ちらりと時計を一瞥すると、それはいつの間にやら深夜の二時を指し示している。卓上に残った書類の処理には、ざっと見積もってもあと数時間はかかるだろう。

 ――この作業を始めてからどれくらいの時間が経っただろうか。回らない頭ではそれを考えるのすら億劫で、容易く思考を放棄して書類の山に埋もれた煙草を探し始めた、その時だ。

「副長、山崎ただいま戻りました」

 些細な前触れもなく届いた一言は、俺の手をとめさせるには充分なものであった。

「入れ」

 小さな音ひとつ立てる事なく静かに襖を開いた山崎は、未だ仕事の緊張感を張り詰めさせているのか一切の気配を感じさせない。そっと身を室内に移したであろう頃合いを計らい俺が体ごとそちらを向くと、いつになく鋭く眼光を光らせている部下は既に出入り口さえ閉じており、更に俺から数歩分ほど後ろで脚を正座に組んでいた。

「例の呉服屋、クロでした」
「……そうか」

 感情の無いような、事務的とも受け取れる淡々とした声色で山崎は告げる。任務直後のコイツはいつもこうだ。普段のような能天気さもふてぶてしさも、微塵も感じさせない。まるで別人のようだった。

 ふと目を凝らしてよく窺えば闇色の忍装束はところどころ乾いた赤に染まっているのだが、当の本人には怪我を負った様子など見受けられない。つまり衣服を汚すそれは他人の血液であり、更に言えば俺達が出るまでも無くコイツ一人でこの一件を片付けてきたという事だ。

「今回は何人だった」
「店主とその嫁、それと裏で店主と客の取り継ぎ役として動いていた若い男を一人」

 それからしばらく山崎は続けた。
キナ臭い浪士が潜入中に幾度か店を訪れた事。店主の部屋から証拠品として裏帳簿をくすねてきた事。若い野郎は殺すまでも無いほどに気の小さい人間であったが、目的を遂行する上で邪魔になったため手に掛けた事。

それらを臆する様子も無くさらりと述べる姿に、毎度の事ながら寒気を覚える。

「……副長? 聞いてます?」
「え、……ああ、ご苦労。今日はもう下がって良いぞ」

 しかし山崎は退かなかった。そして良ければ落ち着くまでこの部屋に置いてくれませんか、という言葉に何故だか俺も頷いてしまった。仕事さえどうにかなるのなら一刻も早く床につきたいと、この男が帰って来るまでは確かにそう思っていたはずなのに。





 背を向けて書類の整理を再開させる俺の後方で、山崎が深く吐息を零す。疲れからのものではなく、どうやら安堵から出たものらしいという事は勘で分かった。ようやく緊張が解けたのだろうか。

「脚、崩せよ」
「え?」
「デカい仕事で疲れて帰って来た時くらい俺に気ィ遣うな」

 だけど、と否定を紡ぐ山崎の名を呼ぶと早々に観念したのか、以降は唇を結んだように黙り込む。深夜とあってか筆が紙の上を走る音以外に鼓膜を擽るものはなく、慣れない空気に居心地悪そうに山崎は口を開いた。

「ねえ、副長」
「…………」
「副長」
「…………」

 仕事にかまけて応答しない俺を見て思案するように少しの間黙り込み、そうして再び普段の柔らかな声音で呼び掛けるのだった。

「――土方さん」

 思わずぴたりと手を止めると、それに気付いた山崎の嬉しそうな笑い声にむず痒い感覚を覚える。

 手中の筆の先を硯(すずり)に運び墨を纏わせた時、背中にそっと温かなものが触れた。山崎の掌だ。
背筋をゆっくり撫で上げて、それでも何も言わずに好きにさせていると、両の腕を腹部に回してその身を寄せた。

 書類に署名をする手を止めないまま、もう一方の掌を山崎の左手の甲に触れさせる。腕の力が僅かながら強まった気がした。

「ただいま、土方さん」




/変わらないその光で