瀬名先輩はすぐに怒る。いや、でも最近はなんて言うか微妙に優しいのだけど私が恋人らしい雰囲気には未だに慣れないままでいる。だって!私の彼氏が瀬名先輩…?うわ〜!怖い!と夢を疑うレベルで会う度にパニックになっている。緊張してうまく話せないし…。ただし何かの拍子で機嫌が悪くなった時の対応にだけは自信がある。そこに自信がついても仕方ないのだけれど…。
瀬名先輩と呼ぶのをやめろと言われて努力はしたがまだ私は瀬名先輩と呼んでいる。最近はそれをやめろとは言われなくなった。恐らく私が瀬名先輩の機嫌を損ねた時にだけ泉さんと呼ぶのが気に食わないんだと思う。確かに自分でも調子よく見える。
まあ、私と瀬名先輩の関係はこんな風にほぼ変わらず、と言っていいだろう。

「ようこそ、名前ちゃん。」

石田さんが私の為に空けてくれたデスクに私を案内しながらそう言った。しかし私は抱えた荷物を自分のデスクを前に下ろせなかった。私の職場になってしまった場所に今更怖気づいているのだ。

「……?ど、どうしたの名前ちゃん。やっぱりうちでの就職やめるなんて言わないよね…?だって三年も待ったのに…!今更…!」

石田さんが青ざめていくので慌てて私は荷物を置いた。
石田さんが言っている三年とはつまり私は高校卒業後の進路を専門学校にしたからである。高校三年、専門学校一年生、二年生、そして今。まさか待っていてくれるとは思わず就職先を探す期間になった途端に瀬名先輩が忌々しそうな顔をしながら石田さんが私に会いたいと言っていると告げられた時には腰を抜かしたほどだった。松岡さんからもお誘いを受けていた私は就職先についてとても悩んだ。悩み抜いた末に洋服メインで仕事ができる石田さんの所を選んだわけだが一つ私が知らなかった事実があった。名字が違うので気が付かなかったのだがなんと松岡さんと石田さんは夫婦だったのだ!松岡さんが旧姓でデザイナーをしていたために分からなかった、という話のようだった。
ぱんぱんと石田さんが手を叩いたのでハッと我に帰る。

「まあ、気楽にやろうね。さて、早速仕事の話をしてもいい?」

「は、はい…!」

ノートとペンを慌てて用意するとじっと石田さんの言葉を待つ。石田さんは神妙な面持ちでいたがすぐにぶは、と吹き出す。

「あはは!そんな構えなくてもいいのに!」

「………、はあ。」

肩透かしを食らった私はずる、と脱力してしまう。

「はい、これ。」

ばさ、と資料を手渡されてそれを眺めてだんだん冷や汗が出てくる。あれ、これ。

「そうそう、Knightsのね。朱桜くんも卒業して再結成したじゃない?再結成して二年目の周?かな。それの記念ライブの衣装。」

心臓が口から出るかと思った。資料と石田さんを見比べる。

「あ、あの……こんな大きな……仕事…、わ、私で良いんですか…?」

「えっ、忘れちゃった?君が就職してくれたら最初の仕事は瀬名くんの衣装にしようねって言ったじゃない。それに君の実力ならそんな難しい仕事じゃないでしょ。ちゃんと僕は名前ちゃんの専門学校での成績も見てるんだから!ね、大丈夫大丈夫。」

それは覚えてるけど……と背中を押されてもなお小さく震える手に情けなく思ってしまう。私は二年間アイドルの衣装から離れていた。基礎の基礎を専門で学び直しどちらかというとドレス制作や普段着のデザイン、ネイルやメイクの学科も同じ学園内にあったのでそういうファッションショーに向けた制作が中心だった。正直に言おう。アイドル衣装のデザインが浮かぶかが不安だ。

「とりあえず今日の午後に顔合わせお願いね。まあ、顔合わせなんて言っても小さな同窓会みたいなもんか。みんな知ってるもんね。」

「は、はは。」

「メンバーの一人は彼氏だし。ひゅーひゅー。」

「な、なんですかその茶化し方…。」

話を変えるために慌てて 打ち合わせ場所どこですか?と聞くと言われた場所は少しだけ遠かった。今からでないと間に合わない。慌てて必要なものをだき抱えると事務所を飛び出した。



「遅い。」

「ひ、ひえ、瀬名先輩…。すみません…!」

予想外の人身事故で回り道をしたところ予定の時間を過ぎた到着になってしまったのを先輩は怒っている、訳では無い。どうやら私が瀬名先輩ではなくリーダーの月永先輩にその連絡をしたのが気に食わないらしい。ま、また小さなことで機嫌を損ねて…!

「まあまあセッちゃん、無事に来たんだからいいでしょう。それよりさっさと始めようよ。」

「あ、朔間くん。久々だね。」

「うんうん、俺と会えなくて寂しかったね。よしよし。名前は相変わらずセッちゃんにいじめられてるのかな…。」

すっと自然に朔間くんに抱き寄せられるとあやす様にして頭を撫でられる。いい匂いがした。朔間くんは香水とか付けないイメージがあるので素直に驚いた。

「ちょっと!やめてよ!」

瀬名先輩が怒ったのをゲラゲラ笑っているのを見る限り恐らく先輩をからかうために私をダシにしたのだろう。朔間くんも変わらないようでなにより…。

「今回のライブは豪華にやりたい!」

「は、はあ。豪華に…ですか。」

月永先輩が そう!と言いながらステージ画を描き始めたのを見ていたがあまりよく分からなかった。イラストの方の才能はあまり無いらしい。色々話し合いをした結果、学生の頃使っていたユニット衣装のアレンジ一着と新しい豪華な衣装を1着ということで話がまとまった。採寸はまた今度ということでとりあえず今回は解散になる。私が荷物をまとめていると先輩が声をかけてきた。

「ねえ、帰るよ。」

「…えっ。いや、私一度事務所に帰らないと…。」

「…じゃあ事務所まで送るし、何だったらこのあと仕事ないから駐車場で待つ。」

無言で見つめ合うこと数秒。先に逸らしたのは私だった。じゃあ…お願いします、と言うと立ち上がった。先輩の後ろを付いていきながら残ってた朱桜くんに手を振る。朱桜くんはにこりと笑うと優雅にお辞儀をしてくれた。なんていうか……そう…、すごく大人になってる…!

「せ、瀬名先輩。朱桜くんめちゃくちゃ大人っぽくなりましたね…。びっくりしちゃいました。」

「無鉄砲で猪突猛進なところはそのままだけどね。」

へえ〜、と相槌を打ちながら地下に停めてある先輩の車に乗り込む。なんだか先輩の車に乗るのは久々な気がした。そう言えばお互い忙しくてあんまり会えてなかったかもしれない。ちらりと隣を見ると目が合ってしまい慌てて逸らす。するとガッツリ頬を捕まれ無理やり先輩の方へ顔を向けさせられる。

「え、え!」

「あんたねぇ!久々に会ったって言うのになんなのそのよそよそしい態度!目も合わせないし!ちょっと会わないだけで俺の顔見れなくなるぐらいの関係に戻っちゃうの?」

「……ええと。」

「…そんなに俺に慣れない?」

もごもごと口の中で答えるが瀬名先輩が聞こえないと文句を言う。そうだろうそうだろう、先輩が私の頬を掴んでるから!ギブギブと先輩の手を叩くとやっと離してくれた。

「な、慣れないっていうか…。あの、ほんとに…、大袈裟な話、先輩を眩しく思ってまして…。視界に入ると…ま、眩しい…。」

「………意味が分からない…。」

はあ、とため息をつくと先輩は車を動かした。事務所の方向に向かいながら時折何かを言いたげにしているが一向に話しかけてこない先輩に私は自分から話しかけてみることにした。

「…あの〜、天気がいいですね。」

「………そうだね。」

終了。うう、どうしたら…。

「あのさあ。」

「え!はい!」

ぎゅうとハンドルに握った先輩が急に早口でペラペラと話し始める。

「あんたさっき俺の事眩しいとか馬鹿なこと言ってたけどそれって俺に全然慣れてない証拠じゃん。付き合って三年ぐらい経つっていうのにおかしくない?おかしいよねぇ。確かに最近…っていうか名前が進学してからお互いアホみたいに忙しくてほとんど会えない月の方が多かったしまあ、無理ないかなって思うわけ。」

「は、はあ…。」

「…今後はさらに忙しくなるだろうし、もっと会えなくなったりしたら、あんた俺のこと絶対忘れると思うんだよね。だから、その、……うちに引っ越してくれば?って提案をしたいんだけど…。」

思わず先輩を見てしまう。え?先輩の家に引っ越すの?誰が?私が?

「部屋余ってるし空間的にも余裕があるしあんたの事務所からも近いし悪くないでしょ。」

「…………え、あの、先輩のテリトリーに私が居ていいんですか…?」

そういうの嫌いそうなのに!潔癖っぽい先輩の家に私なんか上がり込んでいいのだろうか。ストレスになっちゃいそう…。

「私は今ここで踊りだしそうなぐらいには嬉しいんですけど先輩がストレス感じるようになっちゃったら申し訳ないっていうか…。」

「あんたが俺のこと見ない方がストレス。」

「え、あ!でも私片付けとかできないし…、ご迷惑かけちゃうかも…?」

「知ってるよそんなの。」

色々な私の不安は一つ一つ先輩が潰していく。もう何もなくなった頃に満足?と先輩に聞かれた。

「はい、満足…?です。それって毎日先輩に会えるんですか?」

「……泊まりのロケとかなければ比較的毎日会えるでしょ。」

瀬名先輩のいる、生活…!想像はつかなかったけどそれはきっと幸せな事だと思った。

「………先輩と一緒に暮らしたいです。」

「そう。じゃあ後で引越しの日程決めようね。」

先輩が珍しく優しい声を出したので驚いてしまう。びっくりした。ファンの子に話しかけるみたいな声だった。
しばらく無言でいたが次第に先輩との関係が大きな一歩を踏んだ、という実感が出てきて笑いがこみ上げる。

「ふふ、先輩。」

「なに。」

「さっき先輩が私が心配してること一個一個無くしてくれたのとても嬉しかったです。やっぱり先輩は頼もしいですね。」

「……当然でしょ。」

しばらくした後先輩も小さく笑った。ゆっくりだけど私たちは確実に近づいていて先に進んでる私はその実感がとてつもなく幸せなのだ。
窓の向こうには事務所が見えてきていた。