大きな音が房に響いた。女と戯れ一夜を過ごした男は、眠りを妨げられ、未だ覚めない頭をゆったりと動かした。
開かれた房の向こうに人影があった。朝日を浴び立つその姿は記憶に色濃い。
「どうされたのですか―――母上」
一体、何故このようなところまで。と、言外に言い含めて。
母と呼ばれた人はじっと男を見詰めると、視線だけで護衛に女達を房の外に連れ出させた。手早い行動にいっそ舌を巻く。
「本当にどうされたのですか。このようなところにいらっしゃるなど、初めてのことではありませんか」
未だ痛む頭を押さえて、体を起こした。遅くまで飲んでいたから痛みも強い。が、これもいつものことなので特に気にしない。
母は上座に腰かけ、男の様子を眺めていた。稍そうして口を開く。
「話があります」
居住まいを正せ、と告げられて仕方なしに男は母の前に坐した。取り敢えず、といったかんじで恰好も正す。
あくまでも、命じられたから仕方なしにと気だるげな雰囲気を隠そうともしなかった。が、それも次の言葉が紡がれるまでだった。
「嘉礼を行います。世子、あなたのです」
「っ、な………は、母上!!?」「異論は聞きません。直ちに大宮に戻りなさい」
「母上!」
母は世子の言葉を待たずして、房から出て行った。
残された世子は母の言葉を反芻して、心臓の音が大きく脈打った。どくん、と。
「嘉、礼……」










「しかし、いいのか」
王の声に、中殿は頷いた。
「ええ。が去ってから数年。もう時間は十分でしょう」
「しかし、世子は」
「何より」
中殿は語気を強めた。王はその迫力に気圧され、言葉をのんだ。
「世孫の母として、あの子には一日も早く戻ってもらわねば」
王ははっと息をのんだ。
大宮にいつも一人の幼い子供。今は亡き父親の面影を大きく残し、それでいて母親の性質も受け継いだ二人の唯一の子供。
誰からも祝福されたのに、今では母親に疎んじられるようになってしまった子。
王や中殿が訪っても、世子の姉が母親代わりでも。本当の母親の存在を求め続けている子。
「そうか……世孫は、父も母も失っているのだな……」
世子が夫を失ったその日に。だから、世孫は父を知らないし、母も知らない。
いつも母親が帰ってくるのを頑張って待って、帰ってこないことに愛らしい幼い顔に寂しい色を浮かべて。
いつからそんな顔をさせてしまうようになったのだろう。
「ですから、世子には一刻も早く戻っていただきます」
それが、世子の務めであるのだと。中殿は決意を露わにした。










その日のうちに、世子は大宮に急ぎ戻った。なんとしてでもこの嘉礼を取り消してもらわなければならないからだ。
嘉礼なんてごめんだ。二度としない、と心に決めていた。
愛されて、愛して、結局は誰しもが去ってしまうのだ。それくらいならば、もう二度としない。あのような思いなどもうしたくない。
世子の座など姉公主にでもくれてやる。こんな責任と戦わなければならない、悼む間もくれない地位など捨てた。
もしくは―――、
「は……ははうえ!」
世子は足を止めた。
必至に自分に縋り、とめる声。今し方、頭の中にいた子供。
「……何用だ」
世孫。
決して、名を呼ぶことはしなかった。顔も見なかった。
生まれた時は、二人の愛の結晶のような気がして嬉しくてたまらなかった。だがしかし、今はその顔も声も鬱陶しくてならない。あの人を思い出させるから。
「お、おかえりなさいっ、あ、あのっ……」
一生懸命に言葉を紡いで、懸命に嫌われまいとして。ああ、本当に煩わしい。
「用がないなら煩わせるな」
世子は一瞥もくれることなく、その場を後にした。
「は……っ、はは、う……え」
そのような声を出すなら、最初から話しかけなどしなければいいのに。鬱陶しい。
いつから、なんてわかりきっている。あの人がいなくなってからだ。日に日にあの人に似てくるようになって、まるでここにいるよ、と言われているようで。
いないくせに。もういないくせに。何故、いつまでもここにいるのだと存在を示すのだ。
何故ちっとも忘れさせてはくれないのか。
どんなに忘れようと努めても、朝に夕に姿や声、においまで鮮明に蘇ってきて、ここにいるよ、大丈夫だよ、と安心させるかのように。安心などするわけがないのに。ここにいないのだと、思いはないのだと、明らかにするだけなのに。
「本当に、煩わしい……」
こんなことなら、戻らず形だけの嘉礼にすればよかった。世子の地位など姉にでもあの子にでもくれてやって、どこか遠地に流されてしまえば楽になれるのに。
     
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