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ごめん………ごめんね。もうちょっとだけ、我慢してね?

―――っ、う……っ

ツキン、と痛みが走る。無理をしすぎた自覚はあった。
けれど、急がねばならなかった。

―――もうちょっとだけ、がんばってね。

おかあさんも、頑張るから。
少しだけ休憩すると、痛みがやわらいでいく。
完全になくなってはいないが、もうすぐ飛行機が出てしまうので急ぎ足になった。

―――さよう、なら……

一度も思い出さなかったわけではない。忘れようとしては、その度に浮かんできた。
けれど、もう手を伸ばすことはない。
帰ることも、もう……。










周りを青々と茂る木々と、空を映した湖に囲まれた山奥の小さな小屋。
周りには家一つなく、訪れる人もいない。
小屋には窓がひとつあって、湖を目の前に景色が楽しめる。
もうずっと、この景色を飽きるほど眺めていた。
けれど、いくら待てども飽きがやってこないのは、ここに心がないからだろうか。
虚ろに彷徨う視線は湖にあるのに、まるで景色を見ていなかった。
思い馳せるのは、いつだって過ぎ去りし日々のことだった―――――。










クラブが乱立する激戦区。まさかこのような形で足を運ぶことになろうとは思わなかった、と溜息。
だが、これも全ては梓のそばにいるためだと我慢した。
あの後、プロポーズをされた。薬指に指輪をつけてくれて、生涯を誓った。
ここまでしてくれた男にどうして否やと言えようか。
俺はホストを辞めることを決めた。
そして、産むことも、また。
梓は一緒に行くと行っていたのだが、こうして騙し討ちのような形でいない隙を狙ってきた。これは俺の問題だし、けじめをつけたかった。
しかし、不安であることも事実で。もう何度も指輪をを眺めては撫で、腹に触れ、愛を確かめている。
正直に言うと、ここに来ることは怖かった。オーナーは俺の体を知らないが、俺を拾ってくれた大恩人だ。バックにその手の関係者をつけ、稼げないやつにはとことん追い詰め蹴り上げ地獄を味合わせるが、売れる俺には人一倍優しかった。
俺は、今日限りで辞める。腹の子を産むために。
堕ろすのではなく、この世に産み上げるために。
だから、オーナーの反応が怖かった。
この店だけでなく、ここらへんで頂点に立っていた俺がいなくなることは店の利益に繋がる。否、俺で保たれていたようなもので、俺がいなくなれば多大な損失を被るだろう。勿論、金を出せと言うなら出すが、それだけで済むとは思えない。
俺がいなくなればあの店は潰れる。それくらいの予測は出来る。
こんなことになるのならば、高級クラブに行けば良かった。高級ということは、従業員の身柄もある程度は保証されるし、こういった底辺のクラブと違って人一人抜けたくらいで潰れはしないだろう。
言い訳だが、ホストになると決めた時はそれしかなかった。俺は人間の底辺を生きてきたようなやつで、顔が良くてもそんなやつを高級クラブのホストにしようとするところはなかった。
だから、生きて稼ぐために、俺は底辺のクラブを選んだ。
あの時は、まさか女性器を抱えていても腹に子を抱えようとは思わなかったしそうなるとも思わなかった。人間としてのありふれた家庭ですら作れると思えなかった。想像の中だけで自分を慰めることしか出来なかった。
それが、愛し愛され、子を抱えようと思い、そこに喜びを見出すことになろうとは。
人生とは分からないものだ。人間の底辺を生きてきた俺が、人間の最上を生きれるなんて。
だから、けじめはつけなければならない。梓の力を借りてはダメだ。これは俺が決断して働いたのだから、辞める時も俺の力でないと。
そうでないと、子供に無様な姿を見せることになってしまう。
人間の底辺を生きてきたなら、せめてカッコいいところは見せたいじゃないか。
「そうだ。帰ったら、ご褒美に梓に名前を考えてもらおう。ね?」
ちょっとだけ動いた気がする腹を撫でて、俺は戦場へと赴いた。





「辞める、だと?」
事務所に案内され、開口一番に決意を口にした。
予想通り、オーナーは額に怒気を露わにした。青筋なんてものじゃない、本気の怒り。
「はい。申し訳ありません」
「理由は」
「恋人と、結婚することになりました」
「結婚?」
オーナーは、俺の左手薬指の指輪を見た。シンプルなものではあるが、価格は億以上。目敏いオーナーならすぐに察しがつくはず。
そして、相手が誰であるかも。
「まさか、真行寺様と……?」
「はい」
敢えて名前を出したのは辞めやすくするためだ。流石に俺一人の力ではオーナーの背後にいるやつらに立ち向かえない。卑怯ではあるが、梓の力を貸してもらう。
オーナーは、頭を抱えた。
当然だ。久方振りに休暇をとっていたやつが顔を出したと思ったら、結婚、と。しかも男とするというのだから本末転倒もいいところだろう。
病気で休みたい、と言うのならオーナーも許可を出しただろう。いつかは帰ってくるのだから。
それでも俺は嘘をつかなかった。いつかバレるのならば、同じことだ。それならば、相手の行動が予測できるように早々にバラしてしまった方がいい。
「本気か……?」
「はい」
「おまえがいないと、この店はやっていけないんだぞ?」
それどころか、俺と言う金のなる木がいなくなれば、オーナーは売上を出せないと背後にいるやつらに始末されるだろう。ホストも別のクラブに移らなければならなくなるだろうし、店としてやっていけなくなるに違いない。
かと言って、金銭援助はしない。それをネタに梓にゆすりをかけられ、背後にいるやつらと繋がりがあると警察のお世話になるに決まってる。
「……………分かった」
長い沈黙の後、オーナーは渋々といったていで頷いた。
「オーナー……」
まさかこうもあっさり頷かれるとは思わなくて、拍子抜けしてしまう。
「明日、ここに来い」
差し出されたメモに書いてあったのはレストランの名前。
「はい、ありがとうございます」
そして、この決断こそが俺の回帰だった。




翌日、オーナーの指定したレストランに足を運んだ俺は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。
オーナーはまだおらず、中で待っていた。
しかし、ふと視界に映ったものに俺は息をのんだ。
そこにいたのは、俺に愛をくれた人。
そして、目の前には、女がいた。
ただ対面しているなら、俺はこんなことにはならない。
けれど、女は梓に親しく話しかけ、梓もにこやかに応対していた。
俺に見せる笑顔を浮かべて。
キスすらも拒まないで。
俺がはめた指輪のある手をなぞられても払いもせず。
「な?分かっただろう?」
いつからそこにいたのか、オーナーが耳元で囁く。ねっとりとした、嫌な声質。
「あれが、真行寺様のシアワセだ」
宛ら、悪魔の囁きだ。
それなのに、耳を塞ぐことも出来なかった。
「あの方となら、世間的にも認められるし、子供も払いも産める―――何より、おまえのようにホストなんてやってたわけじゃない育ちのいい方だ」
否定も出来なかった。
ただ、気丈に自我を保とうと努めることしか出来なかった。
皮肉なことに、腹にいる子が俺を支えた。
「真行寺様と結婚しても、おまえに未来はない。おまえは人間のクズだからな……そんなやつを伴侶にするなんて、真行寺様に傷が付く」
俺以外の誰を選べばいいと言った人が。
俺以外はどうなってもいいと言った人が。
俺に、愛をくれた人が。
俺がいるとダメになる。
そして、この子も、俺の子なんかじゃ―――。
「セイ、どうする?」
それでも、堕ろせない。
だから、これは俺のワガママだ。
この子の人生を狂わせるかもしれなくても、俺は産みたい。会いたい。
だから、
「あずさ……」
お別れをしよう。
大丈夫。この子はちゃんと離すから。
でも、この子が産まれるまでは、俺に時間をちょうだい。


     
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