「母上?」
「婚姻は認めん、今すぐ嘉礼都監を設置し、嬪宮を選ぶ」
「母上」
「お前は私に子殺しの汚名をきせるつもりか」
 手が震えた。気付かれていないことに安堵し、手の震えを止めた。止められるということは、まだ自分は女王だと確認する。
 母上と呼ぶことは建て前で、そんなことは思ってないと暗に示すために手っ取り早いのだ。本音は母とも何とも思っておらず、世子の心には何もなくなってしまった。父親と引き離し、自分が王となってしまったばかりに。
「お前に選択権はない、世子」
 王は息子にすまないと謝ることも出来ない。それを悔いても悔やみきれなかった。



「譲位、か」
 まるで、予期していた。そう言うようで、気まずさを感じながらも驚かずにはいられなかった。
「やっとですね、殿下」
「やっと……?」
「ええ。やっとです、殿下」
 落ち着いた風格に、本来なら王であったかもしれないことが頭を掠めて。申し訳無く思うが、面に極力出さずに威厳を保つ。
「殿下は私に正直に伝えて下さった。身ごもっていると。私を信じていると言ってもいいですが、話せばどうなるか手は打ってあると、牽制したのでしょう?」
 夫を信じてはいるが疑っており、心はここにないと示唆する。そうすることで、夫の親族の権力が広がることを良しとせず。王権強化の宣戦布告をしたのだ。
 愛していない。心もない。あるのは女王のみ。夫に仕える妻としては考えられない仕打ちで、政略結婚だとしても怒って当然だ。
 だが、彼は怒らなかった。
「私は女王の夫として力を尽くしました」
「力を尽くす?」
「殿下は大君を産んで下さり、私の勤めは王族の牽制でした」
「牽制…」
「気付かれていたはずですよ。私が大君を授かってから、一度も抱いてないと」
 当然だ。夜伽は幾度もあったが、夫の時だけは体を蹂躙されることがなかった。抱き締められることもなく、隣にいるだけ。
「それも、殿下が退かれるか逝去されるまでだと、私は決めておりました。私は殿下に恋しているわけでもありませんが、夫として最善を尽くせたと自負しております」
 それこそが、王の夫としての誇りであり、唯一民に尽くせる方法だった。
 薄々察していたことだ。驚くほどのことでもない。なのに、女王は指先一つ動かせなかった。胸中にあるのは申し訳なさ、悲しさ、あらゆる感情が混ざり合い黒々と君臨しており蜷局を巻いていた。
「女王殿下」
「何か」
「梨はお好きですか」
「…は?」
 さっきとは打って変わった全く関係もない話題に、女王は目を丸くした。何処から出したのか、その手には梨が握られており、手際良く梨を剥いて女王の口に押し込んだ。
 通常ならば無礼だと怒鳴りもするが、そうしてはいけないと視線で訴えられる。大人しく梨を口に含んで、瑞々しく甘さをおおいに含んだ果実を咀嚼する。甘さがじわじわと広がり、甘さと旨さに舌鼓を打った。
「梨は林檎と同じく木に実る果実です」
 口を動かしながら次の梨を剥く。あっけらかんと眺めていると、次の梨が口の中に押し込まれる。抵抗なく口を動かし、耳を傾けた。
「ですが傷んだり、ぶつけてしまったりすると味を損なわせます」
 食べたことはないが、茶色い梨や林檎は食べたことがない。見た目からして、食欲をそそらないのだ。
「では、梨は川に落ちたらどうなるでしょう」
 流れに乗り、傷む。
 当然だ。が、言いたいことに察しがついた。夫もそれくらいは分かっているに違いない。
「ああ、そうそう。私は夫として、愛していましたよ」
「そうか」
 妻として一度も愛せなかった夫は早く行けと催促し、女王は愛していると返してやれないことに胸を痛めた。しかし、それこそが夫であった人への侮辱に他ならない。夫の誇りに傷を付けるのだと、女王は言い聞かせて駆け出した。



 これは虚像だろうか。
 否。
 彼女が自分の足でここまで来て、たった一つの思いの一念で辿り着いた。だから、これが虚像や錯覚であっていいはずがない。
 あの時と同じで震える視界に、少しでも長く多くその姿を留めんと拭う。それでも二進も三進もいかず、後から後から拭っても視界は揺れる。
 動け。足を叱咤した。近付かねば、その尊顔を拝見出来ない。なのに、もう動きたくないと赤子のように駄々をこね、がたがたと震える足で一歩踏み出すことすらままならない。
「……か、公」
 か細い声は届けと願おうが、非力すぎて棄却される。それだけの弱い願いだったのかと言われているようで、もう一度声を振り絞る。
「那珂、公…」
 まだまだ小さい。喉は潰れるように痛み、声を発すれば増す。それに振り回されるようなら、それだけの願いだったということで。痛みに抗って声を振り絞る。
「那珂公!」
 最後の一踏ん張り。
 通じた。とうとう、願いは届いた。こちらを向いて、と願ったことが。
 鍬が虚しく音を立てて、手の中から落ちた。土に落ちた鍬を暫し信じられないと見つめ、手先から連動するかの如く震えが増す。
「……す…こ…じゅ…」
 視界に入った彼女を呼ぶ。
「も…と…。もっと、ちゃんと呼んで!」
 たまらなくなって、いてもたってもいられず声を発する。その声に呼ばれなくては実感出来ず、呼んでもらいたいと願った。
「玖珠、公主…玖珠公主!」
「……那珂公!」
 願いが叶い、また視界がぶれた。名前を呼ばれたせいだ。こんなことなら呼ばれなければよかったと、けれど嬉しさには叶わず。
 名前を呼ばれないなら、その温もりが欲しい。欲が次々と溢れ、駆け出す。今度は、反抗期を終えたらしく言うことを大人しく聞く足。
 欲しくて、足は段々と早まった。
     
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