清陽王
 呼ばれていることに気付きながらも、何かに拘束されているかのように身じろぎ一つ叶わない。
 どれだけ四肢に力をこめようが、それは変わらなかった。
 頭の中では、出発の鐘が鳴っている。
 早く行かなくては、と思うのに、雁字搦めになった四肢は留まることを暗に告げる。
 こうしている場合ではない。早く行かなくては遅れてしまう。
 そう思うのに、四肢が動かないのも事実。そして、動かないことに安堵しているのもまた事実。
 早く、早く。と、誰かが急かす。
 待ってくれ。体が、動かないんだ。
 早く、早く。
 待ってくれ。今、行くから。
 何で動かないんだろうと、原因を探ろうとして気付く。
 世界が、真っ暗なことに。漠々と広がる闇が、光を全て飲み込んで大口を開けている。
 これでは、分からないじゃないか。
 そう思って、また一つ気付く。四肢だけではなく、首も動かない。
 一体全体、何がどうなってこうなっているのだろうか。
 それに、体が動かないだけではなく、真っ暗闇の中放り出されていることに恐怖を微塵も感じていない。大抵の場合、人間ならば、得体の知れないものに恐怖を抱くはずだ。体が動かなければ、気が動転するはずだ。
 人間、ならば。
 じわじわと、せり上がってくる何かが頭中を占める。
 それは、嫌な感じだった。
『……………』
 世界に喰われる。そんな感じ。
 嫌だ。こんなところにはいたくない。
 体が動かないが、気持ちは自身を抱く。ちっとも安心すらしない。
 おかしい。こんな時、抱き締めたらとても安心した気がするのに。
『……………』
 でも、しないよりかは良いのかもしれない。
 今にも震え出しそうな体は、何故か感覚すらなくて、気持ちで抱くことでしか慰められない。慰め、と言っていいのかは分からないが。
『……………』
 何処かに出口でもないだろうか。
 出口さえ見付かれば、自分の状態も分かってちょっとは好転するはずだ。こんな自分自身すら分からない場所では到底何も出来ない。
 そもそも、何故、自分はここにいるんだ。
 経緯を手繰ろうとして、過去すら思い出せないことに今更気付く。
 おかしい。こんなこと、今までなかった。
 そう思うのは、自分にも少なからず過去があった証なのだと思う。
 兎に角、ここにいればいる程、少しずつ何かを落としていっているような気がしてならない。
 帰ろう。
 そうだ、帰らなければ。
 でも、何処へ?
『……………』
 誰の、もとへ――?
 分からない。
 分からないけれど、多分、ここにいてはいけないような気がする。知らない内に少しずつ落としていった何かが、ここにいては駄目だと警鐘を鳴らす。
 あれ。ふと、気付く。
 出発の合図ではないのか。否、違う。出発の鐘も鳴っているが、これはまた別のものだ。
 まるで木槌で頭を打つような、強い衝撃。
 激しい痛みに、うずくまる。勿論これも気持ちの中だ。
 鳴り止まない警鐘は、出発の鐘とは対照的で痛みを伴う。更に、これは出発の合図ではない気がする。
 警鐘は警鐘でも、もっと別のもの。
 だが、激しい痛みに思考能力も奪われる。
 痛い。痛い痛い痛い。
 助けて。誰か。
『……………』
 でも、誰かって、誰だ?
 真っ暗闇の世界に放り込まれる前は、何をしていた?誰と笑っていた?
 何も思い出せない。
 初めて、何も思い出せないことが怖ろしく思えた。今までは暗闇が他人事だったが、改めて現実に直面するととんでもないことだと知る。
 だって、助けてほしいのに、誰の名前も呼べない。誰にも助けを求められない。
 自分の名前すら忘れてしまった。
『……………』
 こんな暗闇の中、一人取り残されてずっといるなんてごめんだ。だが、這い出たところで同じではないとどうして言い切れる?
 怖い。
 これは夢なのだと言い聞かせようにも、現実と夢の境界線さえ区別がつかない。今までの記憶がごっそりないから、現実も怖い。
 現実でも一人だったかもしれない。孤独にうち震えて、ここに逃げ込んだのだ。
 なら、ここの方が安全ということになる。
 それなのに。
 それ、なのに。何故だろう。
 そう思うと、警鐘が五月蝿い。ともすれば、自ら鳴らしそいな勢いでその考えを全力で止める。
 自分の知らない自分は、知っているのか。それならば、何故、ここにいるのだ。
 問おうにも、相手がいないのならば意味もない。
『……………』
 何故、一人なのだ。
 光は、出口はないのか。
 ここにいたくない。ならば、何処へ。
 誰のもとへ。
 一体、帰る場所は何処にあるのか。
 暗闇が、思考すらも凌駕する。抗いようもない強い力は、意志の脆弱さをせせら笑った。
 飲み込まれる。そう確信した。
 帰ろうとしていた思考が停止すると、ゆるゆると何かが這ってきた。
 だが、思考はもう閉ざしてしまって本当の暗闇が襲う。
 一人は嫌だ。
 帰りたい。
『……………』
 帰り、たい………。

 でも、何処へ。

 誰のもとへ。



 どうやって。




     
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