その猫を拾ったのは、酷い雨の降り頻る夜だった。


唯一の初めては 01


拾ったというよりは拉致してきたという言葉のほうが恐らく的確だろう。寒さの厳しい冬の夜、青天の霹靂と呼ぶに相応しい突然の大雨の所為で帰路を急ぐことを余儀なくされた人々の隙間に隠れてぐったりと横たわるそれが不意に真斗の視界を掠めた。彼もまた大雨に慌てて自宅へ向かっていた一人だが、その存在に気付いたからには自分の都合で無視をするわけにはいかない。友人には損な性格だと日頃から呆れたように言われているが、自身でそう思ったことはなかった。

人混みを掻き分けて慌てて近付いてみると、雨に濡れてぐったりと気を失っている人間がいた。誰かしら彼の存在に気付いてもおかしくはなかったと言うのに、この大雨のせいだろうか、誰も彼を助けようとはせず長い間放置されたままでいたらしい。全く冷たい世の中だと憤慨する気持ちをどうにか押し込めて冷え切った彼の体をそっと抱きかかえると、その拍子に意識を失っているのであろう彼の何かがぴくりと動くのが見えた。
――長い髪から覗く、獣の耳だ。
なるほど、それならば誰も彼を助けようと行動しなかった理由にも不本意ながら納得がいく。

この世では、半人間、また言い換えれば半獣である彼らの存在は珍しくないものだ。その存在が生まれた原因は未だ誰も解明できずにいる。今では比較的ましになった方だが、彼らの存在が公になり始めた頃の扱いは人間である真斗でさえ目を覆いたくなるような惨いものだった。気持ち悪いと罵倒され、暴力を振るわれ、虐待をされることが当たり前。誰一人その行いを咎めることなんてせず、それどころか楽しんで見ていたり虐待に加わったりと、非人道的な行為を繰り広げていた。人間は自分と異なる存在を目の前にした時、恐怖心からその相手に危害を加える。そうすることで自分の立場が上であると知らしめようとするのだ。弱いからこそ、そんなことでしか平静を保てない生き物なのである。

昨今ではほとぼりは冷め始めているとは言え、それでも半獣と関わると碌なことがないと思い込み忌み嫌う人間は決して少なくない。今真斗の目の前にいる彼が過去にどんな目に遭ったかそのすべてを想像することはできないが、確実に良い思いはしてきていない。肌蹴た胸元にくっきりと浮かぶ大きな蚯蚓腫れのような痕を見ればそう理解することは必然だった。
真斗は半獣を好くのでも嫌うのでもなく、人間とほぼ同じ存在であると認識している。容姿や仕草に多少の差異はあれど彼らは人間と同じ感情を持っているのだから、差別する必要などどこにもない。それに彼らが人間に危害を加えたなどという例は一度も耳にしたことがなかった。どうして何も悪いことをしていない彼らが非難される理由があるだろう。否、決してあってはならないはずだ。

(こいつは嫌がるかもしれないが、せめて風邪をひかぬよう家に連れて行こう)

意識を取り戻した時、彼は怒るかもしれないし、逃げ出すかもしれない。何せ彼らにとって純人間はすべてが敵で、暴行をする者たちでしかないのだから。

それでも良い。どんなに憎まれても良かった。人間を好きになってもらおうだなんて浅はかなことは微塵も思っていない。ただ、こんな差別はおかしいと思いながらも人間の集団が持つあまりに大きな威力にそれを止めることの出来ない自分の、自己満足に過ぎないせめてもの罪滅ぼしがしたかったのだ。

◇◆◇

「……酷いことをする奴がいるものだな」

見た目よりもずっと身軽な彼を抱えて家に着いた真斗は、びしょ濡れになった彼の体をソファに横たわらせタオルで刺激しないよう丁寧に拭っていく。隅々まで拭いてから着替えさせるために服を脱がすと、体全体を覆う夥しい数の傷跡が顕になった。思わず手を止めて顔を背けてしまうほどの傷。しかもそれらは普段は目立たないような場所に重点的につけられている。半獣を嫌う人間がつけたことは間違いなかった。仮に傷をつけたのが彼と同じ半獣であったならば、人間の道具を使うことを許されない彼らは直接手を下すはずである。ところが彼の体にあるのは火傷痕や打撲痕ばかり。直接触れるのではなく道具を使って傷をつけるのは弱い人間のすることだ。同じ人間という生き物として、真斗は居た堪れない気持ちになった。

どうして半獣に生まれたというだけでこんな酷い仕打ちを受けなければならないのだろう。人間同士であれば警察沙汰にも裁判沙汰にもできるのに、半獣である彼らはそんなことも許されない。おかしな凶行にただ耐えるしかないのだ。

「……すまない……」

唯一傷のつけられていない綺麗な顔に手を這わせ、俯いたまま呟く。こんな謝罪は彼にとって気休めにもならない僭越なものだとはわかっていたが、それでも口に出さずにいられなかった。重く沈む気持ちに、彼にとっては同じ加害者である自分が落ち込んでどうすると気分を奮い立たせ立ち上がると、着替え用の服を取りに部屋の隅にある箪笥へ足を運んだ。幸い彼と真斗の身長は見た限りほとんど変わらない。なるべく傷に擦れても痛くないような柔らかい素材でできたものを探し、やがて一枚の白いYシャツを取り出した時だった。

ガタン、と背後から大きな音が響く。
考え事をしていた最中だったことも加わり驚いて振り返ると、床に身構えてこちらを威嚇する鋭く蒼い瞳と目が合った。真斗を射殺さんと睨み付けてくる彼の姿は確かに危険物を警戒する猫のようで、さながら怒りと怯えとを前面に瞳に滲ませた人間のようでもあった。一歩でも近付けば益々彼の怯えを増長させてしまう。そう判断した真斗は、離れた距離から今まで気を失っていたとはとても思えない彼に向かってなるべく優しく語り掛けるように口を開いた。

「勝手に連れてきてしまってすまないな。しかし俺はお前に危害を加えるつもりはない」
「……見苦しい嘘つくなよ。素直に殴るために連れてきたって言えば良いだろ。気絶なんてしたのはオレの失態だ、気の済むまで好きにすればいい」
「違う――と言っても、信じられないだろうな」

悲しそうに呟かれた真斗の言葉に彼が答えることはなく、好きにすればいいという言葉とは裏腹に全身で人間を拒絶していた。強がってはいても、彼が威嚇している証拠であるびんと立ち上がった耳と尻尾を誤魔化すことはできない。いくら言葉を投げかけたところでそれらは彼の苛立ちを募らせるだけにすぎないと悟った真斗はゆっくりと足を前に踏み出し、防衛本能で後退りしそうになる衝動を無理に抑え腕に爪を立てる彼の傍へ歩み寄った。

近くで見る彼はとても綺麗な顔をしている。そこらの人間なんかよりもよっぽど美しいということが表情を歪められていて尚わかるのだから、相当のものだろう。端麗な容姿に良く似合ったオレンジ色の髪から水が滴り、彼の体を伝っていった。折角拭いたばかりだというのにこれでは意味が無い。
彼は今しがた好きにしていいと言ったのだからその言葉通り好きにさせてもらおうと、真斗は両腕を振り上げる。その動きにびくりと体を震わせて咄嗟に硬く目を瞑る彼の肩へ、箪笥から取り出したばかりのYシャツを羽織らせた。想像していたものと違う感触が訪れたことに眉を顰めながら薄っすらと目を開きそれを見た彼は、ぽかんと呆けて真斗を見上げる。

「……なに……」
「それを着ていろ、下の着替えはここに置いておく。せめて雨が止むまではこの家にいたらどうだ」
「お……おい!」
「なんだ」
「こんなことしてお前に何の得が……っ、余計なことするな!」
「好きにしろと言ったのはお前だろう?」

真斗が平然と言葉を返すと、彼はぐっと息を詰めて明らかにうろたえ始めた。罰が悪そうに視線を泳がせ、肩にかかるシャツを強く握り締める。今まで生きてきた中で人間から暴力以外のものを与えられることは初めてなのだから、当然と言えば当然だ。真斗にとって困っている者が優しくされることはおかしくなどない当たり前のことだが、半獣である彼にとっては異例のこと。何か企んでいるに違いないとは思うけれど、真意が見えない段階ではただ情けなく狼狽することしかできない。裏があるに決まっていると何度も言い聞かせる彼を余所に、真斗は背を向けて部屋を出て行ってしまった。

(……飼い慣らしてから、どん底へ突き落とすつもりか?)

考えられないことではない。今まで彼を見た人間は即座に暴行に走ってきたが、多少賢い人間であれば身体的傷よりも精神的傷のほうが治りにくく深いものであるということを知っている。それを知っていてわざと優しくしようとしているのかもしれない。
けれどそれがわかったところで彼に行く当てなどなかった。今まで沢山の人間から逃げて、捕まって、散々な目に遭って、そしてまた逃げてという無意味なことを繰り返してきた。きっと死ぬまでこの悪循環は終わらないだろう。

あの青い髪の男がどんなに優しくしてきても絶対に絆されてはいけない。万が一絆された瞬間彼に訪れるのは、死よりも苦しいであろう心の痛みだ。信じていた者に裏切られることがどれ程辛いものであるか、経験上知らないわけではない。他人のために、なんて行為はこの世に存在しないのだ。すべては自分のため。人間とはそういう生き物だ。信じてはいけない、表面上の良いところを鵜呑みにして懐いてはいけない。

しかし皮肉なことに、雨によって大幅に体力を奪われた今逃げようにも逃げられないのが現実だ。どちらにせよ今後待ち受けているものが暴行であるならば、今のうちに少しでも回復しておきたい。嫌々ながらあの男が用意した着替えに身を包むと、余計な考えを振り払うことに専念して目を閉じた。

◇◆◇

シャワーを浴び終え寝巻きに着替えた真斗がリビングの扉を開くとすぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。
真っ白なシャツと黒いスラックスを身に纏った彼は、ソファで寝れば良いものの何故か固い床の上で転がっている。それでも彼の姿がまだここにあることに安堵し、彼の体をベッドまで運ぶと暖かい布団を上から被せた。それから起こさないようにそっと髪の水滴を拭っていく。時折ぴくりと瞼が動いたが、それが持ち上げられることはなかった。余程疲れているらしい。下手に物音を立てて睡眠を邪魔するようなことがあってはいけないと、一通り彼の世話を終えた真斗はすぐに電気を消してソファに寝転んだ。

しかし、明日真斗が目を覚ますより先に彼が目を覚ませば二度とこの家に来ることはなく、そしてまた悲惨な目に遭ってしまうのだろう。一度そう考えると中々寝付くことが出来ず、真斗はどうしたものかと小さく唸りぐるぐると解決策を練る。しかしどれも彼に通用するとは思えなかった。自分の言葉は信じてもらえないし、行動で示そうにもいつ彼が姿を消すかわからない。
どうしたらうまく伝えることが出来るのだろう。彼にはもう、半獣だからという納得できるはずのないくだらない理由で傷ついてほしくないのに。人間である自分が何を言ってもきっと、彼を陥れるための罠であるとしか受け取ってもらえない。

(……一日くらい眠らなくても支障はないだろう)

幸いにも明日は休日だ。授業で眠ることが愚行だと考える真斗にとって一睡もせず学校へ行くことは有り得ないが、次の日が休みとなれば不健康ではあるが無理な話ではない。あくまでも願望のような予想であるが、そうすることで彼を助けることに近付ける気がした。自分の知らない間にどこかへ行き、見知らぬ誰かに傷付けられる彼を想像したくない。煩わしいと思われてもどうにか彼を楽にしてやりたいと、その一心だけでいっぱいだった。

「お前に傷は似合わない。もう傷付く必要なんてない……」

彼が、彼らが生きやすい世界を、作り上げたい。人間と同じように笑い、生活し、幸せに生きていってほしい。彼らにはその権利があるはずなのだから。半獣からは余計なお節介だと、所詮心では見下しているのだろうと疎まれ、人間からは偽善者だと煙たがれるだろう。しかしそんなことはどうだって良い。周囲から悪く思われることなど、彼らの受けてきた痛みに比べたらきっとなんでもない。

自分は知っていた。彼らの境遇を、この世の過ちを。けれど何も出来なかった。見ていることは危害を加えることと一緒だ。それさえもわかっていて、何もしなかったのだ。こんな自分でも何かが出来るのなら、目の前の彼を救ってやりたいと願わずにはいられなかった。


(……馬鹿か、こいつ。オレ達が傷付くのは当たり前のことだって、知らないわけじゃないだろ)

苦しそうに吐き出された真斗の言葉を、彼はしっかりと耳にしていた。猫である彼は人の気配に敏感だ。あの男は至極注意を払っていたらしいが、微かな物音や動きでさえ目が冴えてしまう。それならばなぜ起き上がって逃げ出さないのかと聞かれれば、彼自身もその理由がわからず返答に困ってしまうのだが。

(お前に傷は似合わない、か……)

もしもこの傷が消えるなら。そして普通の人間と同じように過ごせるのなら。もう何度願ったかわからない、自分には贅沢すぎる世界。半獣として生まれたその瞬間からその夢は砕け散ったというのに、心のどこかでまだ縋ろうとしている。淡い期待は身を滅ぼすだけだと思い知ったはずなのに、それでもまだ、醜く足掻こうとしている自分がいる。とんだ笑い話だ。半獣は恐れられて当然の醜い生き物。人間達が自分を虐げるのは当たり前のこと。わかっている。罪があるのは自分の存在で、人間ではないのだ。

(……それでも……)

いつか人間のように幸せだと思える生活を送れたら、なんてことを思ってしまうのはやはり我侭なことなのだろう。
心の中で自嘲をこぼしながら、酷く寝心地の良い柔らかいベッドの上で再度目を閉じた。


こうして、聖川真斗と半獣であるレンの関係が始まったのである。



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