優しい声が私の名前を呼んだ。姿は見えないけれど、この声が誰のものかなんて、すぐにわかった。あぁ、これは銀さんの声だ。どうせならこのまま、銀さんの居る夢の世界へと身を沈めてしまいたいと、温かいまどろみの中でふと思った。

「なまえ……」
「ん…」

再び銀さんの声がした。私は目覚めたくないと拒むのに、その声は私を現実の世界へと引き上げるかのように、はっきりと名前を呼んだものだから、仕方なく目を開くと、霞んだ視界の真ん中に一つの顔が浮かび上がった。それと同時に大きくて骨張った指が私の髪を梳き、顔の輪郭を撫で、頬をそっと包み込む。その時に鼻をくすぐった香りは、すぐさま私の脳みその中にある、あの人の記憶と結び付いた。

「銀…さん……?」

目を擦ってクリアになった視界で捉えたのは間違いなく坂田銀時だった。状況を把握しきれない私に、彼は柔らかく微笑みながら、ただいま、と囁いた。未だに私は夢の中に居るのだろうか。そう疑いながらベッドから上半身を起こすと、そこに浅く腰掛けていた銀さんの頬に恐る恐る手を伸ばした。その指先が銀さんの身体をすり抜けてしまうなんてことはなくて、指先からしっかりと彼の温もりが伝わってきた。お帰りなさいの言葉を噛み締めるように伝えながら彼の背中へ手を回すと、厚い胸板に額を押し付けた。力強よく抱きしめ返してくれる腕が、喜びと安心から泣きじゃくる私の背中を優しく摩ってくれた。

「ごめんな、心配かけて…」
「う…ん……」
「寂しい思いさせちまったよな…」
「うん……」

寂しかったよ、と小さく頷いたものの、数秒後に私は直前の言葉を否定するように銀さんから身体を離した。寂しかったのも事実だけれど、そんな私を支えてくれた存在がいたのだ。きっと布団の中に隠れているだろうと毛布をそっとめくってみると、昨夜一緒に眠ったはずの白猫さんの姿はどこにも見当たらなかった。慌てて寝室からリビングへ駆け出したものの、そこにもあの白猫さんの姿はない。

「どうしたんだ?」
「居ないの…」
「は?」
「白猫さんが…、居ないの…」

机、ベッドの下、ソファーの上、台所、洗面所。どこを探しても、結局白猫さんは見つからなかった。一体何処に行ってしまったのだろう。窓はちゃんと閉まっているし……。しばらくして、ふと疑問に感じたことはごく当たり前のことだった。その疑問を晴らすべく、私はソファーに座っていた銀さんの隣に腰掛けた。

「銀さんはどうやって家に入ったの?」

合鍵を渡しているわけでもないし、と言葉を付け足すと、彼は真っ白でふわふわな髪の毛をボリボリと掻きながら、素早く目を逸らした。

「あー…、それは…だな…」
「……?」
「お、お前、玄関の鍵がかかってなかったんだぜ?」
「は?」
「入ってきたのが俺だから良かったけどよォ。いくら真選組といえど、女なんだから気をつけねーと危ねェじゃねーか」
「ちゃんと鍵閉めたもん!」
「本当にか?」

そのように言われてしまうと、もしかしたら私の不注意があったのかもなんて思えてきてしまって、だんだんと反論する口調が弱々しいものになってしまう。うーん、と唸りながら俯いていると、銀さんが私の頭をポンポンと叩いた。

「もしかしたら、俺が入ってきた時に逃げちまったのかもな」
「そう…なのかな…」
「きっとよォ…、」
「ん……?」
「アイツは放っておけなかったんだよ、独りで悲しむなまえのことが心配で。けど、俺が帰ってきて、もう大丈夫だって思ったんじゃねーの?」

白猫さんと、ちゃんとしたお別れができなかったのがすごく心残りだ。また何処かで会えるかもしれないと若干の期待を持ちつつ、私は、銀さんの言葉を肯定するように頷いた。

「なぁ、お前、今日仕事だろ?」
「え…?あぁっ…!遅刻しちゃうっ…!!」

銀さんに言われて時計を見ると、仕事開始まで30分を切っていた。仕方ない、今日は朝ご飯抜きにしよう。土方さんに怒られるよりましだもん、なんて思いながら最低限の身支度を整えると、私は銀さんと共に家を出た。
屯所と万事屋への分かれ道で、銀さんは、気をつけろよ、と言いながら私をギュッと抱きしめた。人前で恥ずかしいと思う反面、再びこうやって銀さんに抱きしめてもらえる今この瞬間が幸せだったから、私は言葉の代わりに爪先立ちのキスで返事をした。

「それじゃ、行ってきます!」
「なまえ、」
「ん…?」
「お前さ、しゃがむ時はスカートに気をつけろよ?」

屯所に向かって数メートル走り出した私の背中にかけられた銀さんの声に、私は自分の隊服のスカートを気にしながら振り返った。そんなに短くないのにどうしてだろう、と首を傾げて疑問を表すと、遠くの彼はニヤリと笑いながら、猫目線だとパンツ丸見えだぜ?と、辺りを気にしない大声で言った。
猫目線ってなによ。普段ならそうやってツッコミを入れているはずだったけれど、今回はその言葉にドクンと自分の心臓が大きく跳ねた。やはり、私は玄関の鍵をちゃんとかけていて、白猫さんは何処かに行ってしまったわけではないのではないか。そんな推測が、高鳴る鼓動と共に確信へと変わっていった。停止しかけた思考回路を必死に働かせて、どういう意味なのか真相を訊ねようとしたのに、ひらひらと手を振った銀さんの背中は、あっという間に曲がり角の向こうへと消えてしまった。

「ありがとーっ!!」

どんな時も、どんな姿になっても、ずっと私の隣に居てくれて、本当にありがとう。ありったけの大声で叫んだこの気持ちは、きっと彼に届いているはず。俄然やる気の出た私は、雲一つない青空から朝の新鮮な空気を肺一杯に吸い込むと、あと10分で仕事が始まる真選組屯所へ向かって走り出した。

Fin.
  mokuji  
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