10
血の気が引いた。

―――――聖!!!

倒れて脂汗を浮かべ、顔は青白かった。
まさか、と最悪が脳裏を過った。

―――――あず、さ……

返る応えに、体温が戻ってきた気がした。
うっすらと開いた瞳は、僕を映して。
安心したようにボロボロ泣きだすから。もう大丈夫だと思ったのだ。










張りつめた空気。
カナダの山奥の麓にある小さな個人病院の一室。
無事出産を終え、子供と生きて対面することが出来た聖はベッドに横たわっていた。傍らには、梓がいる。
後少し遅ければ、聖も子供も命を落としていたかもしれなかったという。
梓があの場にいなければ、聖は一人で出産を迎え、子供とともに死へと向かっていただろう。己の無力さを味わうのを最期に。
梓は、何も言わない。ずっと俯いて、何を考えているのかわからない。
お互いに沈黙し、緊張感が漂っていた。
枕元では、すやすやと寝顔を披露する我が子が安眠を貪っている。
なんとも呑気なものだ。出来れば一緒に連れて行ってほしいが、無理だろう。現実逃避するしかない我が身が恨めしい。
目覚めてしまったことが悔やまれる。このまま、寝たふりをしていれば良かった。
正直なところ、梓に会うことは怖かった。最後に見た光景がずっと頭にあって、聖の入り込む隙のない、邪魔者でしかなかった。あの光景が、離れている間も頭にあった。
だから、怖かった。不安だった。
けれど、

―――聖!聖!!

名を呼ばれた。
もうだめだ、と。この子を一人で残して逝くことを受け入れたとき。
それはだめだ、と呼んでくれる声があった。

―――あ、ずさ……

そして、呼ぶ名前があった。
一人で痛みに耐え、残して逝く不安に押し潰されそうなときに。呼べる名前があった。
それは、一人ではないという何よりの証。
あのときに感じた安心は、きっとの気のせいじゃない。
大丈夫。
「聖」
「は、はいっ」
梓は、面を上げた。離れている間にすっかり窶れてしまった。優しくて、甘かった面差しは生気を失っていた。
けれど、瞳に宿すものは今なお温かい。
「結だ」
「……え?」
「僕達を繋いでくれたから。この子の名前は、結にしよう」
はっと、息をのむ。

―――この子の名前を一緒に考えよう。時間はまだあるから、ゆっくり、ね?

―――帰ったら、一緒に名前を考えてもらおう。ごほうびにね?

それは、梓と交わした約束。子供とした約束。
三人の約束。
「あ、ずさ……」
ぐっと、体を引き寄せられる。ちょっと痩せた体で、でも力強い腕に抱きしめられる。
中年オッサンのくせに胸板はあって、それがおかしくてよくからかっていたのに、窶れてしまった。
温度だけが変わらない。
「……バカ野郎……」
「あず……さ……」
抱きしめる腕は震えていた。肩口に顔が押し付けられ、じわりと湿った。
どくん。心臓が鳴った。
「あ、ずさ・・・?」
「・・・こ、き・・・っ」
泣いている。
こんなに力強い男が、弱々しく泣いている。
なぜ。なんて無粋なことは訊かない。
陣痛が始まった時、死にそうだった。実際、死んでもおかしくはない状態だった。
死を目の前にして、恐怖は勿論あった。けれど、生まれてくる子供のことが不安でならなかった。
生まれたばかりのこの子を一人にしてしまうのか、と。
一人で残して逝くことが怖くて、寂しくて、悲しくて、自分で自分の心臓を握っているようだった。こんなところで諦めた人生のツケが回ってきたのだ。初めて人生を悔いた。
人間の底辺と諦めず、生きる努力をすれば良かった。恥ずかしくない大人になりたかった。
後悔の波にのまれかけたとき、梓が俺を救ってくれた。人間の底辺から手を差し伸べてくれたときと同じように。
けれど、あのときよりも胸が痛い。
もしあのとき梓が間に合わなければ。
二人を残して逝くことになったら。
最悪、梓だけを残して逝くことになったならば。
俺はこんなにも愛してくれる人に、自分と同じ苦しみを味合わせていたのだ。いや、俺以上の苦しみを。
「梓……っ」
言いたいことは山ほどあった。責め立てたくて、でも不相応だと言い訳して怖くて逃げて。
もう、それは必要ない。

―――僕の人生を受け取ってください。

そう言って、あの夢から連れ出してくれた人を信じきれなかった。そもそも信じてすらいなかった。
俺はまだあの夢の中に取り残されていたいと、握られた手に座って反抗していたのだ。
「・・・ありがとう」
いつだって、手を引いてくれていたのに。
「ごめんなさい……」




後日、梓の秘書が事情を説明してくれた。
必要ないと断ろうとしたが、秘書は信頼するならば聞いてくれと言った。
そして最後に、

―――ご出産おめでとうございます、奥様。

滅多にたわめられることのない細い目を緩ませて、祝福してくれた。
     
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