「お前さあ」
 と、稍あって、安冷源は口を開いた。視線は華淵にない。
「もっぺん医員になりたい理由言えや」
「民草を救いたいからです」
 華淵は、答えた。
 やっとだ。やっと安冷源が、自分を見てくれる。と、思った。
 理由を尋ねるということは、弟子にしてもらえると自惚れてもいいのではないだろうか。
 華淵は逸る胸を抑え、安冷源をじっと見据えた。
「それよ。それ」
 しかし、安冷源の眸子は冷めたものだった。
 軽蔑でもしているような視線に、華淵は身を竦ませた。何故か『言ってはならないこと』を言ってしまった気がする。
 そしてそれは、物凄く大事なことだと誰かが言う。
「民草を救いたいだなんてご大層な理由掲げてオメエ、何様のつもりだ?ええ?」
「は………。い、いえ、そんな………」
「そういうこったろーが」
 そんなことはない、と言おうとした矢先に冷や水をぶっかけられたようだった。
 民草を救う医術が素晴らしいものだと常々思っているし、だけどそれでお高くとまるつもりはなかった。民草を救えたら良かったのだ。
 けれど、安冷源は華淵の考えを読み取ったかの如く、ひやりとする声音で尚も続けた。
「民草を救うだの、医術で貧しい民草を治すだの。テメエがそうもつらつら並べ立てるは、そんなにも良いもんじゃねえんだよ」
「わ、私は………」
「何より、オメエらがご大層にあげ連ねる口上にはな、人間は民草でしかないんだ。オメエらと同じ人間としてみていないってことだ」
 安冷源は、華淵を睥睨しながら言った。
 図星だった。
 確かに、華淵は民と同じ位置に初めから立っていなかった。何時だって見下ろして、弱い存在だと決めつけていた。
 それが、民の自尊心を傷付けるものだと知らずに。
 忸怩たる思いが、華淵を覆う。途轍もない過ちを犯してしまった。
「何時だってそうだ。お偉方が何を集まってくっちゃべってんのか知らねえけどな、その禄はくっちゃべり代じゃねえんだよ。どんなにくっちゃべったって、お偉方とは住む世界が違うから分かるわけがねえんだ」
 華淵は、安冷源の話を居住まいを正して聞いていた。恥はあった。けれども、今は恥を忍んでいた。
 自分に足りないものを教えてもらっているのだから。
「オメエよぉ」
 嘆息して、安冷源は俯く華淵の顎を上げた。
 安冷源の目に華淵が醜く映っているような気がして、くしゃりと表情を歪めた。師と仰ぎたかった人から軽蔑されることほど辛いものはない。
「親、いんの?兄弟は」
「おります。………妹が、一人」
「じゃあさ、家族が全員疫病に罹ったら、どうよ」
「安医員様に診てもらうに決まってるじゃないですか!」
 華淵は、声を荒げた。
 当然だ。敢えて訊くことじゃない。
 今度は怒りに、真っ赤になった気がした。
 安冷源は、じっと華淵を凝視した。かと思うと、すっと目を眇める。
「疫病だぞ。ここに来る間に死ぬかもしれねえんだぞ。生憎、お偉方を優先するような場所じゃねえからな」
「そ、そんな………」
「そうなったらどうする」
「そ、れ……は」
「嫌か?」
「嫌に決まっています!」
 華淵は、また声を荒げた。少し前まで言葉に詰まっていたからか、その反動のように一段と張り上げていた。
「それだよ」
 そして、安冷源はにっかと笑った。パチンと指を鳴らして。
「は………」
「家族が病に倒れた時、自分が何か出来たら。それ位、ちっちゃくていいんだよ。じゃないと潰れる。医員は肉体的にも精神的にも辛いからな」
 医員は人から敬われるが、その実、醜いものだった。
 医術を競り合い、政事に利用され、人の命を預かるとは思えないことばかり。医術が劣っていると自棄になる者もいた。
 それを安冷源は、ずっと見て来た。
 それで、潰れていく医員を。ずっと。
「なあ、もう分かってるんじゃねえか」
 若造。と、言う口元はつり上がっていた。
 答えを見付けて当然とでも言うように。
 だが、華淵はぽかんと口を開けて呆けていたが、その眼には火が焚き付けられていた。それは、安冷源の言う『ご大層な理由』などからではない。
 確固たる夢を持った、若い意志。
「安医員様」
 華淵は、額付いた。
「改めてお願いします。私を弟子にしてください」
 今度は、自信なんて全くなかった。あんなポカをやらかした後だ。
 しかし、言いたかった。否、医員になりたい。そう思った。
「私を導いてください。家族が病に罹った時に治せる、そんな医員になるために」
 安冷源を見据えて、言った。
 手が震えていた。恐怖からではない。ある意味恐怖だが、極度の緊張からだ。
 安冷源の言葉を待つ。その間に、どれだけ時を数えられたか分からない。
 華淵は、唾を飲み込んだ。大きく響いた気がして、肩を震わせた。
 そして、
「やなこった」
 と、安冷源は言った。鼻をほじりながら。
 その後に、「誰が掃除係を弟子にするか」と、続いた。



 これが後世にまで称えられる医術の父華淵と、その師で偏屈者と言われた安冷源の邂逅である。
 安冷源と意志を同じくして、決して医官になることはなかった華淵。彼は康顕王の庶長子孝遠君の嫡男で、聖君と謳われた時の王烈國王と従兄弟でもあった。
 そのため、一度烈國王から是が非でも御医にと頼まれたこともあった。
 しかし彼は、一考もせず要請を蹴った。
「私は師の意志を受け継ぎ、心に刻みました。それなのに、どうして御医に着けましょう。何処にいようと、心は主上殿下にお仕えします。必要な時に私をお呼びください。喜び馳せ参じ、身命を賭して主上殿下をお支え致します」
 そう言って、得られるはずだった利権を全て手放したという。
 その言葉通り、彼の歩む道こそが烈國王の治世を支えたと言っても過言ではない。医療大国瑞雨の名を更に世界中に轟かせ、医術の水準を上げることが出来たのも偏に彼の意志と医術があったからこそだろう。
 そして、彼が世を去った後も安冷源から受け継いだ意志は、子々孫々、弟子の弟子のそのまた弟子と脈々と受け継がれることになる。

 名実ともに『民のための医員』ではなく『真の医員』となった華淵。彼の医術の道は、決して平坦ではなかった。
 しかしそれこそが、今日まで彼を医術の父と言わしめているのだ。



     
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