星の瞬くはやさで
「家康さん、そこもう少し上です」
「ん?左か?」
俺の先輩は今日もぐらぐらと危なっかしい脚立に乗りパン祭りのポスターを貼っている。
「いや、右っすね」
「了解だ!」
「あ、やっぱ左もです」
どちらを上げればいいんだ、と困ったように眉を顰める先輩。しばし黙ったかと思えばぽんと手を打ち貼ったポスターを剥がした。
「もっと下に貼ればいいのではないか!位置も合わせやすいだろう」
「上に貼るって言ったの先輩じゃないですか」
「そうだったか!」
先輩はよく笑う。
ぱぁぁぁと効果音でもつきそうなくらいにんまりと顔全体で笑う。先輩はとにかく評判が良く、このコンビニのアイドルに担ぎ上げられつつあるくらいだ。
丸く優しげな目を細め、形の良い唇は弧を描きにんまりと笑う。これをやられて落ちない奴はいないのではないか。いや、俺が断言しよう。いない。
「戸塚!」
「あっはい」
「どうした?考え事か」
あなたのことを考えていましたなんて言えるはずがない。
覗き込む顔に唇のひとつでも落としてやりたいところを堪え向き直った。
「店長がこれ終わったらあがっていいって言ってましたよ」
「ああ、もうそんな時間なんだな」
今や時代遅れと揶揄されるふたつ折りの携帯電話を取り出し時間を確認する先輩。店内の壁上に時計があるのに先輩はそっちははめったに見ない。
目が悪いと言っていたか。今日は眼鏡を忘れてきたようだ。
「眼鏡をしないというのも疲れるものだな!肩が凝ってしまった」
「ああ、忘れてきたんですか」
「玄関にあるはずなんだが」
視線を伏せ溜息をひとつ。
長い睫毛に縁取られた焦茶の双眸が憂いを湛えている。
「明日は気つけてくださいよ」
「ああ!スペアを買おうと思う!」
「忘れない努力をしましょうよ」
どちらからともなく笑う。
どうしようもないくらいに平凡で、足をかければ脆く崩れてしまうような危なっかしい生活を毎日先輩と浪費しているのだ。
「戸塚!行くぞ!」
更衣室に入る先輩に声をかけられて我にかえる。明日もまた進歩のない一日が待っている事を思い、腑の奥が少し重くなった。
裏口から外に出た。店長に会釈をしてジャケットのボタンをとめる。
「すっかり寒くなったな」
暗い色のエンジニアブーツをつっかけとんとんと爪先で地を叩く先輩。
「そうですね。もうすぐ冬将軍が」
「ああ。冬将軍な。いつか儂が倒す」
「また物騒な」
吐く息は白く、濃紺の夜に溶けて消えていった。
「ああ、星空があんなに綺麗に」
見てみろ、と首を目一杯上に向けて星を指差す先輩。
ゆるやかに隆起する喉仏に指を這わせたいと思った。
「星の点滅はな、何万年も前に光ったものを今見ているそうだ」
「...と言うと」
「星と星の間は途轍もなく離れているからな。光の速さで進んでもそれくらいかかるんだそうだ」
「詳しいんですね」
「昔調べたんだ」
照れ臭そうに鼻を掻く先輩。
「秋の夜空は空気が澄んでいていいな」
先輩の双眸には果てない宇宙が広がっていた。
ふと、ほとんど無意識に、ただ澄んだ夜空に先輩が溶けて消えてしまいそうで咄嗟に袖を掴む。
「どうした。儂の袖に用事か?」
先輩は一人称を儂としている。
その古めかしい響きはこの現代にも先輩の見た目にも時代錯誤甚だしいと思うのだが、可笑しいくらいに似合っている。
寸分の狂いも誤魔化しもなくこちらを見射抜く視線もまた、どうしようもないくらいに似合っている。
「...あ、いや、なんでも」
口ごもったふりをして誤魔化した。
「手が寒いのか!」
「いや、えっ」
半ば強引に袖を振りほどかれ、しっかりと握られる手。
「そう温かい手ではないが、無いよりはマシだろう」
節ばった大きな手をふるりと降る先輩。指に掌に甲に無数に走る傷の理由を聞けないまま、そっと指を絡めた。
「さあ!帰るか!」
溢れる何かが喉につかえて止まる。
じわりと涙になって染み出したその何かに先輩が気付く日は来るのだろうか。
もう少しだけ手を握っていたくて、はたと気付いた事に口を開こうとして噤む。
ああ、いつ言おう。
家康先輩。俺ん家、反対方向です。
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