眠れない夜というのは誰しも少なからず経験しているものだ。それだけでも充分に厄介だというのに、一度眠れない事に気付き、更に“眠りたい”と意識してしまうと余計に眠気が遠退いていくように思える。経験上、恐らく気のせいなどではないと思うのだが、いま沖田にとって問題なのはそのような事ではない。全くと言って良いほどに睡魔が姿を現さない今、とある人物の顔を見に行くか否かと考えあぐねていたのだ。

 明日、その人物は非番であったと記憶している。今夜男の元へ訪ねても、恐らく己が寝不足の原因を作る事は無いだろう。そうでなくとも、男が日常的に沖田に甘い事を、沖田本人もよく知っていた。承知の上で睦言に付き合わせているのである。そしてその度に、男に比べれば己はまだまだ子どもであるという事実を思い知るのだった。

 しばらく悩んだのち、沖田は布団に寝かせていた上体をゆっくりと起こす。利き手で緩く頭部を掻きながら、ぽつりとその男の名前を口にした。

「――山崎」

 以降は声を洩らす事なく布団から抜け出し、ゆっくりとした足取りで静まり返った廊下を歩む。目的地はもちろん山崎が使用している部屋であった。

 山崎が既に寝ているようなら一目見て自室に戻ろう。そう心の内で呟いている間に、目的地はいよいよ突き当りの向こうと迫った。

 しかし沖田は気が付いた。いま足を止めた己の、まさに目の前の部屋に明かりがついている。そこは考えるまでもなく、監察室の前であった。

「あの野郎、まだ仕事してらァ」

 やれやれと溜め息をこぼしたのち、断りなく開いた部屋で一人執務をこなしていたのは確かに山崎だった。その部屋に居るのが何故山崎だと分かったのかは、残念ながら沖田自身にも分からなかった。強いて言えば、なんとなくそんな気がしただけだ。

「うわっ、……びっくりした。こんな時間にどうしたんですか、沖田隊長」
「こんな時間にどうしたはこっちの台詞でィ」
「俺はこの通り、報告書の作成中で」

 山崎が筆を持ち上げてみせると、沖田は「へえ」と気のない返事をしつつ後ろ手に襖を閉める。再び書類に筆を走らせ始めた山崎の後方に回り、すぐ傍に腰を下ろすと背を合わせるように体重を寄り掛けた。

「まだ寝ないんですか、隊長」
「寝る。ここで」
「俺、これが終わったら部屋に戻りますよ」

 背中に重みを受けているというのに、山崎は調子を乱す事もなく淡々と白紙の用紙の上に文字を綴る。

 ――仕事をしている最中に纏わりつかれて、邪魔ではないのだろうか。気にかけつつも沖田が無言のまま後頭部を擦り付けると、一区切りついたところでようやく山崎の手は止まった。いや、沖田が止めさせたと言うのが正しいのかもしれない。

「膝貸しますから使ってください。その体勢よりいくらかマシでしょう」

 背を退かして窺い見ると、山崎は正座から崩した足を叩いて促しをかけている。一度はそちらへ視線を寄越した沖田であったが、するりと山崎の首に腕を絡めて今度は覆い被さるように体重を乗せると、文机の上に置かれている書きかけの書類を視界に留めた。

「もうちっとじゃねェかィ」
「多分あと十分もあれば終わりますよ。だからそれまで待っててください」
「待つ?」
「一緒に寝てほしくて来たんでしょう」

 相変わらず手を止める気配すら感じさせない山崎の一言に、沖田は心につかえていた何かがスッと消えたような感覚を覚え、同時に思わず肩の力が抜ける。まるで先ほどから感じていた靄が晴れたようで、ようやく自らの気持ちに納得がいったのだ。

「……そうか、一緒に寝てほしかったのか」
「はい?」
「いや、何でもねェ。それより早いところ終わらせやがれ、こちとら眠いんでィ」
「じゃあ先に寝ちまえば良いのに」

 相手の肩に顎を乗せて急かす沖田とは裏腹に、未だ報告書の文面を綴る山崎は楽しげに笑う。

 無事に書類をまとめ終えた山崎が恋人に口付けを与えたのは、それから5分ほど先の話である。




/長い夜はまだ明けない