。
「おまえは俺が守る」
今度こそ。何に変えても、絶対に。
もう一つの誓いが、男の心の奥底で輝いた。
腕の中の赤子は、きゃっきゃっと笑い声をあげた。まるで、男の二つの誓いに応えるように。
男は、微笑んだ。腕の中の赤子に、頬を擦り寄せると温かかった。何故だか、その温かさに嬉しくなった。





守ろう。今度こそ。何に変えても、何処にいても。
あらゆるものから、おまえを守り続けよう。
だから、ずっと守らせてくれ。





「ふふ、魂は変わらんか」
女の声が、聞こえた気がした。
     
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