泰興女王
 喊声が、すぐ近くから聞こえた。
 耳を疑うような不敬極まりない言葉の羅列と、絶対正義を疑わない敢然とした士気。
 女王は、それを大殿でじっと聞いていた。
 瞑目し、脇息に拳を置いて長い間そうしていた。時々、思い出したように内官が状況報告をするくらいで、しんとした静寂が覆っていた。
 しかし、大殿を一歩出れば打って変わって騒然としているのは分かりきっている。
 次々とあがる黒煙は、徐々に王宮殿に近付いていた。大殿からあがるのは、そう遠くはないかもしれない。
 しかし、女王は泰然と玉座にあった。
「殿下、女王殿下!」
 内官が、血相を変えて飛び込んできた。
 女王は、瞼を上げることのないままに続きを促した。
「上将軍が………、上将軍が………っ!」
「……そうか」
 女王は、その一言だけで全てを察した。
 心の内だけで、哀悼の念を送った。
 黒煙が王宮殿の中からあがった時、予測はついた。但し、確信はなかったから、もしかしたらを片隅に置いておいたが。
 直接礼を言うことは叶わなくなった。否、同じところにもうすぐ行くのだからその時に改めて言えばいい。
 今は、まだ―――。
「殿下。お逃げください。反乱軍はすぐそこまで来ています。今なら、まだ………っ」
 内官は、召し物を女王と変えようとした。が、女王が全く動く気配もないのを見て訝しむように様子を窺う。
 女王は、やはり泰然と玉座にあった。瞑目し、拳を脇息に置いて、身じろぎもせずただただ玉座にあった。
 稍あって、女王は漸う口を開いた。
「何を言っている」
 そのたった一言が、内官の体を硬直させる程重かった。
 奇妙な威圧感に唾を飲み込むことも出来ず、金縛りにあったかのように内官は女王を凝視した。女王の心の内は読めないが、それでも内官は女王の計り知れない何かを体で感じ取った。
「……………殿、下………」
 やっとのことで言えたのは、たったそれだけだった。
 何時も傍らで仕えてきたが、こんな風になるのは決して稀ではなかった。何時だって女王は殺伐とした気を負い、剣呑に周囲を見ており、気の抜けないような人だった。
 だが、と内官は思う。今日のそれは、何時もの比じゃない。その姿は、まるで決死の覚悟で望むような、内官等足下にも及ばないような気迫を持っていた。
「何を言っている、河内官」
「………女王、殿下………………?」
 女王は、再び問訊した。
 そして、その双眸がゆっくりと現れる。
 内官の背に戦慄が走った。それは、何かが起こる前触れのようでもあった。
「余は、玉座を―――」



 王宮殿、大殿の見える政化門前。
 反乱軍は、女王廃位の旗を掲げ大殿に乗り込もうとしていた。都城攻防戦で金蘇言上将軍の首級をとり、反乱軍の士気は鰻登りとなっていた。
 迎え撃つは、金蘇言の父徐衒を師と仰ぐ奇修大将軍とその子章。
 戦況は、最悪だった。女王の寵臣で兵卒の羨望と憧憬を一身に受ける金蘇言が、よりにもよって反乱軍の首謀者である金雲仙に首級をとられた。そのために、軍の士気は反乱軍と反比例するようにぐんぐんと下がり、それを必死で鼓舞するも力が及ばない。
 若僧に戦況を左右されるとは。いくら、師と仰ぐ金徐衒の子であるからと言っても、老練の奇修から見ればまだまだ未熟者だった。
 それなのに、反乱軍一人に手こずり、剰え、士気も上げられないとは―――。
「老いましたね」
 頭をよぎった考えを言われ、奇修はハッと我に返った。
 声の方を見遣れば、そこには返り血を浴びても尚悠然と立つ男―――金雲仙。
「貴様………っ」
「兵部令も老いるとは………。時とは、怖ろしいものです」
 金雲仙は、目を三日月に細めて笑った。宛ら、反乱軍とは思えない程。
 これが、上大等にまで上り詰めた挙げ句女王に反旗を翻した謀叛人。この国の王朝を塗り替えようとする大逆罪人。
 沸々と怒りが込み上がってきた。女王に寵愛され、何が不満だったのか。何故、その力を謀叛などに使うのか。到底理解出来ない。
「大逆罪人金雲仙!女王殿下に徒なす謀叛人よ、我が剣を受けるがいい!」
 奇修は、剣を掲げ猛然と金雲仙に突進した。それを、金雲仙が悠然と待ち構える。
 剣が交わり、次いで一つの剣が弾かれる。
「父上、父上ぇえええええっ」
 一つの首級が、政化門前を飛んだ。



 黒煙が、黒雲へと変わる。
 金雲仙は、軍の士気を鼓舞した。
 政化門の横に奇親子の首級を掲げることで、軍の士気はこれまでにない程に上がっていた。鼓舞するのにも苦労しない。
 女王軍は、誰一人として逃げやしなかった。最後まで、忠誠心から戦った。が、忠心は数に負けた。
 金雲仙は、剣を掲げた。
「女王は、大殿にいる!進め、進め!」
 金雲仙の鼓舞に兵卒は喚声をあげ、次々と大殿に向かった。
「将軍、逃げているのでは………」
「いや、いる」
「しかし、既に王宮殿に入ってから………」
「いる」
 女王は、便殿にいる。



「とうとうここまで来たか――金雲仙」
 女王は、待ちくたびれたとでも言うように嘲った。
 便殿に、女王はいた。玉座に泰然とあり、金雲仙をそこで待ち続けていた。
 これではどちらが優勢で、反乱軍はどちらか分からない。
 しかし、金雲仙は驚かなかった。逆に、それが女王らしくもあり笑みが零れる。
「賢明。私の手を取れ」
 金雲仙は、手を伸ばした。
「余の名を呼ぶな、反乱軍よ」
「賢明」
「黙れ。笑わせるな、反乱軍」
 しかし、女王はそれを一蹴して嘲った。手を伸ばしもしなかったし、逡巡もしなかった。
 それでも、伸ばした手を下ろしはしなかった。この手を伸ばすのはこれで最後。
 もう機会はない。
「愛している」
 金雲仙は、女王を見据えた。
「くだらん」
 女王の答えは、変わらなかった。最後まで。
「余は、玉座を空けぬ」
 その答えを、金雲仙はとうの昔に知っていた。



 便殿から火の手があがった。ごうごうと便殿を覆う火を、金雲仙は茫然と眺めていた。
 燃え尽きた便殿の中に、玉座はそれでもあった。そこに、人骨は座っていた。
 女王が王であれる場所だった。そして、最初から最後まで王だった。心を望んでも手遅れだった。
 金雲仙のためだけに存在した公主は、女王となった瞬間に死んでしまった。女王は、国の物となった。
 それが、我慢ならなかった。
「本当に、死ぬまで王でいるなんて。酷いな――賢明」
 ――玉座を空けぬ。
「それで、君を嫌いになれるなら。私は、とっくの昔に君を殺した」
 あの日、手を離された時。何が何でも、傍に置くためならそれすらも厭わなかった。そうしなかったのは、何時か帰ってきてくれると信じたからだ。
 王になってしまった心と共に、何時か。
「愛してるよ、賢明」
 賢明公主――女王の頭蓋骨の頬の部分に手を当て、慈しむように優しく撫でた。
 そして、唇と唇だったろう場所を重ねた。



 永明六二三年。真豊王の次女賢明公主即位。年号を落陽と改める。
 落陽四五九年。上大等金雲仙、乱を起こす。女王、兵部上将軍金蘇言に統帥権含む全権を委任。
 同月、金蘇信都城前で死す。
 同日、兵部令大将軍奇修と子章政化門前で死す。
 同日、便殿焼失。女王、玉座を空けぬまま崩御。
 同年、金雲仙、女王に聖烈女王の諡号をおくり、七十日喪に服す。金雲仙、王位に着き、年号を送王と改める。
 送王二年、公子大鷲、伐州を攻める。公子、七日七晩攻め、金雲仙の首級をとる。
 同年、公子王座に着き、金雲仙へ廃主城司王の諡号をおくるが、宗廟には入れず年号を湖陵と改め、初勅として、聖烈女王の諡号を泰興女王と改める。


     
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