先日彼が宣言した通り、真斗は必要な時以外に自分からレンに近寄ることはなく、常に一定の距離を保っていた。レンを怯えさせないよう自身の行動に入念に気を配り、つかず離れずの位置で生活を共にしている。
本当に変な奴がいたものだ、とソファの上で暇潰しに雑誌を捲るレンが真斗を横目で見やり偶然目が合うと、何故だか少し嬉しそうに真斗は笑った。どう反応をしたら良いのかわからず、数瞬目を見開いた後不躾に目を逸らしてしまったが、それでも真斗がレンのことを咎めることは一切しないのだった。


唯一の初めては 03


――ある意味、やりづらい。
暖められた浴槽に浸かりながらレンはぼんやりと家主の顔を思い浮かべる。一体どうして半獣であり毛嫌いされる存在である自分に、真斗にとっては不利益であろうことを苦労だとも思わずやってのけるのだろうか。あれで真斗にもし偽者であっても耳や尻尾がついていたなら、少しも不審に思わず自分と同種なのだと信じ込んでいただろう。

レンは今まで一度も遭遇したことのない種類の人間に戸惑いを隠さずにはいられなかった。自分の知る人間という生き物は、半獣を見たとき、悲鳴をあげて逃げ出すか、気持ち悪がって暴行に走るかのどちらかを必ず行うものだ。後者はやりたい放題であり、軟禁状態にされて命からがら逃げ出すということをもう何度も経験してきた。半獣に生まれてしまった自分の宿命なのだと言い聞かせこれまで生きてきたというのに、あの青い髪の男は、本当に不思議だ。

最初はそれこそ、利用してやろうと思っていた。気味が悪いくらいの優しさではあるが、自分のために尽くしてくれるのであればそれ程有難い話は中々無い。こちらが対価を返さなくとも安全に生きる保障が出来るのなら、乗らない手は無いだろうと。どうせ優しいのは最初だけで、自分が不遜な態度を取ればすぐに愛想を尽かして追い払うに決まっていると高を括っていた。
しかしあれから数週間経ってみた現在も、真斗はレンが無粋な言動を取ったところで嫌な顔ひとつしない。寧ろ当人は何も悪くないというのに申し訳なさそうに謝られ、常に罰が悪くなってしまうことをここ数日繰り返していた。

そうして時が経つ内に、レンは自分の気持ちの些細な変化に気が付いてしまった。以前までは少しも気に留めていなかった筈のことが、次から次へと気になってしまうのだ。真斗が学校から戻ったときに挨拶をするべきなのか、昼間真斗が家を空けている間何かするべきことがあるのではないか、本当にこのまま彼に迷惑だけ掛けていていいのだろうか、と。

(……どうにも、情が芽生えてるらしい)

今となっては、真斗の言葉や仕草に嘘があるようにはとても見えない。最初はあれ程疑って噛み付いていたと言うのに、自分でも考えられない心境の変化が我ながら腹立たしい。そのほとんどの非は真斗にあるのだと責任を押し付けているが。

(こんなだから、痛い目を見るんだ)

今まで誰かを信じようとしたことなかったわけでは、当然、ない。この世には数多の人々が存在し、それらは各々容姿も声も性格も誰かと完全に一致することはないのだから、人間という言葉で一括りにするのは不心得だと思っていた時だってあった。それでも一人、また一人と人間に出会う度、思い知らされてしまったのだ。半獣を嫌う心は皆同じなのだと。そのことが身に染みて以来、今後人間を信用するなんていうあまりに馬鹿げた自虐的な行為はやめようと、心に誓ったはずだった。それなのにまた、気を許しても良いのではないかとどこかで思ってしまう自分がいる。そしてそれに猛反対する自分も。だからこそどうして良いのか、全くわからないままだ。

(……馬鹿みたいだな)

意志の弱い自分も、誰かに縋りたいなどと半獣の身分では許されない甘ったれた望みを持つ自分も。本当に馬鹿げている。無駄なことだといつになったら思い知るのだろうか。

これ以上考えても不必要に混乱をするだけだと、レンは一先ず風呂場を後にした。


「あ」

レンが脱衣所に足を踏み入れると、丁度ここに用事があり訪れたのだろう真斗と鉢合わせをする。真斗は驚いたように一度目を瞬かせた後状況を理解すると、慌てて謝罪をして脱衣所から出て行こうとした。全く、これでは一体どちらが匿われている身なのかわからない。内心溜息をついたレンは、背を向けた真斗の腕をぱしっと掴み、ぶっきら棒に口を開いた。

「良いよ。ここでやることがあるんだろ」
「そ、そうか……?すまないな、すぐに終わらせる」
「着替えるだけだからオレの方が早い。別に慌てなくていい」
「そうか……。ありがとう、神宮寺」

どこにその必要があるのかわからないが柔らかい表情をした真斗に礼を告げられたレンは、途端に居心地が悪くなってしまった。何も言葉を発することが出来ずに黙ったまま真斗に視線をやると、彼が少し躊躇いがちに視線を彷徨わせていることに気付く。そうして漸く自分の体が無数の傷に覆われているのを思い出した。すっかり傷口に水が沁みることが無くなった為に失念していたが、この身体は他人の目に晒していいものではないのだ。不快な思いをさせてしまう。
けれど真斗がレンの傷を極力見ないようにしているのは決して不快だからという彼自身の気持ちがそうさせるのではなく、あまり傷を見られたくないのではないか、とレンを気遣ってのことなのだろう。
レンは無言のままに、真斗に用意されたスウェットに素早く手足を通して背を向ける。

「変なもの見せて悪かったね」

それだけを告げて、真斗の返答を待たずに脱衣所の扉を開いた。

◇◆◇

絨毯の上に転がりながら、レンは先程一度中断した思考を再開する。自分が彼の為にできることが、何かあるのだろうか。否、彼の為というと語弊が生じてしまう。ただ自分がこの家に住まう正当な権利が欲しいだけだ。対価が無ければただの害になってしまうが、こちらから何かを返せば後ろめたい気持ちは無くなる。そう、決して真斗の為などではない。

(オレが、人間から求められるもの)

それは人間への完全服従。何をされても無抵抗な玩具になること。半獣には法や道徳は通用しない。何をしても自由というのが人間たちの世界における暗黙の了解だ。その為に、ストレスの捌け口にされたり、溜まった性欲の処理道具にされるということが今までほとんどだった。時に抵抗されたほうが燃え上がるという困ったサディストに出会うこともあったが、それはごく稀な例。前者はきっと、真斗の性格的に有り得ない。彼がストレスを他者にぶつけるなんてことは想像もつかなければ、そもそもストレスなど抱くのだろうかという疑問さえ浮かぶ。

とすれば、望みがあるのは後者だ。真斗は人間であり男であるのだから、例え性に興味のないものであったとしてもどうしても処理は必要になる。その際に役立てるのではないだろうか。一人より二人のほうが良いのだと、地面に蹲るレンを見下した人間が呟いていたことが記憶に残っている。

それらは半獣にとって当たり前のこと。何も特別レンだけでない、他のどの半獣だって大体同じような生活を送っているのだ。今までそういう世界で生きてきたレンは、その異常性に全く気が付いていなかった。

◇◆◇


「聖川、話があるんだけど」

暫くしてリビングに真斗が戻ってくると、レンはすぐに立ち上がって真っ直ぐ真斗の元へ歩み寄った。決まったからには早く話をつけておきたい。これ以上借りばかり作るのは自分の気に障るのだ。

「珍しいな、どうした?何か困ったことでもあったか?」
「そうじゃない。思い付いたんだ、オレにできること」
「お前に……って、まだそんなことを気にしていたのか。その必要はないと言っただろう。現に俺は、」

今にも説教を始めそうな真斗を黙らせる為に、レンはぴんと立てた人差し指を真斗の口に押し当てる。全く予想していなかったのであろうレンの動きに硬直し何も言葉を紡がなくなった真斗の頬にそっと手を添えたレンは、くすりと妖艶に微笑むと、一文字ずつ、丁寧になぞるかの様にゆっくりと口を開いた。

「オレのこと、抱いてよ」

あれは何人目の人間だっただろうか。もう覚えていないけれど、欠片も思っていないのに言うことを強要された言葉。あの時はただ不快でしかなかった。全く心に無いことを無理に言わなければならないなんて屈辱でしかない。抗う術を持たなかった為に、嫌々ながら口にしたのを思い出す。
けれど、今は違う。自分から進んでそう願うのだ。それが真斗の為になるのなら、それが対価になるのなら、互いに悪くない話だろう、と。

「……なにを、」
「あ、大丈夫だよ、オレが勝手に動くし、気持ち悪ければ目を瞑ってれば良い。なんなら目隠ししてオレを人間だと思えば良いさ」
「お前……本気で、言ってるのか?」
「?冗談でこんなこと言わないさ。これでやっと――」

「ふざけるな!!」

ぱしん、と乾いた音と共に、怒鳴り声が響き渡った。

レンは自分の身に何が起こったのかさっぱりわからず、呆然として立ち尽くす。やがて熱を持った手がずきずきと痛みを訴え始め、そこで自分の手が振り払われたのだということを理解した。やり場の無くなった手はそのままに真斗を見ると、そこにあったのは、今まで目にしたことの無い初めての真斗の表情だった。
怒っている、というよりも、まるで、傷付いているかのような。

だけど、一つもわからない。真斗がそんな顔をする理由も、自分が初めて怒鳴られた理由も。

「俺がそんなことを望んでいると思われているなら、とんだ屈辱だな!」
「……で、も、」
「どうしてお前はそうやって自分を大切にしないんだ!」
「……ひじり、かわ、」
「――もう良い。今日は話をするのをやめよう。怒鳴ってすまなかった」

真斗は乱暴にそう告げると、足早にリビングから去っていってしまう。追い掛けようとしたけれど、何を言えば良いのかわからずにその場で背中を見送ることしか出来なかった。

「……なんで……」

一体自分の何が彼を怒らせたのか。或いは、傷付けたのか。どうしてもわからない。けれど彼が怒ったのは、自分の為というよりもレンの為であるように思えた。単に他者に対して怒っているだけならばきっと、あんなに悲しそうな表情はしない。彼の為と思ってした提案が、結果彼を傷付けてしまった。謝りようにも何が悪いのかわからない時点で、口先だけの謝罪をするわけにもいかない。

"どうしてお前はそうやって自分を大切にしないんだ!"

真斗の言葉が頭の中で反響して離れない。レンは自分を大切にしているつもりだ。自分の宿命を理解して、その中で生きようと醜くもがいている。いつだって行動をするのはすべて自分の為だけで、常に自分のことばかり考えているはずだ。真斗は何かを勘違いしている。そう思っているはずなのに、何故だかやたらと心に引っ掛かって離れない。
どうして、聖川は。どうして、オレは。


真斗を理解できないことがこんなに辛いと感じたのは、生活を共にして以来、初めてのことだった。


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