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発表会当日。私は控え室で震えていた。私の教室のピアノの発表会は少し大きい行事で他の教室と合同で開催する。ホールもきちんとした所を借りるし演奏者には大部屋だけど控え室も与えられる。その為、周りの子達が「緊張するね〜、」と話していたり母親にお行儀が悪いことを厳しく叱られている子がいたりと騒がしい。その中で私は端っこを陣取り両手を膝の上で握りしめていた。私の異様な空気のせいか隣には誰も座らない。
今日が終わったらピアノにしがみつくのは終わり。そう思えば思うほど失敗してはいけないプレッシャーや、今日を終えたらどう生きていけばいいのかという不安が吐き気まで連れてきて指先も完全に冷え切っている。
目の前の鏡でもう何度目か分からないが自分の姿をチェックする。非常に顔色の悪い自分と目が合ってこれは大変だ、と更に焦ってしまう。無駄に髪をまとめ直しブラックのドレスの紐を弄りながら深い息を吐いた。こんな状態で私はピアノを弾けるのだろうか。頭を抱えていると私の肩を叩く人がいた。

「なまえちゃん。」

聞き覚えのある声に私は指先だけではなく体全体が冷えるのを感じる。振り返らなくても分かる。この声は、

「お、お姉ちゃん…。」

鏡越しに見る姉はとても優しい顔をしていた。恐らく私の肩を叩いた手を上げて口を開いた。

「やっほ。今日でピアノ辞めちゃうってお母さんから聞いてね、来ちゃった。私はすぐ辞めちゃったけどなまえちゃんはずっと続けてきたんだもんね。偉い偉い。」

不味いタイミングだなあ、と頭の隅で冷静に自分を分析する。ここで何か余計なことを言われたら私はピアノを弾く前に終わるだろう。

「なまえちゃんは世界で1番、ピアノが上手ってお姉ちゃんはそう思ってるからね!」

自分が必死に背中を追っていた人物にそんなことを言われた私は隕石が体に落ちたのではないかと思うほどに気持ちが重くなるのを感じた。ああ、終わったかもしれない。姉の前でお粗末なピアノを弾けないという謎のプレッシャーも加わって奥の方の歯が鳴ったのが分かった。気がついたら姉は居なくなっていて私は再び椅子に沈んでいる。
名前を呼ばれ出番を告げられた私はきちんと返事を出来ていただろうか。



薄暗闇のステージ袖はとても不安だった。この場所を不安だと思ったことなんて1度もなかったのに緊張して仕方がない。先に演奏をしている子のピアノがやけに上手く聴こえて更に不安になってしまう。先生は別の子の付き添いで居ない。ここに私一人だ。
結局、最後までセレナードを理解出来なかったな。あの曲はこの舞台袖のように薄暗い曲だと私は思う。恋の曲だというのに哀愁しか感じられない。恋とはそんなに疲れるものなのだろうか。やっぱり分からない。このセレナードという曲は私が必死に見ないようにしていた恋だとかコンプレックスだとかを丁寧に引きずり出して私を悩ませた。こんな曲を私が弾くのはおかしい、似合わないと思ってここまで来た。 …ただ、衣更くんは私がこの曲を弾くことはおかしくないと言ってくれた。…それでいいじゃないの。私が、好きだと思った人におかしくないと言ってもらえたならそれがお世辞だろうとなんだろうと、自信を持って弾くべきだ。そうだ、そうだよ、と言い聞かせてもちらつく姉の顔とこの演奏でピアノを弾くのが最後ということがそれ以上に私にのしかかっていた。

「名字さん?だよね?ほら、アナウンスされてるよ。」

袖にいた関係者の人が私が舞台に呼ばれたことを教えてくれた。私ははっとして舞台を見る。私の前の子は既にいなくてがらんとした舞台の上にピアノがぽつんと置いてあるだけになっていた。お礼もそこそこに足早に舞台に出た私はいつもより拍手の音がうるさく聞こえて足が震えてしまう。ピアノの横に立ち深くお辞儀をする。自分の足元が霞んだような気がした。自分の呼吸が耳の奥で聞こえてきている。コンディションが最悪である事を再確認しながら調整された椅子に腰掛け鍵盤に指を置いた。酷く鍵盤が冷たく感じて仕方ない。私は上手く弾けるのだろうか。カタカタと指が震えて止まらない。初めてステージに立つ子供みたいで情けない気持ちでいっぱいになってしまう。
数秒経っても演奏を始めない私に客席がざわつき始めた。ああ、どうしよう。どうしよう。


「頑張れ!」


遂に頭が真っ白になった時、客席の方から聞き覚えのある声がまっすぐとぶつかってきた。恐る恐る客席に目を向ける。赤い髪でおでこを全開にした姿が見えた。横には朔間先輩もいるのだろう。でも私は衣更くんだけがしっかり見えた。散々お世話になった先輩も横にいるって言うのに私はなんて薄情なのだろうか。くすくす、と会場が小さな笑いに包まれる。
私はとても安心してしまって思わず口元を緩めた。ガチガチに固まっていた指先がゆっくりほぐれて血がじん、と通ったのを感じて再度鍵盤に向き直る。私はこの恋の曲はやっぱり理解できない。でも良いじゃない。好きに弾けばそれが私の正解なんだ。

空気に置いた重苦しい「D」の音が "私のセレナード" の始まりを告げた。


* * *

「ちょっと、ま〜くん。」

「ご、ごめんって。」

凛月に小突かれた俺は慌てて謝る。不安そうにステージに1人顔色を悪くして座っている名字を見て何か声をかけないと、と思わず大きな声で応援してしまったのだ。笑われてる状況の俺はとりあえず自分の付近に座るお客さんに軽く頭を下げていく。ほんとすみません。
再度ステージを見るとこちらを見ている名字と視線がしっかり噛み合った。唖然とした顔でこちらを見ていたが次の瞬間には花が咲いたみたいに笑った。そして俺から視線を外すとピアノに向き直る。
ブラックのドレスから覗く細い腕から想像出来ないほど重々しい音が会場に響いて思わず息を飲んだ。



「ていうかさあ、あんな静かな場面でよくもまあ大きな声出せたもんだよねえ。」

「だ〜から、ごめんって!」

「不幸中の幸いでガチガチに固まってたなまえは程よくほぐれたみたいだけど。」

はあ、と凛月は息を吐くと会場の裏側に回っていく。楽屋は割と誰でも出入り出来るようで先程から親子やきちんとした格好の演奏者達とすれ違う。凛月は慣れているようですいすいと進んでいくので追いかけるので精一杯だった。

「あれ。」

壁から顔だけ覗かせて何かを見つけた凛月が立ち止まった。なんだなんだと更に横から顔を覗かせる。だ、大丈夫か?この状況、不審者と間違われてないか?

「あれ?」

見覚えのある姿に俺も凛月と同じ言葉を漏らす。あれは名字と知らない女の人と………

「あんず…??」

ただ向こうの声は聞こえない。凛月と顔を見合わせると一旦建物の奥に引っ込む。

「え?何あれ。ま〜くん何か聞いてる?あんず来てたの?」

「いや、分からん。あ………でも俺の様子がおかしいってあんずから心配されたけど…。いやでも名字のことは言ってない。」

「「……………?」」

再度壁から顔を覗かせるともう既に3人の姿はなかった。