「お嬢様、明日は真選組の方達がお見えになるのですから、早くお休みになって下さいね」 「……」 自室と呼ぶには広すぎる畳の部屋。その襖越しに聞こえた女中のお節介な声に溜息一つぶんの間を置いてから「わかりました」と応えると、庭に面した障子を開けて縁側へと足を進めた。障子を開けた瞬間、夜のひんやりとした空気が鼻から肺へと染み込む。二酸化炭素を吐き出しながら空を見上げると、チカチカと赤色の光りを点滅させながら米粒ほどの大きさの船が頭上を通り過ぎていった。 「ターミナル…、」 船がやって来た方向に視線を動かすと、夜にも関わらず輝きを失わない一際大きな建物があった。今の船もあそこから飛び立ったに違いない。様々な星からやってくる天人がそこにはたくさんいると、幼い頃にお父様から聞いたことがあるけれど、実際に足を運んだことはなかった。 薬問屋として財を成した旧家の一人娘。たったそれだけで、一人で外を歩くことも、自由に友人を作ることもできないのだ。だから、エリート、または裕福だと自称する人間が選りすぐったゴミ屑ほどちっぽけな世界しか私は知らない。「行ってみたいな…」と呟くも、その言葉は自嘲と共に夜空に消えてしまった。 もう寝ようと思い障子に手をかけると、背後から砂利を踏み締める音と、嗅ぎ慣れない紫煙の香りがした。 「行けばいいじゃねーか。なんなら、俺が連れていってやろうか?」 「っ……?!」 砂利が敷き詰められた広い中庭に、ゆらりと立っていたのは、着流し姿に煙管、そして闇夜にギラリと光る鋭い瞳の片方を包帯に隠した男だった。男から殺気は感じないけれど、あまりの異様さに私は息を殺しながらその男を睨みつけた。 「貴方は一体……?」 「ちょいと散歩、だ」 「こんな遅くに不法侵入までして…ですか?」 私の質問に男は答えることなく、ふぅ、と紫煙を夜空に吐き出すと、さも当たり前のように私の立つ縁側へと腰掛けた。「屋敷の者を呼びますよ?!」と、私の脅し文句にすら、ただ喉でクツクツと楽しげに笑うだけで、動じる様子など一向に見せない。「暇してたんだ。少し付き合え」と、私に向けられた瞳にはやはり殺気などないけれど、おそらく恐怖からなのか、その言葉に逆らうことはできなかった。私は唇を一文字に結びながら男からやや距離を置いた場所に正座をした。 「いっちょ前に俺を警戒しやがって…」 「貴方、名前は…?」 「……」 「包帯男さん、って呼ぶわよ」 「……高杉」 「それは本名…?」 「俺ァ、法螺なんざ吹かねーさ…」 掴み所のない男、それがこの高杉という男の第一印象だった。ゆらりゆらりと紫煙みたいに、確かにそこに居るはずなのに、どこか安定していない。加えて、彼の左隣に置かれた黒い刀も気になった。廃刀令が出されて以来、一般人の帯刀は許されていないはずだ。それにもかかわらず刀を持っているということは、高杉さんは幕府に関係を持つ偉い人なのだろうか。疑問を持った私は、彼への恐怖を忘れて質問を投げ付けていた。 「ねぇ…、高杉さんは何をしている人なの…?」 「てめぇはさっきから質問ばっかだな」 あからさまに不機嫌を顔に浮かべた高杉さんに、「不法侵入している人が文句を言わないで」と口を尖らせて反論すると、彼は少しだけ口元を歪めて面白そうにこちらを見た。 「な、何笑っているのよ…」 「いや…。立派な家に住んでるお嬢様でも、そんな表情すンだな、と思ってよォ…」 「なっ…、それは貴方のせいで…!」 「俺ァ…、そうだな…」 「もう、話を聞きなさいよ…」 「世界を壊してる途中だ…」 「は…?!」 私は笑い声をあげてしまいそうになるのを堪えるために、太もも辺りの浴衣をキュッと握りしめた。冗談なんて口が裂けても言えないような顔をしているのに、その口から世界を壊す、だなんて信じられなかったのだ。私が「おかしな人ね、高杉さんは」と言うと、彼は無言のまま煙管を銜えて立ち上がった。 「じゃあな…」 「えっ…?」 「足音がする。また会いに来てやらァ…」 「ちょっ…、高杉さ…」 高い塀を難無く飛び越えて、高杉さんの姿はあっという間に見えなくなってしまった。紫煙の香りと、次はターミナルの事を教えてやるよ、と囁いた言葉。この2つだけを残していったあの人は、本当に何者だったのだろうか。 眠気をすっかり削がれてしまった私はもう少しだけ空を眺めるため、しばらく縁側に残ることにした。 飛べない蝶々あの人は、この広い世界をどれだけ知っているのだろうか。 |