マンション正面玄関のロックを解除した時、ふと腕につけている時計が目に入った。二つの針が告げる時間は22:35。見やすい文字盤が気に入って買った時計だというのにその文字が掠れて見える。おそらく疲れと眠気が原因なのだろう。
 明日以降のことを考えれば、ここまで体力を削ってしまう練習など言語道断だろう。しかし、チームに欠点が見つかった以上それを捨て置くことなど許されないのだ。それが主将として、また勝つことのみを義務付けられた僕の責任。

「名前は心配しているだろうな……」

 乗り込んだエレベータに自分の独り言が響く。そう呟いた瞬間、自分自身の違和感にふと気が付いた。
 心配しているだろうとは、心配していてほしいという自分の希望の裏返しだ。そんなのおかしい。どうして僕はあいつに心配していてほしいのだろうか。
 考えてみればおかしいのは今に限ったことではなかった。
 友好な対人関係、もしくは利用しやすい世話係を作るのなら、あいつにだって偽ってでも優しくしてやるのが一番のはず。それなのに、何故か無意識に自分の隠すべき本性がこぼれてしまうんだ。
 それは全てあいつのせいなのだろうか。そう推理したところで、エレベーターが家へと到着した。
 リビングのドアを開けた瞬間、驚きと喜びが混ざったような顔の名前が、まさに犬みたいに駆け寄ってきた。

「赤司くん!」
「……ただいま」
「こんな遅くまで一体……って、酷い顔! 死人みたいにげっそり!」
「キミは言葉をオブラートに包むことを知らないんだね……」

 一目見ただけで疲れているとバレてしまうほど酷い顔をしているのだと気が付く。
 ただ、さっきまでどんよりと沈んでいた心が名前の顔を見た瞬間に軽くなったのは一体どういうことだろう。

「えっと、お疲れ……ですよね……。食事はどうしましょう? 先にお風呂に入りますか?」
「済まないけど食事は遠慮しておく。明日食べるから冷蔵庫にいれておいて……。僕はシャワーを浴びてくるよ。少しでも早くベッドに入りたいんだ……」
「わ、わかりました……」

 今日は疲れすぎているんだ。だからこそ、いつも以上に名前が気になっているのだろう。
 シャワールームに入ると、自分の頭を冷やすように冷水を浴びた。


******


 風呂から上がり、ソファーに全体重を預けるように深々と座る。一瞬でも気を抜いたら、このまま眠ってしまいそうな気がした。
 だが、それを忘れさせるように名前が僕のマグカップを差し出した。

「これは……?」
「豚肉と野菜のスープです。さすがに何も口にしないのはよくないかなって思って作ってみたんですけど……」

 名前は眉を八の字にして僕を見ていた。この表情はきっと僕を心配してくれている。そういうことだろう。
 特段、断る理由なんてなかった。差し出されたカップを受け取ってスープを口にすると、野菜の甘みが出たスープの温かさがゆっくりと全身に広がって、自然と安堵の溜息が零れた。

「ん……、美味しい……。豚肉に含まれるビタミンB1は疲労回復に役立つ。それを知って作ってくれたんだろう?」
「赤司くんには何でもお見通しですね」
「まあね。ねぇ、隣、座って?」

 また一つ、等身大の僕の本音が口から出ていった。
 ここで名前を隣に呼ぶ必要なんてどこにもないのに、理論的な思考じゃ割り切れない感情がどんどん先走る。
 ぎこちなく僕の隣に座った名前はこっちを見ようともしなかった。その代り、僕だけに視える心拍数の上昇が彼女の緊張を物語っている。
 可愛い。それが僕の素直な感想だった。
 こうやって自分に素直な気持ちのまま名前と接してみたらどうなるだろう。そんなことを考えながら、緊張する彼女に近づいてその肩に寄り掛かった。

「あ、あ、赤司くん……?」
「なんだい?」

 嫌がる素振りを見せない彼女の心臓の動きはますます早くなっていく。

「少し、疲れた。だから、しばらくこのままでいて」
「…………」
「この前の練習試合でチームの弱点が見つかってね。それを直そうと練習していたらこんな時間になってた。洛山が……僕が負けるなんてあってはならないから……」

 何も知らない彼女にこんな話をしたって、意味がわからないと思われるだけだ。わかっているのに、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ口の動きを止められなかった。

「いいですよ…しばらくこうしていて。私には何も聞いていないし、見てもいない。だからその……、無理しないでほしい、です」

 こう言った名前の声は微かに震えていて、なにかきっかけがあれば泣き出してしまうような気がした。それを必死に耐えながら僕を気遣ってくれた名前は優しい。
 きっとこの優しさのせいだ。そうに違いない。名前が持つ優しさは、本来の僕を受け止めてくれる。受け止めて欲しい。
 そんな名前の優しさにつけこむような願望が、僕を少しずつおかしくしているのだろう。

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