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あれから私は毎日をこれまでと変わりなく過ごしていた。衣更くんへの気持ちを自覚したからといって特段変わったことはなかったのだ。衣更くんのことを思い出してドキドキしたり落ち込んだり会いたいと感じたりするのかな、なんて思ってみたけれどそんなことは無かった。なので私の演奏をする上でのテーマ、恋に苦しむ切ない心を表現するための気持ちがわからないままでいる。せっかく恋を知ったかもしれないのに勿体ないなあ、なんて呑気にシャープペンを顎に当ててどうしようかと頭を抱える。
朔間先輩から連絡は時折来ていたが私はそれを全て避けた。朔間先輩の所へ行ったら衣更くんが居るのではないかと思ったからだ。恋をしたのかもしれないわりにその対象を避けているところを見るともしかしたら恋なんてしていないのかもしれない。どうなんだろうか。もやもやして気持ち悪い。
「( あ、 )」
私が考え事をしているうちに黒板の文字が消えてしまった。やってしまった、と私はため息をつく。できれば誰かにノートを見せてもらいたいが生憎私には友達がいなかった。何だか自分で言って悲しいな。教科書を見てなんとかしよう、それか先生に後で聞きに行こう。そうしよう。
「( ……朔間先輩 )」
ポケットで震えた振動にゆっくりスマートフォンを出すと朔間先輩からの通知だった。今日は暇?と短い文面に目を伏せる。今日はピアノの日で元より時間はない。すぐに返事を返さなくていいか、と私は再び視線を前に向ける。ぶー、と再び短い振動がやってきて珍しいなと再びポケットを探った。
"ま〜くんと何かあった?"
「………。」
別に何も無いですよ。心の中でそう返すと私は意識を授業に戻した。
なまえからの返事はまだなくて時折セッちゃんから明日の業務連絡やらなんやらがやってくるだけだった。なまえは連絡をわりとすぐ返すほうで友達も多い方ではないからピアノ以外で忙しいことなんてそうそうないだろう。だと言うのに俺が連絡をしてからもう数時間は帰ってきてない。生意気に既読すら付けないのだ。絶対見てるくせに。
「……あ〜、凛月さん?」
俺の足元でま〜くんがそわそわした声を出した。今日はTrickstarもレッスンがなく俺の家にやってきたま〜くんはきょろきょろとしたり俺のスマートフォンの通知音に反応したりと何だかわかりやすかった。……やっぱりなまえと何かあったのだろうか。だとしたらあの子の付き合いの悪さや返信の遅さも納得ができる。
「なあに、ま〜くん。」
「今日はあの、ほら、えーとピアノ弾かないのか?」
「…弾かないよ。」
セッちゃんからの連絡にス〜ちゃんが返事をした通知が鳴った。
「あ〜、さっきからけっこう通知なってるけどなんか……珍しいよな〜、凛月のスマホが頻繁に鳴るの。」
はは、とわざとらしく笑うま〜くんをよそにスマートフォンを眺める。
「そう?」
ポチポチと適当にスタンプを押していき怒りに溢れるスタンプを見つけると迷わずに押した。後に"セッちゃん"と付け足すと案の定お怒りの文面がやってくる。余談だがセッちゃんをからかうのは楽しいのでやめられない。
「り、りっちゃん。あのさ、相談があるんだけどさ…。」
「……へえ、相談?ま〜くんが?」
相談をされるのは珍しい事だった。やっとか、という気持ちで座り直すとま〜くんはおそるおそる話し始めた。この間のKnightsのライブ後にあったことをつらつらと話されるとだんだん頭が痛くなってくる。ほんとま〜くんて鈍いよね。なまえに直接聞いてなくても話だけでなんとなくなまえがま〜くんに気があることが分かる。
「でさ、ちゃんと会って謝りたいんだよ。でも連絡しづらいっていうかさ…うん…。」
「謝る?ま〜くんはなんでなまえが怒ってるか分かった状態で謝るの?違うんだったらなまえには逆効果だと思うけど。」
「…理由は分からないけどさ…。このままじゃ嫌なんだよ。泣いたのは絶対に俺のせいだし…。でもなんで名字が怒ったのか今日まで考えたけどやっぱ分からない、です。」
じとりとま〜くんを見る。だいぶ凹んでいるようで覇気が無い。
「あのさあ、もう関わらないとかで良くない?分からない状態で何話したって余計拗れるだけだし、ま〜くんそんなになまえと仲良かったわけじゃないんでしょ?じゃあもう良いじゃん。そんな訳のわからない女なんてほっとけば?これからおまえらTrickstarは大きなライブだってあるっていうのにそんなこと考えてる場合じゃないでしょ。」
「…………。」
ま〜くんの大きな目が揺らいだ。
「それだと名字とはこれで終わっちゃうだろ…。それが嫌だってすごい思うんだよ。名字って最初訳わかんなくて何考えてるんだかわかんなくってさ。不安だったんだけど会う度に色々な名字が分かってさ。けっこう可愛い所とかあるんだよ。ちょっと抜けてるところとか割と小さい手とか、もっと俺の知らない名字を知りたい、って……話まとまんないし、なんかこれ変だな。」
「うっわ。ま〜くんってさあ…。」
ほんとある意味変態〜、と心の中で続ける。小さい手とかって何?
でも、完全に恋する顔をしているま〜くんは初めてかもしれない。今まで恋人がいた事はあるま〜くんだけど基本的に恋人より俺を優先するところはどの女の子といても変わらなかったしノリで付き合って最終的にフラれるのだ。まあ、ま〜くんはその理由をよく分かっていないけど。
「それじゃあ、ま〜くんはなまえを追いかけたい、と。」
「お、追いかける?なんだそれ。…まあ確かにこのまま自然と会わなくなって、とかは嫌だけど。」
「ま〜くんに協力してあげたいのは山々なんだけど俺も最近なまえに避けられてるんだよね。多分ま〜くんとの一件が原因だと思うけどさ。」
俺の言葉にま〜くんはしゅん、と項垂れた。可哀想だと思うけど急に来なくなってしまったなまえのことで実際俺だって寂しい気持ちを覚えている。多少トゲのある言葉になっても仕方ないだろう。がくりと項垂れたままのま〜くんの肩に手を置くと最終手段だよと呟いた。
「もう数日でなまえのピアノの発表会があるからそこでとっ捕まえよう。」
「捕まえる?!物騒だな…?」
「捕まえるんだよ。俺の事をシカトするなんていい度胸だよね、ほんと。」
引きつった顔をしたま〜くんは戸惑いながらもゆっくり頷いた。