その日、空は雲一つない快晴。からりとした空気は洗濯物が良く乾くだろうと思われる気候だった。
人々の往来も活気があり、何一つ変わりない一日だった。
久方振りに休みの取れた延文忠は、房で家宝の剣を磨いていた。
先祖代々伝わるこの剣は建国の暁に敵の矢に討たれかけた王を救ったといわれる。王を救った先祖は寵愛を受け、朝廷でも思い役目を与えられたという。
それにならい、この剣を磨くことで己を磨き、かつて先祖が王を守ったように王を守れというのが家訓である。
その教えのおかげか、延家は取り潰されることなく現在まで家門を残すことが出来ている。
「旦那様!旦那様!」
静寂の中に身を置き、自身を律していた時、慌ただしく房の外から呼ぶ声が聞こえて延文忠は眉を顰めた。常々自身を律し、慌てる事なかれと家のものにも言い聞かせていたはずなのだがやたらと騒々しい。
一言言ってやらねばと、腰を上げた。
房の外へ出ると、汗をかいて顔色を青ざめさせた男が出迎えた。普段はおとなしく物静かな男だ。
一体この男を慌てさせるまでの何があったのか。延文忠は漸く事態の大きさに気付いた。
男は延文忠の姿を認めて、息も切れ切れに声をあげた。
「た、大変です・・・!!あ、あのお方が・・・っ」
「あのお方?」
ここに来ることが異例の人物といえば、政敵である金顔季くらいしか思い付かない。
まさか何か企んでいるのではあるまいな。
延文忠は警戒を露わに男の指す方に視線を移し、絶句した。
「ちゅ、中・・・殿、様」
なんということだ。延文忠は息をのむ。
それは驚くはずだ。
相手は、この国の王妃である。
凛とした佇まいに、装飾の少ない立ち姿。されど、纏う着物や所作からは気品が滲み出ており、一見して高貴である。
かつて、胡蝶花帝国の第二帝子でありながら、妻を迎えないと断言した王の心を変えた御仁。おいそれと気安く話しかけることどころか、話しかけられることさえ恐れ多い雲上人である。
ただの貴族の家のものが、このような高貴な存在を目の当たりにするだけで失神する騒ぎになってもおかしくはないのだ。
延文忠は呆気にとられたが、慌てて居住まいを正す。
「本日はわざわざ我が屋敷までおこしくださり恐悦至極に存じます」
「形式ばった挨拶はいりません」
「はい」
「延大監。今日はあなたに話があって来たのです」
「分かりました。では、こちらへどうぞ」
延文忠は中殿を自分の房へと案内した。その途中、お茶を用意するように家のものにも命じた。
房に入ると、中殿は上座に腰掛け、延文忠は下座に腰を下ろした。
中殿は物珍しげな視線を房の中へ向けることもなく、静かに延文忠を見下ろした。延文忠は平伏しており、一体何事かと内心冷や汗をかいていた。
やがて、お茶が運ばれてきた。
中殿はお茶に口を付けた。
その間、延文忠は終始無言を貫いた。視線が突き刺さって来るようで痛い。
「延大監」
稍あって、中殿は重い口を開いた。
「大監にはご子息がいるそうですね」
「はい」
延文忠には三人の息子がおり、その内の二人は妻帯している。長男は家の中に、次男は外に住んでいる。三男はまだ妻帯していないが何れ折を見てさせるつもりではいる。
息子が何か粗相をしでかしたか、と冷たいものが背筋を駆けた。
しかし、次の瞬間、延文忠は想像を絶する言葉を耳にすることになる。
「その内の一人をください」
まるで指輪をくれ、とでもいうように装飾品か何かをねだるようにあっさりと。中殿は口にした。
延文忠は空耳かと我が耳を疑い、不躾にも中殿の顔を見たが、何も変わりない。
いよいよ空耳が聞こえたか、と自己完結しかけた時。もう一度同じ言葉が繰り返された。
今度は空耳などではない。
延文忠は恐る恐る中殿をうかがいみる。その眼差しは揺らぐことなく、寧ろ一貫している。
「恐れ多くも中殿様。ひとつお訊ねしても宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
延文忠は首を切られる覚悟で、おずおずと口を開いた。
「我が息子をご所望とは・・・恐れながら、情夫になさるのでしょうか」
この国にはないが、外つ国には細君が情夫を持つことが当然というところもある。その間で子をなすこともあるし、それは王室も変わらない。
しかし、王は中殿を寵愛しており、側室どころか妾すら持たない。そこへ王妃が夫を他に連れてくればどうなるかは火を見るよりも明らかだ。
そんなことに息子を巻き込むのはごめんだし、何より家門の存続も危うい。なにしろ王は中殿への寵愛がひとかたならない。情夫を持ったと知れば怒り狂い、朝廷が荒れるやもしれない。
しかし、延文忠が案じることがさもおかしいと言わんばかりに中殿はくつくつと笑った。
「いいえ、違います」「違うのですか」
「はい」
延文忠はほうっと胸を撫で下ろす。
取り敢えず、家門の危機は乗り越えられたようだ。自分の代で家門が取り潰されるなどあってはならない。
だが、延文忠はまたもや目を剥くことになる。
「我が息子にください」
「な、なんと・・・!」
延文忠は、絶句した。
今度こそ空耳であって欲しいと祈ったが、どう考えても違う。ならばこれは現実か。
自分の息子を、中殿の息子ーーーつまり世子にくれだなんて。
「そ、れは・・・」
まともな返事など出来ようはずもない。否、寧ろはねつけたい。
何故なら、この国は今世子のせいで朝廷が二分されているからだ。
世子は齢二百近くである。既に夫をなくしてはいるが、世孫一人子供がいる。
しかし、宮殿にいることはなく、書筵を受けずに妓房で遊び呆け酒池肉林に戯れているばかりだ。何度周りが諌めようとも耳を貸そうとせず、酒を飲むか女で遊ぶかどちらかしかしない。
そのため、現在朝廷は世子派と公主派に二分されている。
世子の様子をこのまま見ようという穏健派と、世子などとっとと廃位して姉公主を世子にしてしまおうという過激派である。
延文忠は、この過激派の領袖である。
つまり、王室からすれば政敵になるのだ。
その上での王妃の発言は、とてもではないが許容できるものではなかった。
「勿論、すぐには頷いていただけないでしょう」
「はい。そのとおりでございます」
冷静さを取り戻した延文忠は、中殿の視線を真っ向から受け止めた。
最早これは政敵とのかけひきである。一瞬も気が抜けない。
「恐れながら小臣の息子は邸下に相応しくありません」
「いいえ。大監のご子息ほどうってつけはいません。この朝廷をまとめあげる力を持つ、あなたほどの実力を持った方は」
「恐れ多いお言葉でございます」
しかし、世子などに大事な息子をくれてやるつもりはなかった。
世子は責務を放棄した道楽人だ。そこへ息子をやって、息子のためになるとも思えないし、家紋の存続すら危うい。
なんとかしてかわせないか、と考えていた。
「一年」
ようようと中殿は言った。
「一年時間をください」
「一年、ですか?」
「その間に世子が変わればよし、変わらなければ離縁でもなんでも受け入れましょう」
中殿は本気だった。
しかし、元々くれてやるつもりはなかったが、もっとくれてやりたくなくなった。
たった一年で離縁されれば家門の名に傷がつく。こちらには負荷しかない。
「大丈夫です。あの子は、強い」
中殿は、延文忠の心を見透かしたかのように言った。
延文忠は、目を瞠る。どきり、と心臓が鷲掴みにされた気分だ。
「あの子は禮氏が旅立った時も、後を追わなかった。だから、大丈夫です。まだ」
それは、今ならまだやり直せるということ。
そのきっかけを延文忠に求めているのだ。反対派と一時休戦し、手を取り合うために。
そのために、単身ここまで来たのである。
流石はあの王を陥落した御仁だ。気迫が並ではない。
どんなにこちらが不利でも、賭けをしたくなる何かを持っている。
延文忠は、口角を上げた。
「いいでしょう。期限は一年。それを過ぎたら、公主様に世子となっていただきます」
「ええ、構いません」
中殿は、にっと笑った。






斯くして、その日、世子と延文忠の第三子樹雲の縁談が密やかに纏められたのである。
     
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