安医院は安雑賀が都陽川に建てた医院である。安雑賀は安冷源の実父で、安冷源は安雑賀の跡を継いだ二代目当主だ。
 安医員は先代の元で教えを請い一医員として患者に向き合っていた頃から類い希なる才能を発揮しており、巷では患者を一見しただけで病が分かる医仙だと噂されていた。数多の名医を輩出してきた瑞雨で突出した才能を持っていたが、安医員は父親と違って哀れみの心が偏っていた。裕福な者は安医員の診療を受けることは出来ず、貧困に喘ぐ者しか診療は受けられないのだ。故に、両班や王族が重い病を患って助けを求めて駆け込もうが、他をあたれと追い出す始末。
 そんな安医員に教えを請う者など誰一人としておらず、寧ろ医員としてあるまじき姿勢だと非難を一身に浴び、片田舎で人々の身分や善悪関係なく医術で救う魚磐余の元に集まる人が多い。
 だが、そんな変人奇人おまけに富豪には冷血な安医員に師事を仰ぐ人物が、ここにいた。天をも揺るがすことをしでかしてくれた人物は、言わずもがな安医員が嫌う王族の上位に立つ華淵である。
 華淵は瑞雨中に名を轟かせる安医院の前で、日差しが肌をじりじりと焼き尽くす程かと思う日中、かれこれ半日程じっと座っていた。安医院の門前には夜が明けた頃から病に体を蝕まれている人々がズラリと列を作り、彼らが列を作るよりずっと前からただ只管に門を見据え、寒暖の差の激しさに苦痛も漏らさず耐えていた。
「よくやるわねえ」
「あら、あそこに座っているお兄ちゃんは誰なの?」
「ここらへんで見ないから高貴な方なのよ、きっと」
「でも身なりはあたしらと変わらないよ?」
「馬鹿ね。似合っていないじゃない。あれはきっとあたしらとは天と地、月とすっぽん、陶芸とおまるの差はある人だよ!」
 列を作っていた民達の他にも、往来を行き交う人々の噂が人を呼び、安医院の門前は何時もとは少し違った意味で騒々しかった。華淵の耳にも彼らのひそひそと言うには大きい声がしっかりと聞こえており、だがそれにも堪え忍んで門をじっと見据えていた。
 否、正確には門の先にある医院を。華淵がずっと憧れてやまなかった姿がある医院を、想像でしか見たことがなく、夢でも見たことがない医院を見ていた。見て、只管に祈り続けていた。
 安医員様、神様、仏様、ご先祖様。どうかお願いです。私に医術を学ぶ機会をください。主上殿下、中殿媽媽、大王、母上、そして――父上。憎い息子であることは承知ですが、どうかお願いです。
 私に医術を学ぶ機会をください。医術での成功なんて望みません。本当は期待してしまいます。ですが、私の夢は主上殿下の慈しむ民を救う手助けをこの手でしたいのです。政界に身を置けず、詩や学問の才能もない親不孝な息子ですがお願い致します。
 私に医術を学ぶ機会を―――、
「門前がやけに騒がしいと思ったら、誰だ貴様は。そんなとこで席藁待罪とは暇人だな」
 ふわり。と、紫煙の臭いが鼻先を掠める。余程高いものなのか臭いに嫌悪を感じるものはなく、臭いと共に視界に映った足と声が現れた。
 降って湧いたものに信じられない気持ちが勝って、視線を上げる動作がのろのろと亀の歩行よりも遅くなってしまった。
「貴方は……」
「見て分からんか。このすっとこどっこい」
「すっ…!?」
「当たり前だ。如何なる理由があろうと日差しが強いのに笠もつけず座り込むとは、すっとこどっこい以外の何がある?ええ?」
 尊大な態度で華淵に降りしきる矢の如く言葉を浴びせる男は、華淵の姿を鼻で笑っていた。馬鹿にしたような態度に頭に来て当然なのに、今は安医院で医員になりたいという願いを叶えたくて、そんなこと全く考えられなかった。
 偉そうな人物は舐めるように上から下まで眺めたかと思えば、すうっと目を眇めた。先程までの小手先だけの相手してやっているが嘘のようだ。
「見たところ、お前、身なりは貧乏ここに極まれりだが常人でもないな。両班か王族。若しくは成り上がりの通訳か商人の子といったところか」
「貴方は…?」
「見て分かれや、あほんだら。私は安冷源。ここの医員だ」
「安、れ……げん…」
 その名前を微かな声で呟き、徐々に脳に浸透させる。その名前は幾度となく聞いたことがあって、だけど一瞬では理解出来なくて。
 漸く理解したと思えば、驚愕で瞠目した。
「貴方が安冷源医員ですか…!」
「おうおう、分かってんじゃねえの。んで?貴様のような箱入り童がこんなとこまで何しに来た」
 ギンッと敵意を向け、安医員は品定めでもするように華淵の視線を捕らえた。畏怖を抱いたが、願いが頭をちらついて、逃げ出したくなくて拳を握る。まだ、何もしていない。
 華淵は深く息を吸い込み、安医員の視線に答えるように双眸を見据えた。深く吸った息を一気に吐き出すように大きく口を開け、大々的に挨拶をした。
「わ、私は華淵と申します!」
「華…?」
「安医員様、私を弟子にしてください!」
 やれることはやったと息巻いた華淵に、突然のことで二の句が継げなかった安医員が出した答えは、
「やなこった」
 だった。しかも、鼻をほじりながら。
     
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