5
―――――なにも聞こえないなぁ

何してるんだよ、と胡乱げに見やった。
腹に耳を当てて、じっとしているかと思えば不満げなそれだ。

―――――もうそろそろ聞こえてもいいと思うんだけど

とは言うものの、しょっちゅう腹を蹴ったりしてくるから、何も聞こえないことはないだろう。とは思ったものの、つい意地悪したくなって、嫌われてるんじゃない?と言った。
ほんの冗談のつもりで、慌てふためいたら大丈夫だって慰めてやろう。そして、今度は二人で耳をすませてみればいい。

―――――え?だって、嫌われたくないじゃないか!

翌日、両手に抱えきれないほどのおもちゃを買ってきた。何してるんだ、これはなんだ、と問い詰めるとそれだ。
一体いつから子煩悩の親バカになるつもりだ、と呆れるが、思いの外その顔が真剣だったので迂闊なことは言えないと学習した。
まったく。その誠意を少しでも自分に見せてくれればいいのに。

―――――ねぇ、聖。こっちとこっちどっちがいいかな?

やけに真剣な顔で訊いてくるものだから、知るかバカ、なんてことも言えなかった。
結局、意地悪を言ってしまったお詫びに一緒に悩んだのだけれど。それも楽しかったからお詫びになんてならなかった。










夜が眠りにつき、朝が目覚めようとする頃。
突如けたたましいチャイムの連打で、聖は叩き起こされた。
ついさっき眠りについたばかりで、やっと訪れた睡眠だったのに。こんな時間に一体なんなんだ。ことと次第と相手によってはぶん殴ってやる。
そう心に誓ったが、虚しくも破棄される。
相手が誰かも確認せずに開いた玄関。その先では、怒り心頭の男が聖を冷たい眼で見詰めていた。
「一体どういうことかな、聖」
聖は、さあっと青褪めた。
なんで、どうして。頭にはいくつもの疑問が浮かぶ。けれど、口には一つも出来ない。
この男は知っている。でなければ、ここまで怒りを露わにするはずがない。
一度も見たことがない、この男が怒るところなんて。野獣のようにがっつく時とは違う、冷たい眼差しに肌が粟立つ。危機感か、それとも恐怖か。
聖は、一歩退いた。しかし、男は気に食わなかったのか聖の腕を掴んだ。
「どういうこと?」
声を漏らすことも出来ない。
本能が、この男に恐怖している。自分を求めるところ、変態くさいところ、優しいところ、知っていることはたくさんあってなんでも知っているつもりだったことが勘違いでしかなかったと知る。その全てとは異なる、男の本気に。
男は、聖を玄関先に押し倒した。玄関がパタリと閉まる。
聖は咄嗟に腹を庇った。どうせ数時間後にはここに何もなくなるのに―――ともすれば、二度と。
「ここに、いるんだってね」
なにが、とは言わなかった。代わりに、にゅっと伸びた男の手が腹に触れる。
びくっ、と肩を竦めた。
本能が警鐘を鳴らす。
聖は腹を抱いた。この男から守るために。
「ぃや……だ、だめ……」
首を振る。
ダメだ。後数時間したらいなくなってしまうのだということは、もう頭にはなかった。
この男の狂気から守りたかった。
「嫌?………っ、はは!」
しかし、男はさもおかしそうに高笑いした。
誰だ、これは。聖は、問う。聖の知る男ではない。
真行寺梓という、この子の父親は、そんな顔でそんな風に笑わない。けれど、他人ではない。
何かがおかしい。
じりと後退るが、梓に腕を掴まれる。
そして、
「嫌ぁあああっ!!」
腹を抑える手に力がこめられた。
「お、ねが…お願い、お願いします……やめて。やめてください!やめて、お願いしますお願いしますお願いします!!」
腹にある男の手を引き離そうとするも叶わず、縋り付いた。
死んでしまう。この子が殺される。
それは、恐怖よりも恐ろしいものだった。数時間前に、殺す決断をした時より。
今更ながらに、ここにいるのだと実感した。
自分が如何に簡単にこの命を消そうとしたのかも、突き付けられる。
「ごめんなさ…ごめんなさいごめんなさい。なんでもします、だから・・・だから、この子を助けてくださいっ」
みっともなく、梓に泣いて縋り付いた。
今まで、主導権は聖にもあった。快楽に溺れる時も、最後には梓と分かち合っていた。
けれど、今初めて聖は梓に膝を折った。みっともなくても無様でも、これしか聖には分からなかった。
稍あって、聖の背中がふわりと包まれる。
「バカ……やろうっ!!」
それが、聖の愛した男のものだと分かるのに時間はかからなかった。
あの冷たい男ではない。聖が、腹の子の存在を許し、愛した男のもの。
長い息が耳を掠めた。
聖も、濡れた目を閉じて安心感に浸った。
「堕ろすな」
梓は、言った。命令とも違う、願い。
「僕の知らないところで堕ろすなんて冗談じゃない……この子は、僕の子でもあるんだ……」
「で、も……」
でも、仮令この子が邪魔ではないとしても、梓は聖とは違う。
聖は泥水を啜り底辺を生きてきた。ありふれた家族を思い浮かべてそうなれたらいいと、慰めることしか出来ない。
梓は、違う。いくら変態でオッサンで野獣のような男でも、会社という組織を担う存在だ。高級クラブが似合う男。人生の底辺を這い蹲るしか脳の無い聖と違う。
その手に人の人生を左右する権利を握る存在。
それなのに、自分のようなやつが身籠ってしまった。梓に相応しい教養を備えた人ではなく、実の両親に捨てられ、ホストという職でしか生きれない聖が。快楽にいとも容易く敗れ、誰にでも体を開く人間が。
そんなのはダメだ。この子もいつか苦しむ。聖という人間が親であることを。
「バカか」
胸にあった不安を吐き出すと、梓は悪づいた。
背に回された腕に力がこもる。
「それで、僕の会社がどうなろうと知ったことじゃない。どうにかなったなら、その程度だったということ。それに、優秀な人材を集めたつもりだからね。心配はしてないよ」
「それでも、アンタには居場所がある」
「聖を捨ててまでしがみつかなきゃならないほどの居場所が?バカを言うな」
でも、と尚も紡ごうとした聖の唇が性急に塞がれた。荒々しい、貪るものとは違う言葉を奪うためのもの。
聖は唇にのまれ、激しい息を漏らした。
「愛している……愛しているよ、聖。聖さえいれば何もいらない。後はどうでもいい」
「しん、ぎょうじ……」
「聖以外の何を選べって言うの?一体誰を選べって。愛する聖以外、選択肢があると言うの?」
まっすぐに、見詰める双眸。こんなに身勝手で真剣な告白なんて滑稽なものされたことがない。それなのに、深く胸を抉る。
仮令、誰かの犠牲の上に立つとしても構わないと。聖を失う以外ならと、伝えてくれるとことん聖に優しい人。
「この子を、跡継ぎにして……俺はいらない?」
それでも、不安は拭えなくて。バカだとは思っても訊ねずた。
すると、梓は不機嫌さを隠そうともせず、思い切り顔を顰めた。
「僕をなめないでくれる?」
するり、と頬に手が伸びる。涙の跡を追うように拭われた。
「愛する聖以外、僕にはもう選択肢はないんだよ。捨てたからね」
「捨て……?」
「会社を父さんたちに返した」
「ハァッ!!?」
予想だにしなかった告白に、聖は目を白黒させた。
梓は、けろりと告白を続ける。
「元々、早く余生をのんびり送りたいとか言ってたから僕は二十歳で会社を継いだけど、僕には聖がいるから。せいぜい短くても後二十年くらいしか生きれない息子と、生まれてくる孫に恨まれたくなければ受け取れって」
それは、つまり脅したというのではなかろうか。
とんでもないことになってしまった、と聖は頭を抱えた。堕ろすと決めたせいで、梓にとんでもない決断をさせてしまった。
「大丈夫、父さんたちもそれならってワクワクしてるから。早く孫はまだかってうるさいくらいだよ」
清々しいまでの台詞に、
「へぶぁあっ!!」
聖は拳をふるっていた。

ごめん、だってムカついたんだ。

と、まだ腹の中で息を潜めている我が子に謝りながら。
     
return
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -