痛い、と口にするのは癪だった。それは他人から見ればくだらないと一蹴されるであろうちっぽけな、しかし本人にっては決して譲れない、言わばプライドというものである。レンは襲い来る痛みに顔を顰め、引き攣った声が出そうになるのを手の甲を噛むことで強引に押さえ込んだ。鉄の味をした暖かい液体が歯を伝ってじわりと口の中へ徐々に広がっていく。その感触は酷く不愉快で、しかし決して手を退けるわけにはいかなかった。
「……っ、ふ……」
「……手を退けろ、神宮寺。血が出ているだろう」
ほんの微かに鼻を掠めた血の香りの原因を探りその正体がわかると、真斗は一度動きを止めてそう告げた。しかしレンはふるりと弱々しく横に首を振るだけで、決して手を動かそうとはしない。逆に真斗にそう言われたことで意固地になってしまったようにも見えた。こうなったレンが絶対に自分の意思を貫き通すことはわかっている。下手に刺激をしてしまった自身の失態に内心で舌を鳴らすと、真斗はゆっくりと律動を再開した。
何か不平を言われることを覚悟していたのであろうレンは突然のことにびくりと体全体を震わせ、恨めしそうに真斗を睨み上げる。潤んだ瞳で顔を真っ赤にして睨まれたところで真斗にとっては理性を奪い取られる仕草以外の何でもないのだが。
入念に慣らしたとは言え、めり込んで来る異物を必死に押し出そうと強く締め付けてくる感覚は、負担が少ない側である真斗でさえも痛みを感じるのだからレンにとっては相当なものだろう。彼の痛みを単に想像することしかできず、その上想像をしたところで痛みが到底理解できることは無いということが酷くもどかしい。唯一痛みを懸命に堪えているということだけはレンの姿を一目見るだけで容易く認識できた。その表情は苦しそうに歪められ、額に滲んだ汗が頬を伝い、体全体は固く強張っている。極めつけはレンの口に強く当てられた彼自身の手だ。
「ん、ぅ……ッ、」
「何をそんなに嫌がっているんだ、神宮寺……。無理に我慢をするな」
汗で顔に張り付いている髪を優しく梳かすと、レンはほんの少し、気持ち良さそうに目を細めた。出来るだけかかる負担を減らしてやりたい。そう思い、痛みで縮こまってしまったそれに手を這わせ優しく愛撫を施したり、極力ゆっくりと動かすことで傷ひとつ付かないように奥へ進めたりと、細心の注意を払っている。それでも、レンの痛みが消えるわけではないのだ。
いっそ同じくらいの痛みを二人が味わえるのなら良かったのに。同性である為に気持ちの良い場所は大体わかっているけれど、痛みは体験しないことにはまったくわからない。かと言って体験をする勇気も真斗は持ち合わせていなかった。罪悪感に表情を曇らせた真斗を不審に思ったのか、固く両目を瞑って耐えていたレンがうっすらと目を開く。その拍子に、目尻からは生理的な涙が一筋流れ落ちた。
「……ひじりかわ……?」
「……痛いだろう。すまない」
「は……いまさら、なにを……」
浅く短い呼吸を断続的に繰り返しながら、レンは困ったように笑う。痛いのは当然だ。男の身体は他人のそれを受け入れるように作られていないのだから。男同士で行為に及ぶことがこの国では禁忌であるということを思い知らされるような気さえした。それでも、痛いとは決して口にしない。どうしても痛いと認めることはしたくなかった。ほとんどはただの意地だ。現段階では痛みしか感じられない行為でも回数を重ねれば快感を得られるようになると信じている。その為に今はただ耐えるしか、慣れようとするしか方法が無いのだ。真斗が落ち込む必要も意味もまるでありはしない。
けれどそのことをどう伝えれば良いのか、レンにはわからなかった。女性を慰めることには長けているのに肝心な恋人相手にはどうも気の利いた言葉を口にできない。羞恥が勝ってしまうのだ。
「っ……、オレは、大丈夫……、だ、から……」
そう伝えるだけで精一杯だった。とにかく不安そうな顔をする真斗を見ることが嫌で、行為を再開することを促す。それでもまだ真斗が何か言いたそうな顔をしていたのには気付かないフリをした。これ以上の会話は無駄だ。レンは大丈夫としか言わなければ、真斗は謝罪を述べることしかしないだろう。何も行為の最中にそんな時化た会話をする必要はない。甘い雰囲気を好むわけではないが、それでも、こんな意味の無い会話を延々と続けるよりも幾分マシだ。
「手を置け……神宮寺」
次第に真斗もこれは今すべき会話ではないと認識したのか、レンに指示を出し彼がそれに逆らうのを予測して強引にレンの手の上に自らの手を重ねた。指の一本一本を絡ませ、シーツに縫い付け、動けないようにする。レンが文句を言おうと口を開くのと同時に自身を限界近くまで抜き出し、そして再びゆっくりと埋め込んだ。
「ひ、……ァ……ッ、く、んん……!!」
「……漸く、声が聞けたな」
「や、だ、ひじり、かわ……っ、や、手、はなせ……ッ」
「だめだ」
レンは途端に足を暴れさせ抵抗を始めるが、下手に動くと更に奥へ真斗自身が進入してきてしまう。そのことを理解すると、唇を強く噛み締めて勢い良く顔を背けた。殆どシーツに顔を押し付けるようにして痛みから逃れようとする。強引に繋いだ手は強く握り締められていた。力が入りすぎて血が通わず、白くなってしまっている。短く切り揃えられた爪が真斗の手の甲に食い込み、そのことに真斗は少しだけ安堵した。
そうだ、自分も痛みを感じればいい。きっとレンの感じている痛みはこんな陳家なものでなく、倍以上のものであるだろうけれど、何も感じないよりはこちらの方が良い。罪滅ぼしとまでは言わないけれど、幾分気が楽になるように思えた。
「ッ……、ぅ、ン……!」
「我慢するなと言ってるだろう……」
「やめ…っ、ぁ、あッ、いやだ…!!」
真斗は繋いでいた手を離しレンの手を一纏めにして上から押さえ付けると、少しでも気持ち良くなれるようにと空いた手でレンの自身の先端を指で弄った。途端にレンはびくんと大きく身体を跳ねさせ拒絶する。気持ちが良いときに嫌だのやめろだの言うのは彼の癖のようなものだった。快楽に溺れる醜態を見られるのが恥ずかしいのだと声を小さくして言っていたことは記憶に新しい。そのような姿を見ても嫌いになることなど有りはしない、それどころか普段見られない姿を自分だけが見られるのだと嬉しく思うというのに。どんな時でもプライドが高いというのはレンの長所であり、また短所なのだろう。真斗は小さく笑うと、肩を震わせて快楽を逃そうと奮闘するレンの額に軽く口付けた。
「怖がるな、神宮寺。大丈夫だ」
「っ、ひ、ぁ……ん、だめ、だ、それっ、や…!」
「これが好きだろう?」
「あ、ァっ!!や…っ、やだ、ひじりかわ、」
「いつでもいって良いのだぞ」
まるで癇癪を起こした子供のように泣きながら嫌だと繰り返すレンの姿は綺麗で、そして彼にはあまり似合わない言葉かもしれないが、可愛い、と思えた。レンが真斗の名を繰り返し呼ぶときは限界が近い証拠だ。自覚をして呼ばれなくなると困る為に本人には教えていない。真斗だけが知っていることだ。
締め付けが一層強くなり、もう数秒と経たずにピークを迎えることを悟った真斗は自身をゆっくり引き抜くのと同時にレンの唇を塞ぐ。そのまま舌を絡め取ると、レンは一度驚いたように目を見開いたが、迫りくる限界にきゅっと目を閉じてすぐ、びくびくと身体を震わせて達した。
「ふ、……ぁ……」
これも本人には告げていないことだが、真斗は達した直後の蕩けたようなレンの瞳が堪らなく好きだ。
◇◆◇
部屋に鳴り響くアラームの音に重い瞼をゆっくりと持ち上げ、睡眠を妨げられたことに苛立ちを感じながら多少乱暴に手探りでそれを止めると、自身の手の甲に丁寧に巻かれた包帯の存在に気が付いた。寝起きの頭であってもそれが誰の仕業であるかはすぐに理解できる。つくづくお節介なやつだとレンは溜息を零してひとつ伸びをした。
部屋を見渡してみても同室者の姿は既になく、きちんと授業に出席しているのだろうと結論付けるのは容易かった。真斗は例えどんなに疲れていようとも授業を無断で欠席をするような怠けた男ではない。レンとはほとんど正反対と言っていいほどに真面目な人間である。そのことは自分の手に綺麗に巻かれているそれを見れば一目瞭然だった。
大したことのない怪我にこんなに大袈裟な処置を施す必要はないだろうと毒づきながらも、何故だか包帯を外す気にはなれない自分が気に食わない。
「……大体、誰のせいでこんな怪我してると思ってるんだ」
ぼそりと吐き出された言葉に当然答えが返ってくるはずはなく。自分の他に誰もいないやたらと静寂した空間がなんだか虚しくなって、枕に顔を埋めて横目で時計を見やる。こんな時間ではもうほとんどの授業は終わってしまっている。今更学校に足を運んだところで無駄だろう。何度目になるかわからない無断欠席を今日も使わせてもらうことに決めて、目を閉じる。しかし視界を閉じた瞬間、ふわりと真斗の匂いが鼻を掠めた気がして、慌てて体を飛び起こした。
「……っ、」
先ほどまでこのベッドの上でしていた行為を嫌でも思い出してしまい、一人だというのにどうしようもなく赤面してしまう。ここにはいないはずの真斗の顔が、声が、感触がまざまざと脳裏に蘇ってくる。どんなに思い出さないようにと違うことを考える努力をしてみてもそれは徒労に終わった。真斗と体を重ねたのは、これで三回目だ。まだ、と言うべきか、もう、と言うべきかはわからないけれど、レンは未だに慣れることなく羞恥に苦しめられている。従来恋愛に慣れている自分よりも寧ろ真斗の方が最近では落ち着いているのではないだろうか。腹立たしくもあるが、そのお陰でレンの体を気遣う余裕を見せ始めたのだからとても文句は言えない。
初めてのそれは本当に痛みしか感じることが出来ず、何度も行為を中止するべきか真斗に尋ねられた。本当は真斗のその言葉に頷きたいくらいの痛みだったのを、下手なプライドの高さからやせ我慢して最後までしてみせたが、翌日は体を動かすことがほとんど出来なかった。そのことを考えれば一応は進歩していると言って良いのかもしれない。
(……まだ、痛いんだけどね)
現在も少し身動ぎをするだけで重い腰がずくりと痛む。手の痛みを感じないのは、真斗の処置が良かったのもあるだろうが、ほとんどの理由は自らを襲う下半身の痛みに比べればなんてことはない傷だからだ。それほどまでにレンに掛かる負担は大きかった。だからこそ真斗はあまり行為をしたがらず、いつも強請るのはレンの方だった。遠回しに仄めかす日もあれば直接誘う日もある。痛い思いをするのはわかっているのに、何故。疑問に思うのは、真斗だけではなく、レン自身もまた同じである。こんなにも痛いのに、どうしてだかやめようという気になれない。
オレに被虐趣味は無いはずなんだけど、と誰に言い訳するでもなく呟いた。
「そもそも、聖川が奥手すぎるのが悪い」
稀に欲情に塗れた目でレンを見つめる癖に、絶対に自分からは手を出そうとしない。それに加えてレンが受け入れようとしても頑なに拒むくらいだ。そんな我慢をする必要などどこにもないというのに、どうも真斗はレンのことを心身ともに気遣いすぎる節がある。嬉しくないと言えば嘘になるが、物足りないと感じるのもまた事実だ。自分たちは恋人であるのだから、もう少し気を楽にしてもなんら罰は当たらないだろう。けれどそう思っていることを伝える術を、レンは持っていなかった。何せ真斗とはいがみ合っていた期間の方が長いのだ。恋人になったからと言って特別関係が男女のようなそれになるわけでなく、喧嘩をするのは以前と変わらないまま。どうしても真斗の前では素直になるという行為を躊躇ってしまうのもまた変わらなかった。
(まあ、お互い様、ってとこかな)
結局素直で無いのは二人とも同じだ。我慢をしてしまうのは相手を思っているからこそで、そこに利己的な意味は存在しない。不器用ながらに相手が自分を思ってくれていることは伝わるのだから、悪いことではないだろう。
考えを巡らせている内に、まだ疲れが取りきれていなかったらしい体に眠気が訪れる。レンは心地良い睡魔に逆らうことなくそのまま意識を預けた。
「……神宮寺?」
すべての授業を終え自分の部屋に戻ってきた真斗は、室内の暗さに驚いた。レンが外出をしているのだろうかと考えたが、いつも情事をした翌日は体が痛くて動けないと文句を言っているのだからそれは無いだろうと考えを打ち消す。しかしレンは暗いところが得意ではなかったはずだ。本人が口にしていたわけではないけれど、もう何日も生活を共にしてきたのだからそれくらいのことは見ていればわかる。真相を問えば意地を張って無理をすることは目に見えているため、真斗が勝手にそう解釈しているだけなのだが、恐らく間違ってはいないはずだ。警戒をしながら静かに足を踏み入れ電気をつけると、何かがごそりと動く気配がした。
「ん……」
小さく呻いて寝返りを打ったのはレンだった。長いオレンジ色の髪がぱさりとシーツの上に散らばって、長い睫に囲まれた目は眩しそうに顰められたがすぐに元に戻り、規則正しい寝息が聞こえてくる。確かにレンは朝が苦手だが、こんな時間まで寝ているということは今までには無かったことだ。朝自分が部屋を出るときに駄目元で体を揺すって起こしてみたが、その時もレンは熟睡していて反応すらしなかった。余程疲れているのだろうか。真斗は胸がずきりと痛むのを感じた。
(俺は、神宮寺に負担ばかり掛けている……)
自分との行為のせいでレンの体が痛み、精神的にも疲れ、今でも眠っているのだと思うと居た堪れない。頭の中では駄目だと思っていても、レンに誘われるとどうしても断りきれないのだ。レンの痛みを理解していないのに行為に及ぶことは、いつも真斗に酷い罪悪感を覚えさせた。それでも拒みきれない自分の意思の弱さが情けない。負担になるとわかっているのに。断らなければいけないのに。結局自分はレンにも、そして自分自身にも甘いのだ。
レンの顔の横に置かれている手を取り、そっと包帯を外す。膿まないように換えてやらなければ。自分に出来ることは精々それくらいだ。少しでも痛みを残さないように、アフターケアだけは万全にしてやりたい。
「……ん……、聖、川……?」
真斗の気配を感じ取ったのか、レンは重たそうな瞼を持ち上げると、空いた手で目を擦ってぼんやりと真斗を見上げた。夢から覚めたばかりだからか意識がはっきりしないらしい。普段であれば真斗を睨み付ける鋭い瞳が、今だけは心なしか幸せそうに細められた。それを見た真斗は思わずどきりとしてしまい、その気持ちを誤魔化すように慌ててレンの手を覆っていたガーゼを取り外し、傍においてあった消毒液を手にした。
「す、すまない、沁みるかもしれないが……」
すっかり傷口の閉じたそこに数滴液を垂らしてから清潔な布でそっと押さえる。レンの手がぴくりと動き、無言で眉を顰めた。既に血は止まっているし、傷口が膿んでいるわけでもない。痛みはほとんど感じないはずだ。恐らく突然の冷たい感触に反応したのだろう。真斗はレンに無言でじっと見つめられていることに気がつかないフリをしてそのまま包帯を巻いた。
――なんとなく、レンと目が合わせづらい。向き合うことを自分の中の罪悪感が拒むのだ。
そう真斗が思っているのを感じ取っているからこそ、レンは見つめてくるのだろう。やたらと洞察力が鋭く、人の変化にやたら敏感なのが神宮寺レンという男だ。
「……なあ、聖川」
どれだけ見ていても決して視線を返そうとしない真斗に焦れたのか、或いは不安に思ったのか。恐らくそのどちらもだろう。真斗を呼ぶ声はどことなく儚げで、ほんの僅かに震えていた。意識が曖昧なことが余計に彼の不安を増長させてしまっているのかもしれない。顔は見ないまま返事をすると、気配でレンが苛立ったのがわかった。苛立った、というより、拗ねたと言ったほうが的確だろうか。まるで親に構ってもらえない子供のようだ。それでも真斗はレンを見ない。今顔を見たら、不安を全部吐き出してしまいそうだった。ただでさえ体に負担を掛けさせているのだから、精神面まで重荷になるわけにはいかない。これは真斗なりの意地だ。
「………まさと」
「――ッ!!!」
突如呼ばれた、普段は口にしない下の名前。あまりに急なことに驚いて思わず顔を上げてしまった。目が合ってから己の失態に気付き、しまった、と心の中で呟く。けれど、レンから目を逸らすことも出来なくなってしまう。くつくつと肩を揺らして笑うレンの姿が新鮮で、思わず見入ってしまったのだ。屈託無く笑う恋人の姿はあまり見かけることが無い。常に他人の前では笑ってはいるものの、どこか寂しさを感じさせる笑顔ばかりだった。普段は大人びているレンも笑うと年相応で、その姿は真斗に昔のことを彷彿させた。
「単純だな、お前」
「……うるさいぞ。今のは反則だろう」
「聖川が無視するからだろ?」
「無視はしていない。ちゃんと返事はした」
「目を見てくれないと意味が無い」
一頻り笑い終えた後小さく下唇を噛んだレンが、今しがた手当てを終えたばかりの手を真斗の額に伸ばす。そしてそのまま、ぱちんと小気味良い音が響いた。真斗は一瞬何が起こったかのわからず呆然としていたが、自分がされたことを理解するとほんのり赤くなった額を押さえてレンを睨み付けた。
「な、なにをする!」
「余計なこと、考えてるだろ」
怒っているようにも、悲しんでいるようにも取れる声音で、レンが不意に真剣な顔をして真斗を見据える。嘘も否定も許さない、確信を得ているといった表情だった。下手な誤魔化しは恐らく通用しない。元よりレン相手にそんなことが出来るとは思っていなかったけれど、それでももう少し隠すことが出来ないものかと自分自身の不甲斐なさに溜息が漏れた。もうこれ以上ごねたところで無意味な争いが始まってしまうだけだろう。どの道気まずくなるのなら、自分の思っていることを正直に伝えた方が良い。そう悟った真斗は、重い口をゆっくりと開いた。
「……お前と……その、昨夜のようなことをするのは、やはり……良くない、と考えていた」
「……なんでそんなことを思う必要があるんだよ。……気持ち良くないからか?やっぱり、女とするほうが良いって、そう言いたいのか、聖川」
「違う、そうではない!それに、俺はお前が初めてなんだ。知っているだろう」
「だったらなんで……」
レンの顔がくしゃりと歪む。それは、レンが我慢をする際によく見せる表情だった。何かを咄嗟に堪えて押し殺そうとして、殺しきれなかったものが不意に出てしまっている。これがレンにとっての泣くという行為なのではないかと真斗が気付いたのは最近だった。涙を流さず、声も出さずに、誰にも気付かれずに泣くことが得意らしい彼は、真斗の前でも極力弱いところは見せたがらなかった。寧ろ、真斗の前だからこそ、なのかもしれない。大切な人に嫌われたくないと、自分の醜い部分をどうしても殺そうとしてしまうのはきっとレンの性格だ。
「……神宮寺にかなり辛い思いをさせてしまうだろう。今日だって、お前はついさっきまで眠っていた。お前は自分で思っているよりも疲れているんだ。しかし俺は……お前が辛いのだということはわかっても、その痛みを理解してやれない……。辛いのはお前だけだろう……。それが俺には、許せないんだ」
真斗は掌を強く握り締め、悔しそうにそう呟いた。そのまま俯いてしまい、再びレンの顔が見られなくなる。口に出せば出すほど、自分がいかに無責任で勝手な男であるかを思い知らされるような気がした。相手にばかり辛い思いをさせて、それなのに好きだなんだと自分の気持ちを押し付けて。このまま自分と付き合っていて、レンは幸せなのだろうか。一度考え出すと止まらない。レンには本来女性の恋人がいても何もおかしくない。寧ろ、それが普通なのだ。
(どうしてお前は俺を……。俺は神宮寺に我慢をさせているのではないか……?)
不安だけが募っていく。こんな関係は間違っているのではないか、あと少しで、そう口にしてしまいそうだった。
「ふざけるなよ」
しかしそれを妨げたのは、レンのその一言だった。俯いていて表情は見えないが、かなり怒っているのがわかる。咄嗟に謝ろうと思ったけれど、しかし今の言葉は紛れも無く真斗の思っていることそのものだ。謝ればきっと無かったことになってしまう。そうしたらまた、自分がレンに我慢をさせてしまう日が続くのだ。それだけは避けたかった。
「オレが何のために、我慢してると思ってるんだ……」
「そうだ、お前は無理に我慢をしている。しかしそんなことをする必要はどこにも無い」
「お前は……何もわかっちゃいない……。わかってないのは、オレの痛みなんかじゃない……」
「どういうことだ……?」
レンのことを理解しきれているという自信など、どこにもなかった。元より掴み辛い男で、それは例え恋人という関係になっても変わらなくて。けれどいざそのことをレンに指摘されてしまうと、わかっていたはずなのに心が抉られるような痛みを感じた。心のどこかで、自分は他人よりもレンを理解してやれると傲慢なことを思っていたのかもしれない。きっと今の自分よりも、レンのクラスメイトである翔やトキヤの方がレンを理解してやれるのだろう。そう考えると、堪らなく悔しかった。こんなにも近くにいるのに。近くにいればいるほど、レンのことがわからなくなって。結果的にレンを傷付けてしまう。
「ああ、そうだよ、聖川の言う通りだ。オレは我慢をしてる。全身痛いし、次の日には動きたくないし、セックスがこんなに辛いものだと今まで思ったことはなかったね。けど……オレは、拒むことができた。お前はオレが嫌だと言ったら絶対にしないとわかってる。それでも拒まなかった理由なんて……考えたこと、ないのか?聖川が考えるのは、オレの体のことだけなのか……?」
レンの声が震えている。顔が見えないことがこんなにももどかしいと思うことはなかった。けれど今の自分には、レンの顔をあげさせる資格も、強さもない。怖かった。怒っているのだとしても、泣いているのだとしても、レンに拒絶の意を示されることが嫌で。触れた手を振り払われたらと考えると体が竦んでしまった。誰が見てもわかるくらいに、今のレンは傷付いているのに。傷付けたのは自分なのに、それでも何もしてやれないなんて。
「すまない……」
「オレはお前と……、したかった。だから……痛いって、絶対に言いたくなかった。口にしたら、お前がやめるってことぐらい、わかってたからだ……痛くていい、動けなくなったっていい、聖川と……ひとつになれたら、後先のことはどうでもいいって……」
「――っ!」
レンの言葉を聞いた瞬間、真斗は思わず息を呑んで、言葉を失った。先程レンが言った通りだ。自分はレンの体のことばかり気にして、気持ちのほうなんてまるで考えたことが無かった。どうしてレンが拒まないのか、執拗に誘ってくるのか。そして――どうして手の甲を噛んで怪我をしてまで、必死に堪えていたのか。
真斗は自分に自信がなかったのだ。だから、レンに愛されているという自覚もしていなかった。誰からも好かれているレンが、こんな自分を好きになるはずが無いと、無意識のうちに卑屈になっていたのだろう。好かれていなくてもせめて嫌われたくはなくて、必死にレンの気持ちを汲んでいたつもりで、肝心なところは何も見えていなかった。結果的に痛い思いをさせるよりも辛いことをレンに味わわせてしまったのだ。レンが自分を想ってくれていることから目を背けていた。自惚れて落胆するのが怖かったからだ。結局、レンのことが心配だなんて言いながら自分は保身をしていたのだと気付いて、どうしようもなく居た堪れない気持ちになった。そして同時に、レンのことが酷く愛しいと思った。
「すまない、神宮寺……。俺は……お前を傷付けることよりも、自分が傷付くことが怖かったんだ……。だが……お前がそう言ってくれるなら、俺は余計なことを考えるのをやめる。俺のやり方で、お前を愛してみせる」
「……そうしてほしいな。そうじゃないと、何のために俺が我慢してきたのか、わからない」
そう言って、レンは困ったように笑った。こんなにも辛い思いをさせたのに、それでもまだ、自分を受け入れてくれる。レンはいつでもそうだった。いつもは真斗に自分から突っ掛かっていくのに、真斗が本当に落ち込んでいるときや不安になったときは、すぐに欲しい言葉をくれる。それは決して計算などではなく、レンの本当の優しさだと知っていた。互いに不器用で、目に見える愛情表現はしないけれど、自分がレンに愛されているのだということは見ようと思えばいつでも理解できたはずだったのに。
けれど、もう逃げたりはしない、離したくはないと、強く強く思った。
こんなにも胸が苦しくなる相手を、真斗は他に知らない。
「……愛している、レン」
「っ……!!反則なのは、どっちだよ……」
先程自分がされたことのお返しだとばかりに名前を呼んでやると、レンはやはり先程の真斗と同じように慌てて顔を上げて真っ赤になるのだった。それを見た真斗はくすくすと笑い、レンの手に巻いていた包帯も、ガーゼも、取り外していく。意図の読めない行為に首を傾げるレンの髪を撫でて妖艶に笑いかけた。
「痛いときはこんなことをせずに素直に痛いと言え。必ず気持ち良くさせてやる。変化を楽しむのも一興だ」
「……あんまり調子に乗らないでほしいね」
「その顔で言われても、怒られている気がしないな」
「……ほんと、むかつく奴だよ、お前」
いつも通りのやりとりに互いに顔を見合わせてくすりと笑うと、真斗はレンの上に跨って、彼を見下ろした。レンの顔からはいつもよりも緊張しているのが窺えて、やはり口では真斗のために強がりながらも内心怖がっているのだということが感じ取れる。少しでも不安が和らぐようにと頭を撫でると、子供扱いするなと不機嫌そうに言われてしまった。
(子供相手にこんなことをしていたら、俺は犯罪者だ)
心の中でそう呟いて、レンの首筋に唇を落として強く吸い上げる。ぴくりと体を動かして小さく呻くレンの姿に、不思議といつものような罪悪感は訪れなかった。ひたすらに愛しく、もっと気持ち良くしてやりたいという気持ちばかりがこみ上げてくる。
(……必ず、お前に気持ち良い思いをさせてやる)
真斗は密かにそう決意をして、微かに消毒液の香りの残るレンの手の甲にそっと口付けを落とした。
見えないもの (120223)
……………………
安定のバカップル!
聖川さんは下手だと萌えるなあと思います
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