爪を削る夜

「先輩、先輩ってば」
足で炬燵をゆさゆさと揺する。行儀が悪いが盆で両手が塞がってるし勘弁してもらいたい。
彼ほどの背丈で突っ伏し寝るには少し低い炬燵から体を起こした。

彼の瞼はまだ上下仲良くしていたいらしい。学校には滅多にかけてこない細い黒縁の眼鏡の奥で微かに瞬いている。
俺がもぞもぞと火燵に足をねじ込んでいるところを薄目で確認してまた目を閉じた。

「そのレポートいつまでですか」
「明日」
日はとっぷりと暮れ、その期日も3時間後に迫っていた。
「俺、何時間...寝てた?」
「知りませんよ。あ、鍵は元のとこに戻しときましたんで」
「ん...」
「緑茶どうぞ」
「...助かる」

あ、熱いですよ、と声を掛けるも間に合わず、先輩(猫舌らしい)はびくりと跳ねた。
慌ててふうふうと息を吹きかけるが、彼の眼鏡のレンズを曇らせるばかりだ。

「あとどれくらいですか」
「...よ、四千文字」
「うへぇ 終わるんですかそれ」
「舐めんなよ」
「はぁ」

熱さに慣れてきたらしい先輩はずず、と緑茶を啜る。
合わせるように一口啜り、一息ついたところで話を切り出した。

「明日、全休ですよね」
まだ熱い湯呑の淵に触れながら続ける。
「出したあとどっか出掛けませんか」
「いいぜ。どこ行くよ」
「あの、前に見たいって話してた映画とか」
「あーあったな」
「水谷主演の」
「それだそれ」

デートしましょう、とは言えない。前に顔を凍りつかせてしまった苦い思い出がある。
映画を見てどっかで飯食って銭湯寄って帰りましょう、余裕があれば一杯ひっかけて。そう言えば目の前の彼は笑顔で頷いてくれるだろう。
わずかな軋みが胸をずたずたと刺す。

背中をばきんと鳴らし再びノートパソコンに向かった先輩の指は文字の羅列を描く。この調子なら日が変わる前には終わるだろうか。その旋律を耳に挟みながら痛む心を労わった。



告白してから二ヶ月になる。
長身をかがめ俺に目線を合わせながら戸惑う彼にもういいよと何度言おうと思ったか。優しい彼は俺を傷つけないよう必死だ。優しくない俺はそれに気付かないふりをする。

キスさえしたことのない「恋人」の形の良い唇をぼんやりと眺め、溜息をひとつ漏らした。

「あれ、お前」
「なんですか」
「切ったか、ほら頬の上の、ここんとこ」
「あぁ、さっき爪ひっかけちゃって。爪切ったらやすりで整えた方がいいですよ」
「馬鹿、知ってるよ。貸してみな」

そう言うと先輩はパソコンを横にずらし、どこから出したか爪切りを左手に持ち右手で俺の腕を掴む。節ばった大きな手は指先がかさかさと乾燥していて、手のひらは驚くほどに温かかった。

さりさりと軽快な音を立てて爪が削れていくさまを頬杖をつきながら眺める。
俯きがちに伏せられた右目の睫毛の長さにどきりとしたが、不意に、ちらりとこちらへ視線を向けられる。
そのままどれくらいそのままだっただろうか。
つい先日まで考査とレポートに追われていた疲れがまだ残っているらしく、陶酔とまどろみがないまぜになったような夢に片足を突っ込んだ状態だった。
やすりをかける手を止め、そのまま視線をずらさない先輩に一言「なんですか」と聞いた。

先輩は少し口ごもり、照れ臭そうに笑う。
「綺麗だ、と思ってな」
「...はぁ?」
思わぬ一言に呆け、元親を凝視すると「あ、いや、」とか「そういうんじゃなくてな」とかもごもごと言い訳をしたかと思うと頬を染めつつそっぽを向いた。
一気に上がる心拍数。
からからに渇いた喉で絞り出すように問いかける。

「先輩...は、俺が好きですか」

きょとんとこちらを向く先輩。
眉間に皺が寄りはじめる。

「好きじゃなかったら同じ炬燵になんざ入れねぇよ」

睨まれていても、薄桃色に染まる頬の所為で迫力は無いに等しい。



「お、お前こそどっどうなんだよ!」
そっぽを向く先輩。
横目の彼とちらちら目が合う。

ああ、俺は今まで先輩のなにを見ていたんだろう。
わだかまりや燻りがゆるゆると解れていく。

「大好きです。先輩」

過敏に感じていた負い目や引け目、罪悪感が引き波に攫われていった。隻眼のたおやかな彼ははにかみながら指を絡めた。





翌日。銭湯帰りのまだ熱が残る帰路で「何故デートじゃ駄目なんですか」と聞いた。
返ってきた答えは全くの予想外なもので、「デート、って何なんだよ。何したらいいかわかんなくなんだろ」と頬を掻きながら返された。
どこまでもいじらしい俺の恋人。キスをしてくれない理由はまた今度聞こうと思う。


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