まだ日の昇りきっていない暗い早朝、慣れない徹夜が原因で目の下に大きな隈を作った真斗は、しかし彼に何か食べさせなければいけないと早くから台所へ向かった。昨夜一度様子を見に行った際、ベッドの上で時折苦しそうに魘されては寝返りを打っていた彼は一体何を食べるのだろうかと考えた末、無難に和食を振舞うことにした。猫だから魚、というのはあまりに安易な発想かもしれないが、強ち間違いでもないだろう。


唯一の初めては 02


眠気に手を滑らせそうになりながらどうにか目を擦って作り上げた朝食は下拵えから極力丁寧に行ったためか、心なしか普段作るそれよりも美味しく出来上がったように思えた。きっとまともな食事を摂ってこなかったであろう彼に食べさせる料理が間違っても不味いようなことがあってはならない。昨日の態度からして彼が素直に人間である真斗が作ったものを食べてくれるとは到底思えなかったが、人間寝食はきちんと取らなければ生きていけない。今までまともに関わりを持ったことの無い半獣のことはまだ断片すら把握しきれていないが、彼は猫であると同時に人間でもあるのだから、それは自分と変わらないはずだ。

出来たばかりのほくほくと湯気を立てる料理達を一つ一つ小皿に取り分けトレーに乗せると、そのまま彼のいる寝室の前まで足を運んだ。そして扉から少し離れた位置にそっとトレーを置く。かたんと小さな音を立てたそれから手を離し、きっと既に目が覚めているであろう彼へ扉越しに声を掛けた。

「腹が減っているだろう。口に合うかはわからないが食べてくれ。一応言っておくが、変なものは入っていないからな」

扉の向こうで警戒して身体を強張らせる彼の姿が容易に頭に浮かぶ。仕方が無いことだ、そうさせてしまったのは皮肉なことに真斗と同じ生き物である人間なのだから。真斗が彼のことを何も知らないように、彼もまた真斗のことを何も知らない。信じろというほうが無理な話だ。むしろ彼が一晩この家で過ごしたこと自体奇跡だといっても過言ではない。真斗が彼に近付けば、それだけ彼は恐怖心と戦わなければならなくなる。それでも、寝食は信頼している者の前でなければ出来ない。酷なことではあるが、ほんの少しでも信頼してもらわないことには何も始まらないのだ。それに、真斗以外の人間の元へいけばそれこそ何をされるかわからない。悲しいことにこの世には半獣に嫌悪感を抱く者の方が多く、真斗のような考えは少数派というのが現実なのだ。

「お前にとって俺は憎く、そして恐れる対象だということはわかっている。だが俺は本当にお前を傷付けたくて連れてきたわけではないんだ。どうしたら伝わるかわからないが……」
「……へぇ、うまく嘘をつく人間もいるものだね。もしオレが幼かったらきっと信じてたよ」
「嘘などでは……」
「どう証明できる?オレとお前は昨日出会ったばかりの赤の他人。人種が違えば住んでいる世界も環境も、何もかもが違う。そのオレに対して報酬もなしに親切にするメリットなんて何一つない。そんなお前をどう信じろって言うんだ」
「俺はお前に見返りを求めているわけではないのだから、お前が何かする必要などない」
「だから、それが信頼できないって――」
「俺がお前を傷付けそうになったら殺して構わない」

彼の言葉を遮って真斗が告げた瞬間、それまで饒舌に紡がれてきた言葉がぴたりと止んだ。扉の向こうで息を呑む気配が伝わってくる。真斗の言葉は彼を納得させる為に吐かれたその場凌ぎの嘘などではなく、迷い一つない本意だった。そのことが声を通して伝わったからこそ、彼は何も言えなくなってしまい、黙ったのだろう。

本当は彼だって信じたいはずだ。誰も頼れる相手がいない世の中は、容易く想像もできないほどあまりに辛い。真斗は離れて暮らしている家族、学校で会う度言葉を交わす級友、近隣に住む挨拶を交わす人々、また自分が知らないところでさえ、数多くの人間に支えられて生きていると自覚している。一人では今の自分はいなかったはずだ。

しかし半獣である彼は、まともに他人と関わったことがない。故に誰かと言葉を交わすこと、食事を共にすることの楽しさを知らずに生きてきたのだ。自分以外を信頼すれば痛い目に遭う。今まで何度も繰り返された真斗の知らない悲劇のせいで、人を信頼するという行為の意味がわからなくなってしまった。自分を守るためには他人と関わってはいけないと、学んでしまったのだ。それは生きていく上で傷付かないという意味では賢いことなのかもしれないが、あまりにも悲しすぎる。

「俺に害が無いとお前が判断するまで、必要な時以外俺からは近付かない。ただの空き家としてこの家にいてほしい」
「………馬鹿だよ、お前。どうかしてる」
「どうかしているのはこの世の方だ。お前たちは差別される存在じゃない」
「………」
「食べ終えたらここに置いておけ、時を見て回収しに来る」

これ以上何を言ったところで無駄だと察し、真斗はそれだけ言い残して踵を返した。一度捨てた心を取り戻すことが難しいということは知っている。彼はきっと一度酷い目に遭っただけなら信じることを止めることはなかった。裏切られて、それでも信じようとして、それがまた駄目だった時、やがて心を失くしてしまったのだろう。彼は何も悪いことをしていないのに、周りの威圧に自分の存在が悪いのだと責めて、一人で生きることを決めてしまった。経験から学んだことは消そうとしたところで上手くは消えてくれない。それもこんな短時間では到底不可能だ。無理強いをすれば余計に苦しめてしまう事になる。今真斗に唯一出来るのは、ただ彼の心が開くのを待つことだけだ。

(……さて、俺も朝食を取らなければ)

台所に戻ってきた真斗は、彼と話している間放置していた為に熱を失ってしまった料理にラップをかけ、電子レンジに入れる。ブン、と音を立てて加熱を始めたそれをぼんやり眺めていると、唐突に大きな睡魔が襲ってきた。彼が一晩経っても姿を消さなかった安堵感、そして食事を渡し終えやる事がなくなったせいだろうか。それまで平然と立っていたのが信じられないくらい、とにかく眠い。舟を漕いでは慌てて首を振る動作を繰り返す。事故があってはいけないとどうにか加熱完了を知らせる音が鳴ると同時にレンジを開け、そこでふと保っていた意識が途切れた。

◇◆◇

水がシンクを跳ねる音がする。確か随分前に止めた筈なのだが、不注意で出しっぱなしにしていたのだろうか。すぐに止めなければならないが今真斗のいる位置はとても手の届く距離ではない。重い瞼を僅かに持ち上げるのが精一杯で、普段はなんて事の無い立ち上がるという動作さえ今は億劫な状態だった。やはり貫徹など慣れないことはするものじゃない、特別な事情が無い限り二度としないことにしよう。面倒だが、早く水を止めなければ。

しかし、真斗が立ち上がることなく、また蛇口を捻ることも無く、水は流れることをやめた。キュッと軽い音を立てて止まりきらなかった水滴が数度跳ねた後、ぴたりと音が止み室内は静寂に包まれる。いつから自分は超能力を会得していたのだろうか。随分便利な力を手に入れたものだ。

(……いや、待て、そんなはずはない)

夢うつつの状態でまともに思考が働かずにいたが、本来そんなことは有り得ない。人が手を加えない限り水は流れないし、止まりもしないのだ。そう、人が手を加えなければ。そして今まで眠りに落ちていた真斗がそれを出来る筈は無い。ぼんやりとしていた意識をはっと取り戻し、慌てて体を起こす。

信じられない思いで目を凝らすとそこにあったのは、紛れも無く――彼の姿だった。

「…………お、前………」
「っ!!」

呆然としつつも声を掛けると、その背中が面白いくらいびくんと跳ね、恐る恐るというように真斗を振り返った。初めて見る彼の表情だ。そこに憎悪の念は込められていない。戸惑うような照れたような、昨日真斗が目にしたのとはまるで違う、別人とも間違えかねない顔をしていた。互いに種類は違えど動揺で上手く言葉を紡げないまま、沈黙が流れる。それを破ったのは、意外なことに彼の方だった。

「……寝床も借りて朝食も貰ってそのままにしておくのは、オレが気に食わなかったから……それだけだよ」
「そ、そうか……。すまなかったな、ありがとう」
「……別に、皿を洗っただけだろ」
「いや、嬉しくてな……。お前が片付けをしてくれたこともだが、全部食べてもらえたことも」
「……お前と話してると調子が狂う……」

真斗は思ったことをそのまま口にしただけなのだが、どうやら困らせてしまったようだ。今朝まで強気だった彼が居心地悪そうにそわそわしている。だがそんなことは気にならないくらいに、真斗の気持ちは弾んでいた。決して自惚れてはいけないけれど、それでもほんの少しだけ、彼との距離が縮まったような気がする。それだけで先程までの眠気も疲れも、全てが吹き飛んでしまった。調子に乗って羽目を外してはいけないと己に言い聞かせつつも、彼ともっと言葉を交わしたくなる。もっと彼のことが知りたい。それに、彼の声は耳に心地よく響くのだ。ずっと聞いていたくなる。

「名前を……聞いても、いいか?」
「……神宮寺レン」
「神宮寺レン、か。俺は聖川真斗だ。その……なんだ、よろしく頼む……?」
「言っておくけど、オレにお前と馴れ合う気はないぜ。けど……気が向いたから、飽きるまではここにいるつもりだ」

目を合わさず告げられた言葉に、真斗は一瞬自分の耳を疑った。あまりに浮かれすぎて、彼の発言全てを自分に都合の良いように聞き入れてしまっているのかもしれない。けれど僅かな髪の隙間から見える彼の耳が赤く染まっているのを見て、今しがたされた発言が決して幻聴ではないことを悟った瞬間、胸に熱い何かが大量に押し寄せるのを感じた。すぐにでも目の前の彼を抱きしめて甘やかしたくなるような衝動に駆られる。しかしそれをすれば一気に嫌われるのが目に見えているためどうにか抑えつけたものの、顔が綻ぶのはどうにも隠しようが無かった。

「神宮寺、何か欲しいものはあるか?今後必要なものは?買出しに行くか?」
「馴れ合う気はないって今言ったばかりだろ!それに、余計なことしなくていい。自力でどうにかできることはする。あくまで家を借りるだけだ」
「あ、部屋は好きな場所を使っていいからな。空き部屋もあるし、リビングも台所も自由に使ってくれ」
「オレの話聞いてるのか……?」

その後も家の中の説明や道具の扱い方、家事を行う際の注意点などを事細かく延々と聞かされ、やがてレンが真斗から解放されたのは数時間後だった。

◇◆◇

「……疲れた」

他人の話を聞くだけでこんなにも疲労が訪れるなんて知らなかった。聖川真斗という男はどこまでもお節介で、そして変わった人間らしい。今までレンが関わってきた人間の数は片手で数え切れるくらいの少数だが、今後どれくらい多くの人間と関わったとしても二度と真斗のような人間に遭遇することは無いだろう。半獣を非難しないどころか匿うような真似をして、その上報酬は何も必要ないという。挙句の果てに、真斗は命までをレンに託したのだ。もしかしたら半獣なのではないかと疑うほどに、彼は半獣に優しい。それも裏があるようにはとても見えなかった。これで今までの真斗の言動が演技だったとしたら、怒りよりも先に賞賛してしまうかもしれないと思えるほどに。だからこそ不思議なのだ。

「オレが、気持ち悪くないのか……」

人間にも獣にもなりきれない、中途半端な存在。こんな存在が生まれた原因も、本物の人間や獣との違いも、現代の研究を駆使してさえ何一つわかっていない気味の悪い人種。今まで出会った人間の行動は全て、近寄るだけで悲鳴をあげるか、罵声を浴びせるかのどちらかだった。殴られることにも犯されることにも慣れている。獣には法律など通用しないのだから、何をしても許される。人間様の勝手なのだ。今更傷付くことはない。けれど、心の方はそうもいかない。怪我はいつか治るし、汚れは綺麗に洗い落とせば良い。けれど、半分は彼らと同じ人間であるのに、その人間から吐かれる幾多の暴言は気にせずにいられないのだ。半獣であるなら人間の感情など要らなかったのにと何度思っただろうか。

人間など信じるだけ馬鹿だ。痛い目を見るに決まっている。そう何度も学んだ筈なのに、それでももう一度、信じてみたいと思う自分がいた。勿論、信じたいとほんの少し思ったところでそう簡単に信じられるわけではない。謂わばトラウマというものを数え切れないほどに持っている自分が信じてはいけないと必死に危険信号を発信しているのも確かで、どうしたらいいのかは未だにわからないままだ。

「……聖川、真斗……か」
「呼んだか?」
「――っ!いるならそうと言え!」
「安心しろ、今来たところだ。今日の夕飯を何にしようか迷っていてな」
「夕飯、ね……。オレに作らせてくれないか」
「構わないが……料理なんて出来るのか?」
「当たり前だろ。今までどうやって生きてきたと思ってるんだ」
「まあ、それもそうだな。なら頼む。冷蔵庫にあるもの好きに使っていいぞ」
「はいはい」

レンは真斗の言葉を適当に聞き流して台所へ向かう。後ろから聞こえた真斗の溜息はどことなく嬉しそうで、やはり変な奴だと思わずにいられなかった。

わからない。自分がこの先どうあるべきか、真斗と関わって良いものなのか、早いうちに縁を切って置くべきなのか。わからないけれど、こうして悩めることがほんの少し幸せだと思える辺り、自分もおかしくなってしまったのだろうか。今までだったら相手の話も聞かず出て行き、見知らぬ人間に捕まっては逃げるという以前と同じような日々を繰り返していたはずだ。このことが良いことなのか悪いことなのかも判断できないが、今はただこのおかしな人間と興味本位で一緒にいたいと思う。この信じきることも突き放すことも出来ない有耶無耶な状態でいれば、いつか裏切られたとしても軽いダメージで済むだろう。ずっとこの気持ちのままでいられたら良い。レンは祈るようにそっと目を閉じて、深呼吸をした。


その後、夕食の味付けについて一悶着あったのは言うまでも無い。


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