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もう希望なんてない。そう思った。
だから、俺は―――
「ん、ふ……」
色めいた声。喉を通り、唇の隙間から吐息とともに出てくる声は身の毛がよだつようなものだった。
「ふ、ふ……」
笑って見せたものの、混じる吐息は鼻をつんと刺激するような、いろいろな臭いがごった返したようなものだった。頭が痛くなりそうだ。
唇が降る。生臭い。
「ん、ふふ……」
唇を舐める。
にたあ、と三日月が見える。
「ねえ、早くここにぶちこんで、ちょうだい」
開いた肉壷は、ぶらさがった肉棒を欲して疼いた。
という風に見せ、俺は艶ぽく笑って見せた。
「なめたマネしてんじゃねえぞゴルァアッ!」
「っぐぁああ!」
腹にめりこむ蹴り。激痛とともに、胃の中のものを吐き出した。
「うおっ、コイツ吐きやがった!」
「きったねえ!」
「テメエ、キレイにしろよ。オラッ」
男達は口々に罵倒を浴びせながらも、嘲笑った。鼻を摘まみながら、また腹を蹴る。
頭を掴まれ、吐瀉物に顔を突っ込まれた。
鼻先を異臭が掠め、気持ち悪さも相俟って胃からせりあがってくる何か。それじゃあ逆効果だろうと突っ込むことも出来ない。かと言って、このまま顔を突っ込むのはごめんだった。
「やめ……っ」
「抵抗すんな!」
頭に、腹に、背に、足に。男達の足がめりこんでいく。力を入れて抵抗するだけでこれだ。屈強な男達に抗うことも出来ず、吐瀉物はすぐ目の前。
セックスとは違う。精液や唾液とは違って、汚物だ。その上自分で吐き出したもの。
異臭が付きまとう。
「ぐ、……っ」
もうダメだ。諦めた。
その時、
「おい」
その場に相応しくない冷徹な声が響いた。
薄暗い裏路地。あまり素行のよろしくない輩が闊歩するような通りに、その男は現れた。
「誰だ!」
男達の力が弱まる。
朧な視界でようやっと移せたのは、銀フレームの長身の男。黒いスーツ、見るからに高級そうないでだち。見るだけで人を圧倒させるような威圧感。
そして、人の目を奪う精悍な容貌。
「やめろ」
男は、傷一つ見当たらない靴音を響かせる。近まる距離に、暴行を加えていた男達がのまれていくのが分かる。
一歩、また一歩と後退る。
「聞こえなかったか」
冷たい双眸が、険を増した。
ヒッ。悲鳴が聞こえた。かと思えば、一瞬のうちに逃げ出した。「覚えていろよ」と、お決まりの科白を残して。
男が俺を視界に映した瞬間、意識は遥か遠くへ飛んだ。
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目覚めると、そこは見知らぬ部屋だった。
神経質そう。それが、第一印象。
ベッドルームなのだろう。しかし、必要なもの以外何一つ置かれていない。ベッドしかない。インテリアの類を一切排除し、黒いカーテンは外と隔絶されているようだ。
しかし、拘束はされていない。どうやら本当に光を遮るためだけのようで拍子抜けだった。
服は着てる。何故か丁寧に包帯が巻かれている。
逡巡して、思い出す。
そうだ。意識を失う前、俺は暴行されんだ。
俺には沢山のパトロンがいる。勿論それは周知の事実。しかし、極たまにそれをよく思わなくなるヤツがいて、ホテルを出た後を見計らって自分だけのものになるように脅しをかけてくる。
が、そんな脅しに屈するはずもなく。要求を蹴ると、パトロンに雇われた男達があの手この手で言うことを聞かせようとする。逃げ切れずにサンドバッグになってしまったが、いつもなら逃げ切る。
あの冷たい空気を纏う男が現れなかったらどうなっていたか。考えただけでゾッとする。
危険な橋を渡っているが死にたいわけじゃない。
ベッドルームを出ると、音一つしない廊下に出た。どちらに行こうか迷って、明かりが漏れている部屋を見つける。
足音を立てないように、慎重に歩く。
ドアをそっと開けると、そこは書斎のようで本棚に収納された本が所狭しと並んでいた。それ以外はパソコンと、デスクだけ。
そして、背を向けるあの男。
仮令後ろ姿であっても分かる。纏うものが常人離れしている。
なんとなく近寄り難くて、ドアの隙間からこっそり覗いていると、男がくるりと振り向く。
「いつまでそこで突っ立っているつもりだ」
冷たい双眸が、俺を捕らえた。
「あ、ご、ごめん」
「具合はどうだ」
「大丈夫」
神経質な台詞を吐いた口で、すぐさま容態を確認されて驚く。問題ないことを告げると、男は柔らかく目を細め、より混乱を招いた。
分からない。この男が。人を邪険にしたかと思えば、体調を気にしてみたり。一体なんなんだ。
今まで会ったことがない人種だった。
「後で医者を呼んでおく。それまで安静していろ」
男はそれだけ言うと、さっさとパソコンに向き直った。
「はあ? ちょ、おい、待てよ!」
「なんだ」
なんだって言うんだ。
まるでわけがわからない。男の行動の意図が読めない。
「アンタ、なんのつもり? 俺をどうしたいの? 同情? それともアンタもパトロンになりたいわけ?」
「どういう意味だ?」
男は、またこちらを向いた。しかし、その目を見て愕然とさせられる。
男の目には、本当に疑問しかなかったのだ。
「な、何って言葉通りだろっ? 暴行されてたヤツをわざわざ助けるなんて頭わいてるとしか思えねぇよ!」
何より、こんな見てくれの俺を助けるなんてありえない。
褐色色の肌、太い眉、金色に染められた傷んだ髪。いくつもつけられたピアス。普通なら関わり合いになりたくないどころか避けて通るだろう。しかも、着ている服も浮ついている。
そんな俺をわざわざ助ける?ありえない。ありえなさすぎる。
「同情なんていらねぇよ! それともパトロン志望? 言っとくけど、俺、他にもいるからあんま束縛とかしないでくれる?」
つっけんどんに男に詰め寄った。
しかし、男は眉を顰めた。それも意味がわからないと言うように。
「さっきから何を言っている。お前を助けたのは私が嫌だったからに他ならないのだが」
「は……?」
「お前が暴行されているところを見つけてしまったのだから、見て見ぬふりなど出来るわけがないだろう。後で助ければよかったなどと後悔したくはない」
「なっ」
つまり、モヤモヤするから助けたということか?
ありえない。そんなのありえないだろう。
男は見逃しても許される人種のはずだ。見るからに質の良いものを身につけ、上に立つ人間の雰囲気を放っている。
加えて、輝かんばかりの本物の金色の髪はキラキラと煌き、男の背に流れる長髪が眩しい。男のロン毛だというのに美しく見えるのは、西欧の顔立ちもある。だが、彫りの深く整った容貌は、芸術家であろうとも再現できないような精巧な作りで見るものを虜にする。
明らかに住む世界が違った。数多のパトロンに金をせびり、代わりに売女となる俺とは生きる価値が違う。
そんな男が、スルーしたら後味悪いから助けただと? そんなバカな話があるか。感傷なんて持っているはずがない。
「ふっざけんなよ! テメエ見下してんじゃねぇよ! テメエなんかに助けられたくなんかねぇよ!」
「どこへ行く」
「帰るに決まってんだろ!」
「何を言っている」
男は腕を掴む。真剣な眼差しが射抜いた。
「怪我も完治していない。それにまたアイツらが来ないとも限らない」
「知るかよ! 同情されるよりマシだ!」
「だからなんの話だ。助けたいから助けたと言っているだろ」
「な……っ」
男の目は、真実を物語っていた。
信じられない。いや、信じたくない。
だってそうだろう?
地位も、容姿も何もかも持っていながら人が良いだなんて神様かなんかか?
見せつけられる。圧倒的な人間としての差を。
「せめて完治するまではいてくれ」
懇願され、俺は敗北を悟った。
否。
「分かったよ」
この男が、人間にあるまじき心を持つ男であることを。
男の名は、フリードリヒ・ヨハネ・ド・ベルジュ。地方の大貴族の末裔だそうだ。
連綿と続く由緒正しい血統であり、嫡流の生まれ。上に兄が二人いて、爵位は受け継げない。
三日。男の側にいて分かったことはこれだけ。後はくだらないプロフィール。
「ナリタダ、今日は医者が来る」
「あー分かった」
フリードリヒは、怪我だらけの俺を丁寧に看護してくれた。発熱に呻けば寄り添って、氷嚢を当ててくれる。医者を呼んで、怪我を治してくれる。
見ず知らずの俺にこんなに良くしてくれた。
正直、俺の中のやさぐれた部分は懐柔されつつあった。
「フリッツ、今日の晩飯は?」
「マッシュポテトとソーセージ」
「またぁっ?」
しかし、この男。出身はストラスブール。フランスとドイツの国境のためか、父親はフランス貴族の血筋、母親はドイツ軍人の家系という家柄だそうな。
そして、母親の血を受け継いだのか、マッシュポテトやソーセージの類を好む。
そのため、朝ごはんが毎日マッシュポテトとソーセージということが少なくはない。
今日は朝がマッシュポテトとソーセージ。そして、夜も同じメニューらしい。
ほぼ毎日食べているのに夜もとなると根を上げてしまうのは仕方ないだろう。
「俺、料理覚えようかなぁ」
「それは助かる。実は日本食を食べてみたかったのだ」
「シェフ雇えば?」
「あまり他人を入れるのは好かん」
「……俺は?」
「怪我人を見捨てるのは尚更好かん」
「はぁ……」
呆れた。何処まで自分に正直なのだ。
更に言えば、フリッツは外食はあまり好きではない。衆人環境の中で食べるのは好まないらしい。日本人は視線がねっとりしすぎだと言っていた。
「フリッツ、朝もマッシュポテトとソーセージだよ? 飽きようぜ、いい加減」
「何故だ? あんなに旨いのに」
「朝も夜もマッシュポテトとソーセージってそのうち悪夢でも見そうなんですが」
「そうか?」
必死のお願いの甲斐もあって、その日の晩ごはんはパンとチーズとワイン、それからメインのステーキ。
「なんだ。フランス料理も作れんだ」
「パンは既製品だし、ステーキは焼くだけだからな。パスタやピザは無理だ」
「待って、パスタ混ぜるだけじゃねっ?」
「ああ、キッチンにはあまり立たない」
「でっすよねー」
流石は大貴族の末裔。よく今まで生きてこれたな。
これは一刻も早く料理を覚えないと。
一週間後。
「今日は出掛けるか」
「マジでっ?」
「そんなに驚くことか?」
「だってこの一週間ずっと閉じ篭ってたんだぜ? もう家の中は飽きた」
因みに、この一週間は一切の外出禁止令が出されていた。
「で、何処行くの?」
「本屋に」
「本屋? ビジネス本でも買うの?」
「何故そのようなものに金を使わねばならない。料理を覚えるのだろう」
「……」
「なんだ」
「いや……覚えてたんだ」
「当たり前だろう」
冷たい容貌と瞳を持ってるくせに全然冷たくない。約束も言ったこともちゃんと覚えていてくれる。
「私はそのような人間ではない」
「……うん。ありがと」
きっとなんてことのない台詞なんだろう。
それでも、それが嬉しいと思うほど俺は飢えてたんだと思う。約束とか言ったこととかを覚えていてくれるってことに。
近くのデパートに来たはいいものの、フリードリヒは注目の的だった。こんな身目麗しい人がいたら見てしまうのも無理からぬこと。
隣に並ぶ俺にをなんでこんなやつが、って目で見るのはどうかと思うが。
痛む心を抑えていると、フリードリヒは俺の手を握った。俺の顔をボールみたいに掴めそうな大きな手で、包み込むように。
「不躾だな」
「仕方ないよ。フリッツがすげぇキレイなんだから」
「私がキレイなら、ナリタダ、お前も綺麗だろう」
「は……?」
「私には、お前が綺麗ではない人間に見えない。寧ろ、眩しい」
なんだそれ。
俺が? キレイ? パトロンがいて、誰にでも股開くようなヤツが?
包み込まれた手を振り払った。さっきまで凪いで穏やかだった気持ちは踏み躙られ、こけにされて荒れ狂っていた。
「ば、バカにしてんのかよ!」
「何故だ」
「俺がキレイなワケないだろ! こんな……こんな、汚くて、クズみたいな人間。所詮アンタとはどう足掻いても住む世界が違うんだよ!」
思い知らされる。
その考え方ですら、俺とは違うのだと突きつけるようで。
おキレイにされる人間なようで。
「まったく何を言いだすかと思えば。くだらん」
「なっ」
「誰がなんと言おうとお前は綺麗だ。私のために料理を覚えようとしてくれるお前が、私は綺麗だと思う」
まっすぐな目に見つめられる。嘘偽りの一切ない、飾り気のない言葉。
きっと、ずっと誰かにそう言って欲しかった。
誰にでも脚を開いて、生きていくために媚び諂っているけれど。まだ綺麗なところはあるんだと叫んでいた。認めて欲しかった。
「お、おい……っ」
頬を伝う、一筋の雫。
「ナリタダ、どうした」
幾筋も流れ落ちる。
俺は、顔を上げることも出来なかった。
「ナリタダ、おい!」
あなたに綺麗だと言われた俺が、恥ずかしくて仕方ない。
あなたの隣に立てない俺が。こんなことで、違う人間だと思い知らされるなんて。
今まで歩んできた人生を初めて後悔した。
近くの店に入り、泣き止むまでフリードリヒは俺の背中を撫でてくれた。
その手があんまりにも優しくて、涙が次々と溢れた。
泣き止む頃には、お昼も過ぎてちょうどいい時間だったので、ついでに昼食もとることにした。
「外食嫌いって言ってなかった?」
「お前となら構わない」
俺となら外食をしてもいいって言われたみたいで少し気分が上昇した。
きっと見ていられないことになっているだろう顔をメニューで隠した。
「なぁ、フリッツ。日本食って何食べたい?」
「おにぎり」
「ハァッ? そんなのいつでも誰でもどこでも作れんじゃん!」
「日本食といえばおにぎりだろう!」
「他!」
「なら、寿司」
「なにそのハードルの上げっぷり!初心者でも作れるやつにしてくれよ!」
フリードリヒは、難しい顔で考え込んでしまった。
どうせならフリードリヒが食べたいものを作りたかったのに。他に食べたいものが浮かばないらしい。
「ま、おにぎり作れねぇし、今日はそれからな。……いつか、寿司も頑張るから」
「ああ、楽しみにしてる」
店を出て、デパートに向かう。人混みの中、はぐれないように今度は俺から手を伸ばした。
シャツの裾を握る。
しかし、フリードリヒはくるりと振り返ると溜息をついた。
「そんなところではなく、こっちだろう」
大きな手が、俺の手を包む。
「フリッツ!」
人通りの多い中、俺達は手を繋いだ。フリードリヒに引っ張られ、ついていく。
人が多すぎて気付かれていないけど、もしもを考えると怖かった。
けれど、フリードリヒは泰然と前を向いていたから、俺は何も言えなくなってしまった。
こんなところがズルい。
もう俺はアンタのことしか考えられなくなってしまった。
気付いていた気持ちが、ブレーキも壊してスピードをあげて走る。
待って。まだ、行かないで。まだ、ここに秘めさせて。そう思う俺を差し置いて、走り出した想いはフリードリヒの手によって暴かれようとしていた。
「うーん、こっちにしようかなぁ。でもなーここがなー。あ、いやここもいいし。んーでもこっちもいいなぁ」
「どちらも買えばいいだろう」
「うっせぇ!」
元も子もないことを。
最初が肝心なのだ。最近は料理の本がたくさん出版されてるけど、やっぱり当たり外れとか合う合わないとかある。
料理をしたことがない俺にこの壁は難関だ。しかも食べるのはフリードリヒ。食の国フランス生まれなのだ。うっかりハズレでも引いてしまったらやるせない。
フリードリヒは暇を持て余し、横から口を出す。しかし、フランス人のくせにマッシュポテトとソーセージが好きはお呼びではない。毎朝マッシュポテトとソーセージはもう嫌だ。夜も、となったら多分そろそろ泣く。
真剣に悩んでいると、フリードリヒは別のコーナーに行ってしまった。正直、邪魔がいなくなった気分だ。
しかし、何も邪魔はフリードリヒだけではなかった。
「ユウキ?」
懐かしい呼び名。それは、遠い昔に捨てたもの。
「リオン……」
予想通り、記憶の中と変わらない姿。
背中のベース。相変わらずのロックテイストな服装。頭はツンツンとしていて似合ってない。金に近い茶色の髪も。顔は平凡に近いのだからヘタにいじるなと何度言っても聞かなかった。
ベースを肌身離さず何処でも連れていくのと同じく。
「久しぶりだな」
リオンは、笑った。
まるで、何もかも忘れたような。遠い過去に置いてきたように。
俺は忘れることも置いて行くことも出来ず、手にしたまま立ち往生しているというのに。
けれど、俺には文句ひとつ言う資格すらなかった。
「元気にしてたか? つか、変わったな」
ただ、リオンをじっと見つめるしかなかった。まるで魔法でもかけられたように。
「ユウキ?」
「あ……」
らしくない。
「おう、元気元気。元気すぎて体力あまってんだよね」とか「ぜんっぜん。毎日ひきこもってるぜ」とか。俺ならいうはずだ。
だが、言葉が口をついて出ることはなかった。封じられたように、音にもならない言葉の羅列が吐き出され、ついには視界すらぼやけてきた。
リオンが顔色を変えた。
「ユウキ、お前……」
その時、
「ナリタダ!」
「……ふり、つ……」
天の救いかはたまた悪魔の導きか。別のコーナーに行っていたはずのフリードリヒが現れた。俺が振り向くと、瞳の色が一瞬で変わる。
「貴様、一体何者だ。ナリタダに何をした」
「え? おい、ユウキ……」
「あ、……」
俺は何も言えなかった。
こんなにも口は重かったろうか。
「ナリタダ。ナリタダ、どうした。おい、ナリタダ。しっかりしろっ」
俺を案じ、焦りを見せるフリードリヒに、やっと言えたのは二人だけで話したいということだけだった。
光が好きだった。光を浴びることが好きだった。光の下にいると、俺まで光になれたようだった。
だけど、光の下に行けなくなった今。最早光の世界は眩しくて目を向けることも出来なくなった。
闇の中、蹲る他俺の居場所はない。
「GLITTEODDMAN」といえば、日本で人気のアイドルロックバンドだった。意味は「光り輝く大人になりきれない者」。
ベースのリオン、ギターのレオとアツヤ、ドラムのカムイ、そしてヴォーカルのユウキの五人組だった。
アイドルといえば「歌って踊れる」という常識を覆し、「歌って演奏出来る」という異色のグループだった。容貌も遜色ない。どころか、キラキラと輝きを放っていた。 デビュー前の研究生時代から脚光が浴びていた。
研究生時代はカバー曲ばかりだったけれど、音源化を期待された。
そして、待望のデビューがコンサートで発表された。研究生となってから五年、念願のデビューだった。
メンバーやファン、関係者がその日を待っていた。
しかし、デビューを一か月後に控えたある日。突如、デビューは無期限活動停止処分が下された。メンバーのレオが喧嘩と飲酒で逮捕されたのである。
これにより、「GLITTEODDMAN」は仕事もなくなり実質上の芸能界引退を余儀なくされた。
事態は更に加速度的に悪化する。メンバーであるヴォーカルのユウキがレオに暴行したのである。
レオは素行があまり良くなかったが、その性格を好んだ芸能界の大御所もいた。そのため、ユウキはレオをお気に入りとする芸能界の大手に目を付けられることとなったのである。
それこそが、俺「ナリタダ」こと「GLITTEODDMAN」のヴォーカルユウキである。
デパートの喫茶店。久方ぶりに見えるメンバーと対峙する。
「ユウキ」
『城由でナリタダ? すっげぇ名前だな』
『ナリとか?』
『やめろよ、なんとかナリ〜とか絶対笑われる』
『えー名前つけにくいな。あ、逆から読んだらユウキって読めねえ?』
『あ、いけっかも。よし、それでいいじゃん!』
『ハァッ? そんな安直な……』
過るのは在りし日の記憶。
俺の名前は読みにくかったし、芸名にするにも難しくって、メンバーみんなで顔合わせて考え合った。デビューの時のためにカッコイイ名前にしようぜ、と。
まだ若かった十代の日。
「ユウキ、俺はお前を恨んじゃいねぇよ」
「慰めはいい」
「違うって」
あの日、レオが原因とはいえ、で活動出来なくなった要因は俺にもあった。レオを殴ったことで事務所も活動を禁止し、芸能界からは仕事を干された。
「ま、お前がチャラけてたら俺もふざけんなよとか思ったけどさ。でも、やっぱお前だけを憎むなんて出来ねぇよ」
「だけど!」
「確かに、お前にも一因はある。レオだけなら脱退ですんだかもしれない」
ぐっと詰まる。
あの時点では脱退という逃げ道も用意されていた。それを蹴ったのは俺のせい。
俺があの日レオを殴ったから。メンバーは今でもバンド活動が出来ない。俳優やソロで地道に活動は出来てもバンドには戻れない。
リオンは苦笑した。
「だーかーら。そんな顔すんなって。お前、ちゃんと知り合いに俺らの口聞きしてくれたんだろ?」
「それ、は……」
「それに、子役時代からずっとデビューに憧れてたお前が取り消しにされてキレるのも無理ねぇよ。俺らは二十前からだけど、お前は三歳からだろ」
「そうだけど……」
俺は子役のオーディションに受かって、ドラマで俳優デビューは果たしていた。けれど、アイドル事務所ということもありグループ活動に憧れていたこともあって、アイドルとしてのデビューを心待ちにしていた。
バンドに興味を持ってからは、メンバーとバンドデビューしたいと話していた。
けれど、だからと言って、俺のしたことが許されるわけじゃない。
どんな理由であれ、俺は暴力をふるったのだから。そして、失ってしまったのだ。
「ったく。俺もアツヤもカムイも恨んでねぇの! これホント! だからもうそんな顔すんな。そんで連絡くらい寄越せ」
「リオン」
「言っただろう? 俺達は待ってるって」
ふと、昔の記憶が蘇った。今まで必死に蓋をして忘れようと努めていた。
『必ず戻ってこいよ! 無期限活動停止なんざムシしちまえ。俺らは、ここにいるから。ずっと』
事務所を辞めた日。仲間が言ってくれた言葉。
そうだ。待ってるって、あの日言ってくれたんだ。
『また下積みとかめんどくせぇけどよ。どうせレオのせいで同じことになってたんだ! オレもぶちかましてやりたかったぜ!』
『早くしねぇと、どんどんすげぇやつらが上がってくるぞ』
普段は明朗快活だけどいざとなったら頼れるリオン。
漢気溢れて、豪快なアツヤ。
グループ最年長で、まとめ役のリーダーのカムイ。
三人が俺を見送ってくれた。違えた道で、その先で待っていると。
「……リオン」
ずっと待っていてくれたのだろうか。あの日の約束を寸分違わず。堕ちてしまった俺のことを。
「ユウキ。言ったろ?早くしねぇと、お前よりすげぇヴォーカルなんてすぐ現れるってさ」
「……うん」
闇間に見えた光は眩しかった。
けれど、もう目は逸らさない。逸らさずに、行くんだ。眩しさで熱い世界へ。
『お前は綺麗だ』
あの人が、そう言ってくれた自分に見合う俺になりたい。
「リオン―――」
リオンと再会し、俺はフリードリヒと帰った。
フリードリヒは何があったのか聞きたそうにしていたが、何も言わなかった。敢えて訊くということもなく、二人で静かに帰途についた。
帰宅し、俺は向き直った。
「フリッツ、お願いがある」
「なんだ」
「今すぐ美容院とジムの手配をしてくれ。後、昼間は俺出掛けたい」
「……分かった」
フリードリヒは何も聞かず、すぐに手配してくれた。
顔も黒くなって、毛もボーボー。髪も手入れをしてない。体力なんて全然ないし、筋力も落ちてる。
リオンにも連絡をとり、ヴォイストレーニングを始めた。アツヤ、カムイとも連絡を取り合って、バンドの練習もまた始めた。
「おっせぇよ」
「目星つけてたヤツがいたのに」
二人は憎まれ口を叩きながらも、よく帰ってきたと背中を叩いてくれた。
久しぶりにメンバーは揃って、俺らは泣きながら笑うなんてことになってて、それがまたおかしくて笑った。
そこに、レオの姿はない。
フリードリヒは俺が何をしているか知らない。いつも俺を送ってくれる運転手の人に何も伝えてないし、何が起きてるのか分からない風にこちらに気を遣っている。
だけど、まだ言えない。
フリードリヒの隣に立てる男になりたい。
綺麗だって言われて、喜べる俺になりたい。
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それから、一ヶ月。
美容院で髪を茶色に染め直し、手入れもきちんとした。
毎日ジムとヴォイストレーニング、バンドの練習を往復している成果が現れ、昔の調子が戻ってきた。
筋肉もついてきて、ギャル男みたいだった俺は今では好青年になっている。人ってここまで変わるんだな、とメンバーに言われた。
リオンの伝もあり、個人レーベルでデビューをすることに決めた。
デビューは三ヶ月後。一ヶ月前には会見が待っている。
俺のために開かれる。そこで俺は、活動再開を宣言する。
暴力沙汰で活動禁止されていたため、公の場で宣言しなければならない。それが、俺っていう人間がこれからやっていくために必要となる。メンバーも会見に参加する予定だ。
まだ俺は表に出れるほどではない。会見に出て、活動すると宣言するからには、それなりではダメだ。ギャル男から好青年に変わっただけでは前のイメージが付いて回る。俺が変わった、そう思わせるためにはバンドマンとして、一人の人間として立っている姿を見せつけなければならない。
今でも大分変わったが、俺はトレーニングもケアも怠らなかった。
そんな俺をフリードリヒは心配そうに見ている。それに気付きながらも、今は何も言えないことが恨めしい。
今打ち明けたら、多分俺は甘えてしまう。頑張ってるだろって、しなだれかかって満足してしまう。
それじゃダメなんだ。
ちゃんとフリードリヒの隣に立てる人間になってからでないと。
料理の腕はあまり上達していない。朝はマッシュポテトとソーセージ。夜はおにぎりの生活が殆どだ。トレーニングやら練習やらで覚える時間はなかった。でも、食生活も基本だ。リオンの実家は食堂だから、惣菜とかを貰う。野菜も肉も魚も栄養満点。
けど、フリードリヒの買ってくれた料理の本を活用出来ないのは寂しい。おにぎりもまだ上手く握れない。ボロボロになる。それでもフリードリヒは食べてくれるのだけれど。
「というわけで、よろしくお願いします」
「やだ」
「そこをなんとか!」
「俺は今から寝たいの!」
練習後。実家が食堂のリオンの家に押しかけた。リオンは実家住まいで、リオンの両親は俺を快く招き入れてくれた。
「おばちゃん、リオンが教えてくれないー」
「利男! アンタ何ユウキちゃんに意地悪してんの!」
「本名やめて!」
リオンは本名を藤間利男という。芸名は、なんとなくそんな風に読めるってことと本名がダサ過ぎるからだ。本人は下の名前で呼ばれることを殊更嫌い、芸名が知られるようになってからは特に顕著だ。
「つっても、おにぎりくらいなんで握れないんだよ?」
「なんか、こう……ぽろぽろーって」
「水つけすぎなんじゃねぇの?」
「え? 水つけすぎとかあんの?」
「オフクロ解決したー」
「え、ちょっと待って! 教えてよ!」
「だぁああああ! 明日は仕事入ってんだよ!」
「一日くらいいいだろ!」
「ふざけんな!」
「ならサボれ!」
「ホントふざけんな!」
その後、リオンのお母さんが教えてやれと蹴飛ばしてくれたことで、俺は上手なおにぎりに近い感じまで上達出来た。
「ただいま!」
深夜を回った頃。俺はやっと帰宅出来た。
フリードリヒは、リビングで仕事に向かっていた。
「ごめん、遅くなった!」
「いや、構わない」
「はい、フリッツ!」
「これは……」
上達したおにぎりを差し出すと、フリードリヒの双眸が瞠られる。
毎日握っていてもちっとも上達しなかったのだ。俺は少しだけいい気分になる。
「知り合いに、ほら、この間のやつに教えてもらったんだ。俺、いつまでたってもうまくなんねぇから。アイツ、実家が食堂だから」
「そうか……」
答えは淡々としていたが、驚いているのが如実に分かる。誇らしくもあり、鼻をかく。少し照れ臭かった。
フリードリヒは、おにぎりをとる。大きな一口でかぶりついた。
「……旨い」
「ホントっ?」
「ああ、旨い。塩気も、水気も全然違う」
フリードリヒにすすめられるがまま、口に含む。
いつものボロボロなおにぎりよりしっかりしていて、崩れない上に味もちゃんとついている。味見はしていたけど、 やっぱり美味しかった。
「へへ、やった」
フリードリヒは、眼を眇めた。
おにぎりをじっと見つめ、口も動きを止める。
「どうした? 腹でもくだした?」
手は洗ったはず。リオンのやつ腐った飯出したのか? いや、食堂だから腐り物とかは人には出さないはず。
味は美味しかったし。あ、もしかして飽きた? いやでもマッシュポテトは毎日食ってるし。いや、これ日本食か。
「お前は、私が考えているよりもちゃんと進んでいたのだな」
「へ?」
突拍子もない言葉に、マヌケな返事をしてしまった。
だが、フリードリヒは気にも留めていなかった。
「あの男と会った時、様子がおかしかったが。その後は忙しなくしていたようだから何かしているとは思っていたが、お前は日に日に変わっていく」
「フリッツ」
フリードリヒは、一つ息をついた。そして、俺を見る。
「やはりお前は綺麗だ」
破顔。
「っ、……」
向けられた笑顔に、心臓が音を立てた。
「ナリタダ、お前を見ていると私も奮い立たせられる」
朗らかに、フリードリヒは言った。
おにぎりに齧り付く。うまいうまいと、何度も何度も。
俺は黙って見ていることしか出来なかった。いや、何も言えなかった。
頭が破裂しそうで、ぐるぐるとしていた。
「ん? どうした、ナリタダ」
我知らず、笑みを向けてくるフリードリヒに胸の鼓動は脈打つ。
ああ、もう。知っているさ。分かってる。
「ナリタダ!」
フリードリヒをソファーに押し倒した。二つの身体がソファーを狭くして、吐息も近く感じる。
視線と視線がかち合い、交わる。
フリードリヒが目を白黒させているのを、舌打ちしたいような気持ちで見詰めた。
ああ、知っているとも。この感情の意味くらい。
「っ、んむぅっ」
強引に唇を奪う。しっとりとした感触と、唾液の感触。舌が所在無さげに彷徨った。
絡めるでもなく、奪っただけで解放した。
「いいか! 三ヶ月後、覚悟しとけよ!」
そう吐き捨てて、俺は与えられた寝室に逃げるように飛び込んだ。
呆然とするフリードリヒを残して。
「くそっ」
知っていたさ。この感情の正体くらい。
アンタの隣に立てる人間になりたかったのは、アンタの隣に立つ自信が持てる人間になりたかったから。
好きな人の隣に立てないようなヤツでいたくなかったから。
だから、眩しくても前へ進むんだ。
会見当日。記者がごった返す会場をドアの隙間からこっそり覗く。
「うわ、物好きなヤツら」
「そりゃそうだろ。内容もシークレットな会見なんだからな。マスコミの格好の餌食だ」
「あー腹減ってきた」
「アツヤ緊張感持てよ」
「カムイ、お前の弁当食ったから」
「それで腹減ったとかお前何なの?」
お弁当くらいいいけどと、カムイはひとりごちた。
「GLITTEODDMAN」のメンバーも加えての会見である。
予定としては、まず俺が活動再開宣言をして、メンバーが出てくる流れだ。
この中を一人で立つのは相当緊張するだろう。他人事に考えてるが、本番で震えるタイプなので問題ない。
ドアを閉め、円陣を組む。出番までもうすぐ。
「ありがとな」
メンバーを一人一人見詰める。
長かった。半年も経っていないけれど、毎日過去に戻るための練習ばかり。
だが、ここからは違う。先へ進むために歩くのだ。やっとスタートラインに戻れたのだから。
「けど、もう礼は言わねぇ。謝罪もなしだ」
メンバーは、揃ってにっと笑った。気持ちは、一つ。
「やるぞ」
腹に力をこめた。
三人の「おう!」が揃った。
そして、
『それでは、「GLITTEODDMAN」のユウキによる記者会見を始めさせていただきます』
俺は、先にフラッシュを浴びた。
カメラの音。騒然とする場内。俺を凝視する記者の視線。
震えが走った。ぐっと、腹に力を入れる。
怖いものはもうない。とは、言わない。怖いこと尽くしだ。
けど、決めた。フリードリヒの隣に立てる人間となることを。
フリードリヒには言ってある。記者会見を見てくれ、と。
これで俺のことを知られることになるわけだが、もう後の祭りだ。ここから、アンタの隣に立つために歩く。
「本日は、私のためにお集まりいただきましたことに感謝の意を表します」
マイクを持つ手が震えた。メンバーが笑っているかもと思うと、俺まで笑えてきた。
「本日、私ユウキは来月をもちまして芸能活動を再開させていただくことをご来場の皆様に報告させていただきます」
途端、記者は騒然とし始めた。顔を見合わせ、まさかと目を瞠る。
俺も、ついこの間まではそのまさかが起こるとは思っていなかった同類だ。
「そして、同時に『GLITTEODDMAN』としての活動再開させていただきます。活動再開時には、デビューも考えております」
メンバーが、ステージに上がる。
予想通り、ニヤニヤと俺を見ていた。
「私ども四人の活動を今後とも見守っていただきますよう、お願い申し上げます」
フラッシュがたかれる中、俺らは頭を下げた。十秒くらいだった。
それから、俺はマイクを持ち直した。予定ならば、記者会見はこれで終わりだ。
だが、ケジメはつけなければならない。
「皆様におかれましては、私のことで不安を抱かれた方もいらっしゃるかと存じ上げます。以前、私がメンバーのレオに暴力を振るったことを、ここで今再び、関係者及びファンの皆様方の期待と一人の人間としてあるまじき行為をしたことにお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした」
メンバーが息を飲んだ。
これは、俺達の活動再開会見だった。俺が謝罪する計画はない。
寧ろ、謝ってはいけなかった。クリーンなイメージを保ち、ファンの期待に応えなければならないから。
けれど、それではダメだ。あの人の隣に立てない。
それに、俺はやっぱりこの光の下が好きなんだ。 またここに戻るならちゃんとケジメをつけて区切りをつけたい。
前みたいにじゃなく、これからを歩くために。
記者会見は、騒々しくも幕を閉じた。記者からの猛攻に、俺は平常心を保って返した。
たまに、腹立つこともあったけど滞りなく進められた。
そして、問題はまだ残っていた。
「ただいま」
最早、日課となったセリフ。
「ナリタダ!」
玄関を開け、勢い良く出迎えてくれた存在に目を瞠る。いきなりのハグで熱烈歓迎だ。
「フリッツ」
「ナリタダ」
お互いに、何かを言うわけでもなかった。いや、言えなかった。
俺は、フリードリヒがこうして出迎えてくれただけで胸がいっぱいだった。
「お前は日毎に綺麗になっていく」
「ふはっ、なんだよそれ」
「事実だ」
キレイなのはアンタだろ。けど、嬉しくて否定出来ない。
フリードリヒに褒められるとまた違う。
「私は眩しすぎて、追いかけている。先を歩くお前を」
「フリッツが先だろ?」
「いいや。私はそんなに前には進んでいない」
「いやいや」
フリッツは真剣だった。
俺は、抱き締める腕の強さにそっと目を閉じた。
アンタの隣に立つための準備が、あっという間に過ぎた気がした。
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