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埋まらない身長差が、もどかしい。
「神保。次、何だっけ」
「英語。黒板見ろよ」
「面倒」
そんなことすらも面倒くさがる、物臭代表な友人に溜息を一つ吐く。
中学に上がる前は、絵に描いたような優等生だった。成績優秀、温厚篤実、品行方正、文武両道。生徒の模範、若しくは鑑みたいな存在だった。それなのに、中学に上がった途端、何をとち狂ったのか何もかも投げ出してしまった。手習いも、クラス関係も、何もかも。今は惰性が強く、人付き合いも嫌悪を示し、授業に出ることも稀だ。いくら理事長の息子でも、卒業はヤバいだろうと踏んでいる。
こうして話し掛けられると、ルームメートってこともあってか、まだ友人なのか、としみじみと感じられる。全てを投げ出してしまった友人は、自分に特別親しくするわけではないが、適度に話をしてくる。
借りた猫みたいだ。
「そう言えば、あれ、どうなったの」
「あー………分からない」
「へぇ」
思い出したように不意に尋ねられ、神保も思い出す。眉間に皺が寄るのは、ご愛嬌。
「英語って、何か宿題あった?」
興味はすぐに失せたようで、別な話題にすり替わった。
今はそれが有り難かった。
「予習と復習。後、前のとこの問題」
「あー。そーだっけ」
忘れたのか、はたまたやる気が起きなかったのか。絶対後者だろう。友人は、面倒そうに頭を掻いた。
机の上には教科書もシャーペンも置いていない。授業に出る気は皆無だ。
友人は席を立って、「ふける」と、教室を去った。
すると、緊迫感に包まれ苛まれていた教室が息を吹き返した。先程まではしんと静まり返っていたが、隣のクラスまでお喋りが聞こえそうだ。ともすれば、端のクラスまで届くんじゃないか。
神保は、哂笑した。
現金なものだ。目に入れたくないものが去ったら、まるでずっとそうだったように、喋り出す。中学に上がるまでは友人を取り囲み、へらへらにやにや笑っていたくせに、中学に上がり変貌を見せたらサーッと波が引いたように逃げていく。友人は、それすらも気に留めない。何て滑稽な茶番劇だろう。おかしくて、反吐が出る。
「………でも」
呟いて、思う。
でも、あの人よりかはマシか。
頭の中では、拙い笑顔のあの人。実際は、笑うことだけでなく感情を露わにすることも無い。
何時からそうだったのか分からない。ある日、ふと気付いたら離れてしまった。
あの人は、一生懸命だ。仕事にも、矜持を持って取り組む。その姿勢を尊敬し、目標にもしていた。
けど、私事になったらちょっとだけ柔らかくなる。突っ走って頑固一徹だった矜持を自分のためだけに曲げてくれた。付け入る隙も無かった矜持を、ちょっとだけ自分に向けてくれる。それが、好きだった。
好きでいてくれて、そこを好きになった。そして今では、好きなところが増えていた。
何時だって、一生懸命で矜持を持つことにも余念が無かった。言わば、信念だ。あの人があの人である証。
それを、ただ幼い理由でねじ曲げて一緒にいることを選ばせた。それが、最善だったから。自分の中で、疑うこともなく、最善にしたものだったから。
しかしどうだろう。今は、それが重荷となって締め付ける。ねじ曲げた矜持が、忘れていないと牙を剥いている。ねじ曲げた信念に、負い目を感じ、押し潰されそうだ。
後悔していますか、と聞けば、きっと否と言う。それが怖ろしい。
後悔していないなら、どう思っているのか。
あの時、あの人が躊躇った線が今、自分に差し掛かる。何時迄も変わらない身長差が、助長させていた。
後悔していますか。
戻りたいですか。
飽きましたか。
会いたい、と思ってくれていますか。
会いたいのは、俺だけですか。
今、どうしていますか。
何がしたいですか。
俺が、嫌になりましたか。
好きな人が出来ましたか。
俺では、駄目ですか。
もっと大人になったらいいですか。
貴方の隣にいても見苦しくならなくなったら、いいんですか。
俺は、何が出来ますか。
俺は、何も出来ませんか。
貴方は、どうしたいんですか。
聞きたいことがある。会えなくなる内に、言わなくなったことがある。聞けなくなった言葉を持っている。
渡そうとする度に、握り締めた言葉が掌に張り付く。言うな、言わないで、まだ、と。まるで、その先を予期しているかの如く。
逸らされる目が、全てを語っているような気がした。渡したい言葉の答えを。
そして、怖じ気づき、拳を作り一歩下がる。
大丈夫。まだ大丈夫。自分を慰める。
先に惚れた方が負けとは良く言ったものだが、後から惚れた方が負けだと思う。
後から惚れて好きになって、それで何の心配もなく苦労もしない。それなら、ねじ曲げたあの人の証に苛まれるはずがない。
後から惚れると、もう嫌われてしまったのかと不安になる。
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