深夜の0時を過ぎた頃、退は片手に盆、片手に菓子の袋を携えて台所を後にする。盆の上には、ソーダとコーラを並々に注いだグラスが各々ひとつずつ乗せられていた。それから菓子を持った方の、自由になる指だけで台所とリビングの電気を消すと、未だ明かりの残る廊下へと足を向ける。そこはひどく静かだった。

 そしてあまり長くもない廊下の中程にある両親の寝室の前で、念の為と耳を澄ましてみたが、活動をしているらしき物音は一切入らない。きっともう、二人とも寝てしまったのだろう。確信を得て安堵した退は再び足を進めた。

「……っと、危ない危ない」

 何の障害もない場所にも関わらずうっかりとふらつき、危うくグラスを傾けてしまいそうになりながらも自室まで辿り着いた退は、器用に肘を使って扉を開け、まるで己の部屋であるかのようにそこで寛ぐ人物に明るく声を掛けた。

「お待たせ、お菓子とジュース持って来たよ」
「あん? 遅いじゃねーか、待ちくたびれたぜ」

 嬉々として笑みを浮かべた金髪の男は退の双子の弟であり、名をジミーといった。少々変わった名前だが、当然双子の兄である退と同じく純日本人である。彼自慢の金色の髪も、ただ個人の趣味で染色したに過ぎなかった。

 退が扉を閉めて歩み寄ると、ジミーはそれまで寝かせていた体を起こして両方の掌を擦り合わせる。


 まだ高校生の二人にとって、深夜というのは大人しく寝てしまうにはあまりにも勿体無い時間であったし、そんな時間に、しかも両親には隠れて口に運ぶ菓子は格別なものだった。
 それは同年代の人間と比べると少々子ども染みているかもしれないが、生活習慣は正しく在るべきだ、と口うるさい両親を持っていたので、尚の事そう思うのかもしれない。


「ジミーはソーダとコーラ、どっちが良い?」
「俺はコーラ」

 床に膝をついた退がローテーブルの上に盆を置くと、早速とばかりにジミーの手指がグラスをひとつ拐っていく。眺めていた兄はそれに不満を零す事も無く、持っていた菓子の袋も盆の隣に添えた。

「お、ポテチのしょうゆマヨじゃねェか」
「ジミー、これ好きだろ?」
「ああ。食おうぜ」

 退より幾らか不器用なジミーの指先が菓子の封を切り、先に一枚味わってから袋をテーブルに戻す。続いて退も一枚取り上げ、それを口に咥えると、傍に置いていたティッシュで手指を拭ってから床に放置されているコントローラーに手を伸ばした。

「今日は負けないからな」
「誰が退に勝たせてやるかよ」

 テレビ画面には流行りの格闘ゲームのタイトルが映し出されている。退がスタートボタンを押して画面を進むと、慌ててジミーも色違いのコントローラーを握った。心なしか二人の表情は綻んでいる。

 キャラクターを選択する折に退は高身長で程良く鍛えられた体の男を、ジミーは筋肉質の雄々しい男を選び、いよいよ二人が待ちかねた時に迫った。画面が読み込み中を示している間に、ジミーがコーラを手に取り口内へと流し込む。

 ちらりと退の様子を窺うと意気揚々とテレビを眺めていた。楽しみの前に高揚しているのだろう。

「あ、そうだ。ジミー、聞いた? お隣さん引越して来たらしいよ」

 画面の向こうで試合が始まった時、おもむろに退が口を開いたのだが、その声にはあまり感情が込もっていない。どうやらゲームに夢中になって、そちらに意識を奪われているようだ。

「へえ、会ったのか?」
「ううん、ジミーが帰って来る前に母さんが言ってた。昼間に挨拶に来たんだって」

 ふーん、とジミーが気の無い返事をする。彼にとって、さして興味のそそられる内容ではなかったのだという事は容易に推測がついた。



 二人とその両親が住む部屋は団地の一角に建つ賃貸マンションの一室であり、その隣は長らく空き部屋となっていた。退が母から聞いたのは、今日そこに引越してきた一家の姓は“土方”である事と、自分達と同じ歳の息子が居る事、そしてその息子が随分と整った顔立ちをしているという事だ。

 退がそれらをジミーに伝えても、やはりあまり興味を示す様子はない。しかし返答を怠らない辺り、聞く気が無いという訳でもないらしい。



 そして肝心の対戦結果と言えばどうだろう。テレビ画面の左端にはガタイの良い男が倒れ、尚且つその頭上に“loser”と表示されている。つまり珍しい事に、この試合の勝者は退であった。

「……煙草、」
「え?」
「煙草吸ってくる!」
「はいはい、どーぞ」

 今まで負ける事は滅多に無かったぶん、余計に悔しかったのだろう。自棄になった口調で告げたジミーはコントローラーを投げ出すと、ローテーブルに置いていた煙草とライターを手にベランダへと出て行く。

 弟の負けず嫌いを理解している退はそれを止めはしなかった。一本吸えば気が済んで戻ってくる事もよく知っていたからだ。
 更に言えば、ジミーが喫煙をしている事は身内の中で退だけが知っている事である。大人が知れば説教を受けるであろう事は、ジミー本人もよく分かっていた。それが怖い訳では決してなかったが、面倒事は極力避けたいと、そう思っていたのだ。


 それから十分ほど経ち、兄の読み通りに金髪は機嫌を直して戻ってきた。鼻歌をも歌いだす始末である。

「どうしたの、なんか良い事でもあった?」

 あからさまに上機嫌な姿を見て問いかけると、ジミーは顎でベランダの方を指し示す。カーテンの合間から見えるのは、何の変哲も無い夜空だけだ。それがどうしたんだ、と退が尋ねると、ジミーは得意気な表情をしてみせた。

「見たぜ、隣のイケメン」

 彼曰く、ベランダに出て煙草を吸い始めた時にすぐ隣でサンダルを擦るような音が聞こえたそうだ。大人に煙草が見付かって、自分の両親に告げ口でもされたら堪らないと慌てて火を潰そうとした時、例のイケメンと思われる男に話しかけられたらしい。俺にも火をくれねェか、と。

 そして少しの談笑の中で、その男が双子と同じ高校に転入する予定なのだという事を告げられた。

「悪い奴じゃなかったぜ」
「へえ、同じ学校か。顔合わせるの楽しみだなァ。……で、お隣さんの名前聞いてきた?」
「あー……えっと、聞き忘れちまった」
「勿体無い、折角会えたのに」

 悪い悪い、とジミーが片手を顔の前に縦にかかげて謝罪を述べると、小さく笑んだ退は再びコントローラーを構える。視線のみで軽くジミーの手元をさして、早く、と行動を急かすのだった。

「続き、やるだろ?」
「おう、次こそ負けねェ」

 意図を把握したジミーが同様に構え、退を一瞥する。その双眸の所作を合図に退の親指がスタートボタンを押すと、画面の向こうでは再び戦闘開始を知らせる字幕が流れた。