太子即位。年号を穏徳と改め、廃主に嘉定君の君号を与える。



 長閑である。閑静とした、実に静かな地である。
 のんびりと過ごすには時間が余りすぎていて、彼は鍬を持って土を耕して種を蒔き、畑を作った。
 庵の裏で悠然と蕾を開かせ花を咲かせるのを待つ梅の大樹は、春になればよい香りを運ぶだろう。香りに誘われた時鳥も近くで思う存分楽しみ、耳を澄ませば機嫌を良くした時鳥の囀りが聞こえるはず。
 そしたら団子を作り、茶葉を買って梅の香りと心地よい囀りの風流を楽しもう。時間は沢山あるのだ。
 茶葉を育ててもいいなと、彼は春を心待ちにする。ああ、詩を詠んでもいいかもしれない。こんなにのんびりと過ごすことは無かったので、後から後から楽しみが増えてくる。
 薄く微笑み、鍬に力を込めた。その時、
「那珂公!」
 思案に耽る彼の諱を、懐かしい声で耳を吹き抜けた。鍬が虚しい音を立て、手の中から零れ落ちた。信じられないよりも何がなんだか分からなくなって、鍬を呆然と見つめた。情けなくも手は震えて、鎮めようとして鎮められるものではなかった。
 やがて、頭が理解して心が理解して、視線を声の方へと向けた。恐る恐る、恐々と振り向いた自分は滑稽かもしれない。
「……す…こ…じゅ…」
 視界に入ったのは、欲してやまなかった彼女。口を突いて出たのは、想い人だった人の諱。
「も…と…。もっと、ちゃんと呼んで!」
 ボロボロと、次から次へと惜しみなく零れた涙。彼女の諱を朧気に呼んだら、彼女が彼女たらしめる我が儘が返ってきて。恋した想い人だと確信出来た。
 無我夢中で、彼女の諱を馬鹿の一つ覚えの如く呼び続けた。
「玖珠、公主…玖珠公主!」
 やっと、呼べた。やっと、あなたに聞かせてあげられる。私が発するあなたの名前を。彼の心は歓喜に震えていた。
「……那珂公!」
 ああ、彼女だ。
 喜びが体を突き抜け、一歩踏み出すことすら叶わなかった足は独りでに動き体を引っ張る。足に抗うことなく駆け出して、同じく駆けてくる彼女に向かって走る。一歩、一歩と近付くたびに彼女はボロボロと涙を零して、それは風に乗り地を穿つ。
 走り寄った彼女を抱き締める。
 温かい。懐かしい、彼女の体温だ。
 胸板に埋められた顔からは今だ涙が止めどなく溢れ、抱き寄せた彼女に同じく涙が止まらない。こんな時に泣いてしまうなんて、なんてカッコ悪いとこ見せてしまうんだろう。けれど、止めようとして止められるものなら、これは涙ではない。
「那珂公…っ。お、お会い、した……かっ…」
「私もです、玖珠……こ…じゅ」
「ごめなさっ、あなたに全てを賭けられなくて…。あなた以外の……っ」
「言わないで、玖珠公主。私も、同罪…だか…ら」
 会いたかった。会いたくて会いたくてたまらなかった。けれど、許されないことをした。互いの胸に黒い靄があることを、彼は分かっていた。だてに長い歳月、彼女を想って過ごしていないのだ。彼は互いの胸に蜷局巻く黒雲を紡ごうとした彼女の唇を己の唇で塞ぎ、何も考えられなくした。
 最初は驚き、双眸をこれでもかと開いて白黒させていた彼女も、次第に久し振りに唇から感じる体温に力を抜く。口から熱が注ぎ込まれているように、互いが互いの体温を直に感じる。背に絡めた手は離さないと強い意思を持ってしがみつく。
 どれくらいそうしていただろう。息も絶え絶えになった頃、二人は漸く互いの唇を離した。今だ熱が籠もっており、離しがたいと手は離れなかった。
「ど、して…ここ…に?」
 息を吐いた時、彼は問訊した。廃位されたことを聞いて、彼女は言った。
「世子に蓬莱公子の婚姻と引き換えに、譲位しました」
「玖珠公主」
 大それたことを。彼は思った。譲位は容易く出来るものではなく、彼も廃位しか道がないと思っていた。が、彼女は実の息子と取り引きをして、何もかもを捨てて彼に会いに来てくれた。彼が出来ないと、そう思ったことを。
「妻として、あなたの側にいさせて下さい」
 しかし、彼女はそんなことよりもと、嘆願した。彼女は彼の傍に寄り添うこと以外、もう何も残っていないのだ。
「良いのですか…?」
 問う。
 彼女は間を置かず、頷く。涙ながらに、彼の眼を見つめた。
 その瞳に彼はふっと微笑み、膝を曲げて彼女と視線を合わせた。彼女の目と涙が、彼をじっと見る。
「春になったら、団子を作りましょう」
「団子、ですか…」
「お茶を淹れて、庵の裏に梅の大木があるのでお花見をしましょう」
「梅…きっと良い香りでしょうね」
「時鳥の囀りと梅の香り、それから詩も読んで……今年の春は、あなたもいるからきっと楽しいでしょう」
「はい、那珂公子」
 彼女は涙を拭いて、先の想像に思いを馳せて彼に寄り添った。
 今年は彼女と春を過ごせる。彼は腕に春の温かさよりも温かい彼女の体温を、懐かしい彼女を確かめながら思った。
     
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