レンは、あれから絶えず己の失態を模索していた。辛うじて分かっていることは二つ、真斗を傷付けたこと、そしてその原因は自分の発言にあるということだけ。その二つを頼りにいくら思案してみてもどうしても辻褄が合わず、答えを導き出せないままだ。そうやって苦心していると、気付けば室内のカーテンの隙間からは暁光が射し染めていた。どうやら自分は一睡もしないまま朝を迎えてしまったらしい。
レンはそのことに気が付いて漸く、はっと我に返った。

(どうしてオレがこんなに悩む必要があるんだ)
(ただの家主と居候の関係だろ。口なんか聞かなくたってやっていける)

そうだ、例え真斗が傷付き、怒ったのだとしても、そのことが自分の生活に何か影響を及ぼすわけではない。元より赤の他人なのだから衝突をするのは当たり前で、それをわざわざ解決しなければならない理由などどこにもないだろう。ほんの少し、居心地が悪くなるだけ。真斗とレンの間にあるものは僅かな期間の、しかも互いが対等ではない不思議な関係で、いつかはなくなるものだ。明日まで続くと言い切ることさえ出来ない脆いものなのだから、こんな小さなことを気にしていても無駄に気疲れするだけ。それなのにどうして、散々馬鹿みたいにらしくもない考え事などしていたのか。

(……寝よう)

光が視界に映らぬよう寝返りを打って汚れの見当たらない壁と向き合う。雑多な思念をかなぐり捨てるように目を閉じ意識を飛ばそうとしたが、敢え無くそれで都合良く眠りにつけるということは無かった。


唯一の初めては 04


怒鳴ってしまった。
昨夜自分のやらかした愚かとしか言いようが無い言動を振り返って、真斗はどうしようもなく途方に暮れる。レンは自分が精々想像するしか出来ない過酷な世界を一人で生き抜いてきたのだ。平和な世界で生きてきた自分の常識や価値観と彼のそれを照らし合わせてはいけないと理解しているはずだったのに、所詮はつもりでしかなかったことを昨夜思い知らされた。結局彼の気持ちを考える余裕もなく感情のままに怒鳴りつけてしまったなんて、まったく笑い話にもならない。こんなにも憂鬱な朝を迎えたのは生まれて初めてだった。

「はあ………」

一体レンは昨日のことをどう思っただろう。失望、しただろうか。所詮は人間だと思わせてしまったかもしれない。だとしたら自分は、どれほど謝っても決して許されないことをした。彼をこれ以上追い詰めること、そして生き辛くすることは他の誰であっても許してはならないと思っていたのに、まさか自分がそうしてしまうとは。

陰鬱な思いを抱えたまま学校へ行くため身支度を整える。
怖い、と思った。自分が今家を出たら、帰ってきた時には彼の姿がなくなっているような気がして。何も考えられない話ではない。真斗も今まで彼を苦しめてきた人間と同じなのだと判断されてしまったのであれば、間違いなくレンは生きるために逃げ出すだろう。そんな人間と一緒に住んでいたら、今後何をされるかわからないのだから。
出来ることなら一日ずっと傍にいたい。レンの顔が見れなくても、言葉を交わせなくても良い。ただここに居ることがわかるだけで自分は満足するだろう。しかし、いくらなんでもそんな身勝手な都合で学校を休むというわけにはいかない。
真斗は彼の姿がもう一度見れることをただ祈り、後ろ髪を引かれる気持ちで自宅を後にした。

◇◆◇

やはり真斗は怒っている。いつもなら自分が返事をしないことを理解していて尚、扉の向こうから挨拶を欠かさずしてくるのに。真斗が何も言わないまま家を出て行ったのは、出会った日以来初めてのことだ。玄関の扉の閉まる音が耳に届いた瞬間、レンは無性に寂しい気持ちに襲われた。そしてそんな自分の気持ちに戸惑いを隠せなかった。相手は人間だとあれ程言い聞かせてきたはずなのに、いつの間にかこんなにも真斗を慕うようになっていたのか。仮に真斗に心を許したところで互いにメリットは何一つ生じない。人間と半獣では幸せな未来など築けるはずが無いのだから。最悪、下手をしたら半獣と一緒にいる真斗が人間から軽蔑されてしまうことだって有り得る。

もし真斗と離れるなら、今の内だ。喧嘩をした今ならきっと真斗を然程傷付けること無く、また下手に未練を残すこともなく姿を消すことが出来るだろう。

「………」

しかしそれは同時に、真斗に二度と会えないということを意味する。そう考えると、何故だか身体がぴたりと動くのをやめてしまった。まるで金縛りにでもあったかのように重くなり、全く言うことを聞かない。
確かに、もう一週間程見ていない外の世界は怖い。真斗以外の、自分のよく知る方の人間という生き物が沢山行き交っていて、彼らはレンが半獣であると気付けばすぐに牙を剥いてくる。その中に性質の悪い人間がいたならば家に連れ帰られ、再び軟禁生活が続くだろう。――だけど、違う。自分が恐れているのはそこじゃない。今後真斗に会うことが許されないという事実が、ただそのことだけが、呼吸さえままならなくさせる。

きっともう手遅れだ。今更どう足掻いても、今後待っているのは絶望だけ。してはいけないことだと自戒していながら、自分は聖川真斗という人間をこの短い生活の中で、随分信頼してしまったらしい。

(オレが悪いんじゃない、あいつが)
(あいつが………)

信頼していると認めたら余計、胸が苦しくなった。この先裏切られる可能性だってある。もし真斗が裏切らなくても、ずっと一緒にいられるということは有り得ない。二人が平穏に生きていくにはこの世には弊害が多すぎるのだ。自分は半獣だから、人間と幸せに生きていくことなど許されない。結局自分が傷付く羽目になり、そして恩人である真斗にも何らかの傷を負わせることになってしまう。どれほどそれを理解しても。

(今更嫌いには、なれない)

あんなに暖かい笑顔をくれた人を、自分は他に知らない。許されないことなのだと誰に言われても、強く思っていても。それで簡単に消せる思いならとっくに縁を切っていた。それが出来ないから、苦しい。

(……仲直りがしたい)

ごめんなさいと一言告げれば、きっと真斗は許してくれる。けれどいったい何が悪いのかがわからない内は、上辺だけ関係を修復しても意味が無いのだろう。今後同じ事を繰り返さないとは言い切れないのだから。
真斗が怒る理由。それが自分の為であるということには薄々気付いていた。しかし自分を大切にしろと怒鳴られたのは初めてのことで、当然今まで自分を大切にしていないなんて考えたことも無かったために一体真斗がどこに怒ったのかまではわからない。
身体のこと――。確認がてらシャツの袖を捲ってみると、相変わらず嫌でも目に入る傷が大きなものから小さなものまで腕を覆っていた。この怪我のことを言っているのだとしたら残念ながらそれはどうしようもないとしか言いようがない。時が経って目立たないようになるのを待つしかないのだ。それに、この怪我が原因なのだとしたら脱衣所で会った時に告げていたはず。きっと何か別のことだ。となると、あの提案だろうか。
レンが抱いてくれと頼んだ時、真斗は目を見開いて固まっていた。それは単に予想していなかったことだからだろうと思っていたが、そうだ、確かあの後だ。真斗が今まで見たことの無い怖い顔をして声を荒げたのは。

「……やっぱり、変なやつ」

今更誰に抱かれたって自分はなんてこと無いのに、まるで自分のことのように真斗は怒り、傷付く。赤の他人のためにそこまで親身になれるなんて余程のお人好しで物好きな人間だ。だから自分は彼に対して禁忌に等しいであろう信頼するという行為をせざるを得なかった。皮肉なことに、遅かれ早かれきっとレンは真斗を他の人間とは違う大切な存在だと認めることになっていたのだろう。こんな事になって、そう気付かされてしまった。

(だったら、オレにできることがしたい)

自分は沢山のものを彼に貰った。それはほとんど形の無いもので、きっと真斗はあげたという意識さえないだろうけれど。自己満足ではなく、真斗の為にできること、真斗が心から喜んでくれることが、一体この世にいくつあるだろう。自分でなければできないことがしたい。今度は真斗を傷付けずに、怒らせずに。
そうして導き出した、一つの答えは。

◇◆◇

冬は然許り空が暗くなるのが早い。まだ五時を回ったばかりだと言うのにすっかり日は落ち、明かりを点けずに過ごす部屋は足元が見えないほどに暗くなっていた。けれど今のレンにとって、そんなことは微塵も気にならない。玄関の前で座ってみたり、立ち上がって廊下を行き来してみたりと、とにかく落ち着かずにいた。こんな姿を他人に見られようものなら間違いなく不審人物だと思われるだろう。自分でも怪しい行動を取っているということは辛うじて理解できる。しかし柄にも無く緊張しているせいで、どうしても浮き足立ってしまうのだ。

(……こんなんじゃ聖川に笑われる)

いつもは気にも留めない真斗の帰宅時間。普段彼が何時頃に帰ってきていたかもろくに把握していないが、夕食時には必ず家に戻っており、レンの分の食事まで用意してくれていた。学校帰りで少なからず疲れているはずなのにそれを少しも表に出さずに笑顔で振舞ってくれる。それが彼にとってプラスになるわけではないのに、心底幸せそうに笑いながら。

自分が今まで与えたことも、与えられたことも無かったものを、真斗は当然のようにくれる。手に入るなんて一度も思ったことのなかったものを、いとも簡単に。それがこんなに幸せなものだとは思いもしなかった。愛情や優しさなんて必ず裏の存在するただの煩わしい邪魔な物だとしか認識していなかったのに、そのイメージがこうも簡単に崩されてしまうとは。ある意味恐ろしい人間だ、と思う。

(あいつのせいで、オレまでおかしくなるなんてゴメンだ)

これ以上掻き回されては堪らない。
そう思うなら今すぐこの玄関を飛び出せば済む話なのに、それが出来ないどころかそうしようとさえ思えない辺り、既に自分はおかしくなってしまっているんだろう。けれど不思議と後悔の念は湧き上がってこなかった。寧ろ少しだけ、楽しい気分だ。これから先のことは何も想像できないのに、良いことばかりじゃないとわかっているのに、なぜだか恐怖を上回る期待がある。真斗となら案外何とかやっていけるかのような、根拠など何一つないけれどそんな気がした。信頼というものは多分、こういうことをいうんだろう。

自分から真斗に一歩、踏み出さなければいけない。そうでなければ真斗から近づいてくることは絶対に有り得ないのだから。もう考えていても仕方が無い、自分は聖川真斗という人間に不本意ながら絆されてしまった。四の五の言ったところでそれは醜い言い訳にしかならないのだ。

不意にガチャリと鍵を回す音が聞こえ、一気に思考が現実へと引き戻された。同時に、心臓の音が周りに聞こえるんじゃないかというくらい高まるのが自分でもわかる。本当に、らしくない。汗をかいた手のひらを強く強く握り締めて、ごくりと息を飲んだ。ドアノブが半回転し、そして、扉がゆっくりと引かれる。

レンは緊張ですっかり渇いた喉から、どうにか声を振り絞った。



「………お、かえり」


たった四文字。誰でも口にするような、特別でもない有り触れた言葉。それを言うのに、どうしてこんなに恥ずかしい思いをしなきゃならないんだろうか。しかも、昨夜喧嘩をしたばかりの相手に。

きっと本来ならごめんと告げるのが一番良いのだろうとも思った。しかしそれは真斗との仲を修復する為に必要な言葉というだけであって、真斗が望んでいるものとは違う気がしたのだ。謝罪では真斗の笑顔を見ることができない。きっと悲しそうな顔をさせてしまうと思ったから。

今の自分にできること。この家に住むものとして真斗を喜ばせることの出来ることは多分、この言葉なんだと思った。それはほとんど勘だったけれど。

「……………」

真斗は鞄を床に落として絶句していた。そうあからさまに驚いた反応をされると余計に気恥ずかしくなってしまうのだが、確かにこんな挨拶は今まで一度もしたことがないのだから、驚かせてしまうのも無理はない。
だけど、早く何か言ってほしい。この沈黙に耐えていられない。じわじわと襲う羞恥に勝てず、今の言葉を聞かなかったことにしろなんて横暴なことを言ってしまいそうだ。

(早くなんか言えよ、馬鹿)

いきなりどうした、でも、何のつもりだ、でも、なんでもいい。とにかく一言喋ってほしい。なんなら昨日の喧嘩の続きだって良いから。
祈るようにして真斗の顔を見ると、その顔が何故だか泣きそうにくしゃりと歪んだ。だけどそれは昨日の傷付いた顔とは違う、すごく暖かい表情で。


「………ただいま」


きっと自分は、真斗のこの笑顔と声を、言葉に表せない今の気持ちを、今日という日を、忘れてはいけないのだと。否、忘れることなどこの先一生出来ないのだろう、と。レンは何も言葉を紡ぎ出せないまま、けれど強く、そう思った。






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