今日何時に終わる?

そう連絡が来ていたのは三時間前だった。私はその事実に低い声で唸るとスマートフォンをデスクにぶん投げて泣いた。

定時を少しすぎた時だった。
今日は珍しく残業が不要な程 穏やかで早めに帰るぞ〜!と仕事を全てやっつけ、部長と軽く明日の仕事の打ち合わせをし帰ろうかと支度をしていた。コートを着ながらタイムカードを押そうとした瞬間、悪魔が狼狽えながら入室してきたのだ。

「す、すみません…!僕らの部署でミスがあって至急資料の内容の修正をお願いしたいのですが…!」

よかった、人が残ってた!と言いたげな他部署の後輩が半泣きで大量の資料を私たちに見せた。絶望をした私は更にその色を濃くすることとなる。先程の打ち合わせの雑談で心底嬉しそうに「今日は娘の八歳の誕生日でさ、久々に家族で外食をするんだ。さっき予約したんだよ。娘がすごい喜んでるみたいでさ、残業なくてよかった!」と部長が話していたのだ。ちら、と部長を見ると私より更に絶望した表情でどこかに連絡をしようとしている。私は慌てて後輩に声をかけた。

「これって三時間半ぐらい時間もらっても大丈夫ですか?」

「大丈夫です…!本当にすみません…」

私は部長の腕を掴んで「これ私が対応します。部長は娘さんのところへ行ってあげてください。誕生日の思い出は後々関係に支障出たりしますから…。」と項垂れる。心と言葉は一致していないが今日ばかりは仕方がない。八歳の誕生日は今日しかないのだ。私の気持ちをきちんとわかっている部長は本当に申し訳なさそうに私へのお土産の約束して帰っていった。

「さてやりますか。」

腕まくりをして子犬のように震えている後輩から資料を受け取る。



「お、終わった!!!」

時計を見るともう日付の変わる直前だった。後輩に内線で終わったことを伝えるとすごい勢いでやって来て頭がちぎれるのではないか?というほどお辞儀をして出て行った。嵐のようだった。
ああ、もうほんと…。次の電車の時間はいつだ?とスマートフォンを手にして冒頭に戻る。
今日何時に終わる?と短く来ていた連絡に私はデスクに突っ伏した。なずなくんだ。もう一ヶ月も会えてない彼氏からの連絡に全く気がつかなかった。こんなことってある?
私は職業柄今日のように急に残業が多いし、なずなくんはアイドルのお仕事で忙しい。一ヶ月会えないことだって普通だ。だからこそ連絡は早く返したい。なのに三時間も放置した。最悪だ。死にたい。
突っ伏したままスマートフォンをいじる。今終わったところ、と返して大きめのため息を漏らした。あ〜あ、疲れたなあ、なずなくんに会いたいな。

電車に乗り込むとこんな時間なのに混み合っている。奇跡的に座れたところでやっと気持ちが落ち着いた。
この時期の電車は心地よい。足元やお尻まで暖かい。みんな、今日もこんな時間までお疲れ!暖かいお風呂入ってぐっすり寝て明日も働こう!!はは、はあ…。
いつの間にかウトウトしていたようでハッとあたりを見ると「◯◯駅〜、◯◯駅〜。お降りの方は〜、」とおっとりしたアナウンスが流れている。最寄駅だ、と認識した瞬間転がり出るようにしてホームに降り立った。あぶな、と胸を押さえ息を整えながらポケットにあるはずのICカードの存在を探す。ちら、とホームの時計を確認して夕飯はどうしようかなとぼんやり思った。コンビニ寄って帰ろうかなと不健康を促進させる選択肢を頭の中に浮かべる。

「(あれ、)」

改札の奥の方に見知った姿が見えた気がした。え、と足が止まる。
大きなマフラーが鼻まで隠れているが鼻も耳もリンゴのように赤くなっているのがわかる。赤くなっているのは寒いからだろう。細やかな金髪が蛍光灯に反射していて不思議なほど綺麗だ。小柄な体がもこもこと着膨れしている。圧倒的に可愛いのが遠目からでもわかる。え、うそ、本当に?
ぱち、と視線がかち合ってその人はイタズラ成功、と言いたげに口角を上げた。

「なずなくん…?」

一瞬幻かと思ったが小さく手招きしてるのはやっぱりなずなくんで混乱しながら改札を抜ける。

「え?本当に?Ra*bitsの?仁兎なずなくん…?」

「あはは、確認の仕方が独特だなあ。……どうだ?びっくりしただろ?来ちゃった!あ、ちょっと部屋に上がらせてもらったけど大丈夫だったか…?」

確かになずなくんに合鍵を渡しているのでいつでもいらしていただいて大丈夫なのだが…。

「え!!どうしたんら名前!?」

ぼろぼろと涙が出てきてしまって止まらない。なずなくんだあ、と私が呟くとなずなくんがちょっと笑って帰ろう、と私の手を引いてくれた。

「なずなくん、私コンビニ行かないとご飯ない…」

「そうだと思ってキッチン借りた!簡単だけど炒飯、用意してるんだ。に〜ちゃんシェフが愛情込めて作ったから早く帰って一緒に食べような…♪」

「う"ん"…」

幻かと思ったなずなくんが実在して今私の手を引いていることがまだ信じられなくてもこもこした後ろ姿と後頭部を眺める。やっぱりなずなくんだ。再びじわじわと視界が滲んでいく。

「あ、そうそう名前!お仕事、お疲れ様!」

ど深夜なのに昼間か?と思うほどに明るい笑顔はじんじんと私の心に沁みる。ああ、神様仏様なずなさま…。私は今猛烈に感謝の意を表したい…。

「ねえ、なずなくん。やっぱりコンビニ寄っていい?」

「あれ?何か足りないのあったっけ…?今日お泊まりする予定だからちゃんと確認して出て来たけどちゃんと名前の部屋におれの歯ブラシとか着替えとかあったぞ?何買うんだ?」

「Ra*bitsとコラボしてた野菜ジュース買い占める…」

え!?となずなくんが素っ頓狂な声を上げたところで私はやっと笑えたのであった。