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あんずさんはとても素敵な人だった。私と似てるだなんてとんでもない。私とは違って人の為に尽力のできる素晴らしい人間だった。こんな人と私が似ているだなんて本当に申し訳なくて話せば話すほどどんな顔をしていいのか分からなくなっていく。心做しか気分は沈んでるように思う。氷鷹くんも衣更くんもみんな夢に向かって頑張っている人達であんずさんは寝る間も惜しんでそれをサポートしている。私のように何の目的もなく惰性と何かの意地でダラダラとピアノをしている人間と違うことを思い知ってしまった。友達と呼べるのなら、だなんてほんと恥ずかしいことを考えたものだなあ、と私は相槌を打ちながら考えていた。

「この間も言ったが今度俺たちのライブに招待したい。名字が来てくれるのであれば明星も遊木も喜ぶだろうしその時はまた連絡する。」

「…ええ、楽しみだわ。」

そんなふうに答えながら私はきっと行かないのだろうと思った。これ以上彼らの頑張りを見てしまったらますます線引きを感じてしまいそうでほんの少しだけ怖かった。

「そう言えば名字もピアノの発表会、あるんだろ?」

「え?名字さん、ピアノが出来るの?すごい。私、そういう経験がなくて。作曲とかもできるのかな?」

「え、ええと。ピアノの発表会はそろそろあるけど作曲とかはあまり…。今の曲とかそんなに聴くほうではないから作曲は難しいかもしれないわね。」

私はお茶を啜りながら首を振る。衣更くんは思い出したように再び声を上げる。

「凛月は名字のピアノ見に行くの?」

「うーん、どうかしら。今回はなんの話もしていないし多分来ないと思う。私も毎回呼ぶわけではないし。いつもはこの日にあるんですよね、じゃあ行こうかなみたいなノリだから…。」

「へえ、ほんと仲いいよな。」

私は人の気持ちに敏感な方ではないがなんとなく衣更くんの言葉にトゲがあるような気がして思わず咳払いをした。幼馴染がノーマークだった人間と仲良くしているのは気分が良くないものなのかもしれない。

「いいえ、そうでもないのよ。それに私、朔間先輩に関しての事で衣更くんには勝てないと思うわ。」

自分なりのフォローを入れてからちらりと衣更くんを見る。どうやら失礼な発言ではなかったようだ。…多分だけれど。

氷鷹くんとあんずさんはそれぞれ話し始めたので私と衣更くんは必然的に残される。ざわざわとした店内と無言の私たち。じ、とこちらを見ている衣更くんになんだか居心地の悪さを感じてサイドに流れる髪の毛を耳にかけた。

「……口元に何かついてる?」

「えっ」

「私の顔に何かついてるのかな、って。衣更くんったら私のことすごく見ているんだもの。気になっちゃって。」

いや、別にと視線を明後日の方向に向けた衣更くんとその後視線が絡むことは無かった。


* * *

俺たちは一頻り会話をした後会計をして外に出る。随分長居したようで空にオレンジが混じっていた。もうこんな時間かあとぼんやり上を眺めていると隣にあんずが来た。空が綺麗だねと話しかけられて俺は頷く。

「今日は楽しい時間をありがとう。休みのところ本当にすまなかった。良ければまたこういったところに誘っても迷惑ではないだろうか。」

「あまり同年代の人と出かけたりもないから新鮮で私も楽しかったわ。今日は誘ってくれてありがとう。氷鷹くんは素敵なお店を知ってるのね。ええ、勿論。機会があれば誘ってもらえると嬉しい。」

そんな会話が聞こえて何となく後ろを振り返ってぎょっとした。名字が本当に楽しそうに表情を崩したのだ。その瞬間、風で靡いた名字の髪を北斗が優しく払ってじっと顔を覗き込んだ。名字が驚いたように目を大きく開く。いやいやいや待て!なんでちょっといい雰囲気になってんだ!?

「ええと、」

「いや、随分綺麗に笑うものだから髪で隠れてしまうのはもったいないと思ってな。本当に喜んでもらえたようで安心した。」

駅に向かおう、と北斗が歩き出したのを名字が見送る。ここまで接してきて気がついたが名字という人間は本当はわかりやすい。人と関わりを持つのを苦手とするから分からないだけで関わるようになって言葉を交わせば冗談も言うし今みたいに女の子の表情をする。ただそれに気がついたのは北斗があんなことをしたからだ。頬を染めて何がなんだか分からないですみたいに北斗の背中を見ている名字を俺は絶対に引き出せなかったと思う。直球でお世辞でも何でもなく言葉を言える北斗しか引き出せなかった名字。セレナードを名字が演奏すると知って似合わないと笑った凛月だってこんな名字見たことないだろう。こんな顔する事を知っていたら似合わないだなんて言葉は選ばない。悔しい、素直にそう思った。

「………、」

何かを言いたいのに言葉が出てこない。あんずはもう隣に居なくて北斗の後を歩いている。名字もおずおずと歩き始めると俺の横を通り過ぎて行く。反射的に腕を掴んだ。

「わ、え?な、なに。」

「え!?あれ、いや、えーと。…名字は結構食べ物好きなんだなって。あんずも楽しそうにしてたしやっぱり女の子って美味しいものが好きなのかな。はは、」

誤魔化すようにして話をしても名字の腕を掴んで引き止めてしまう理由にはならない。名字もそう思ったようで俺と自分の腕を交互に眺めた。

「…そうかもしれないわね。今日の和菓子はとても美味しかったからまた来たいって思ったけど…。どうかしたの、衣更くん。」

「あー、いや。ごめんな。」

腕を離すと名字は怪訝な顔をして再び歩き出す。軽い足取りで進む後ろ姿を追った。



あんずと北斗は俺たちとは別の電車に乗るようで行きと同じように2人で帰路につく。微妙な時間だからか電車は空いていた。帰宅ラッシュには早い夕方はこんなにも穏やかだとは。2人で隣合って座るとぽつりぽつりと名字が今日の感想を話し始めた。相槌を打ちながら聞いていれば急に声が聞こえなくなる。

「……?」

覗き込めばどうやら寝てしまったようでそのうち俺の肩に小さな重みが乗る。驚いてもう一度名字を見るが薄く閉じられた目は開く気配がない。なんだか気持ちが落ち着かない。だらりと投げ出された名字の手が鞄を手放す前にそれを預かる。
無防備に俺に体を預けているのを見て俺は満ち足りた気持ちになった。こんなふうに寝てしまうぐらいには俺を信頼してくれているのかもしれない。いや、疲れただけかもしれないけど。ただ今日の1日でほんの少しだが距離は詰まった、はず。手応えを感じているのは間違いではないと思いたい。自分でもなぜそこを拘るのかだなんて理由も分からないし不思議な感覚だけど俺は気分がよかった。
ふと力の抜けきった名字の手が目に入る。細い指が時折ぴくりと動くのを見て手を伸ばした。冷房で冷えた指は心地いい。しっとりとした名字の手は小さくて軽く握ると反射なのか軽く握り返してくれる。それだけの事なのに馬鹿みたいに嬉しくて名字から視線を外して口元を抑える。
調子に乗った俺は名字の指に自分の指を絡ませた。馬鹿だろって自分でも思う。……まあ寝てる女の子相手にやる事じゃないよなあ、と反省しながら俺はゆっくり目を伏せた。


「い、衣更くん…?」

名字の声で気がついた俺はぼんやりと周りを見渡すとまだ電車に乗っているようで静かな振動に揺られていた。まだ最寄り駅ではないようで起こされたことに不思議に思ってから冷や汗が止まらなくなった。自分の左手にある柔らかい感触にやらかしてしまった事を悟る。

「あの、起きたら衣更くんに寄りかかってしまっていたようで…。」

「……あー。」

ゆっくり手を離すと預かっていた鞄を返した。なんとも言えない空気が俺たちの間を流れる。いやこれ絶対に引かれてる。せっかく詰めた距離が急に遠く感じる。

「………、こんなことを言って変に思われたら申し訳ないのだけど…。」

「え?」

「衣更くんの手は大きいのね。ピアノが弾きやすそう。」

いつもの表情が読めない方の名字はそう言うと俺の手をじっと見る。予想していなかった対応にたじろぐと同時に何でもない様子に安心した。意識されてないのかと複雑さはあるが今は嫌われたわけではないことを優先的に喜ぶべきだ。

「そ、そうか?」

今度凛月に教えてもらおうかな〜、なんてぬかしたところで名字は背もたれにゆっくり寄りかかった。

「……今日は本当に充実した休日だったように思う。またこうして集まれるのならとても嬉しい。」

寂しそうな声色とどこか遠くを見るような顔が大人びていてまるでもうこんなことはないかのような雰囲気で俺は思わず大きな声を出してしまう。

「次はどこ行く?」

「……次?」

「また、どこかに行きたいんだろ?それなら行きたいところ考えて今度は俺たちから提案しようぜ。名字が食べたいものだったり興味のある場所だったり何処でもいいよ。………みんなで行こう。」

2人で行こう、と言いたいのに言えないのはどうしてだろう。名字が横で頷いたのと最寄り駅に着くのは同時だった。機械音が鳴り響いて駅名を告げる駅員の声。

「衣更くん、降りよう。」

名字の声から寂しさは消えていなかった。