手中の命

ほんの数分前まで静かだった船内は人々が走り回る音ですっかり騒がしくなってしまった。その理由は、おそらく、外出していたこの船の主が戻ってきたからだろう。あと数分でこの船は江戸を発つのだ。

「お帰りなさい、晋助…」
「……」

部屋に入ってきた船の主は、鋭い視線をこちらに投げながら小さく息をしただけで、私の呼び掛けに対して返事をすることは無かった。
彼に視線を向けていた途端にガタンと音がして、ゆっくりと船が浮き上がる。私は無言の晋助を特に気にすることもなく、徐々に小さくなっていく眼下のターミナルを眺め続けた。

「名前、」
「ん…?…んあ…くッ!!」

再び地上に降りた際には新しい着物を買いに行こう、なんてアイディアは晋助に名前を呼ばれると同時にシャボン玉みたいにパッと消えてしまった。なぜなら、晋助の冷たくて大きな手が片方、私の首を楽々と掴んでいたから。その手に力はこもっていないけれど、喉笛をほんの少し圧迫されて、どうにも息がしにくかった。ちょっと待って。そう掠れた声を上げ、その手を剥がそうと柔らかな皮膚に爪を立ててみるものの、離してくれる気配はまったくない。
これは恐怖なのだろうか。ぞわぞわと何かが背中を這いまわる感覚に肩が竦み、心臓は破裂してしまいそうな程に悲鳴を上げていた。

「今日…俺は何人殺したと思う?俺ァ、この手でお前だって殺せる」

晋助は吐息で低く呟いた。無意識に歪んでしまう視界で見上げる鋭い隻眼。それは、いつも冷さと鋭さを湛えていて、けれど、たまに、本当にたまにだけど温かさを覗かせることもある。今日の彼の瞳は何を語っているのだろうか。

「寂し、い……の?悲…しいの?」

率直な感想を途切れ途切れに問うてみると、どうだろうな、と惚けるみたいに、または何かを嘲笑うみたいに、彼は小さく喉を鳴らしてクツクツと笑った。そして、彼が肩の力を抜くように目を伏せると、ようやく喉元にあった手は離された。早く酸素が欲しい。そう脳みそが考えるよりも早く、肺が大きく空気を取り込んでいた。
自由に息ができるということは安心できることであったらしく、私がふぅと息を零して胸を撫で下ろしていると、突然晋助は不規則な船の揺れに乗じて、私の身体を自分の胸の中に引き寄せた。
口を閉ざしたままの彼は今、私に何を求めているのだろうか。それを考えた私は、晋助に全体重を預けて広い背中に手を回すと、風邪をひいてしまうのではないかと心配になってしまうほどに薄手の着物をきつく握りしめた。

「しばらく…、このままでいろ…」
「はい…」

小さく頷くと、晋助は私に縋りつくように腕に力を込めて、首筋に顔を埋めた。
ふと気が付くと、私の心拍数は徐々に落ち着いてきていた。それは、彼の胸に耳をあてると微かに聞こえてくるもう一つの心音と同調していく。「溶け合う」今の私達にはそんな言葉がぴったりだと、そう感じた。

手中の命
ただ一つ、この命だけは護りたいと

Fin.

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