007/心臓 | ナノ



弱虫、と罵ってやれば半兵衛様は顔をしかめた後に仕込み刀を振り回しながら私を追いかけてきてくれるだろうか。今まで追いかけられた事もないし、鬼ごとも得意ではなかったけれど、彼が追いかけてくれるならわたしはきっと今までにないくらい全力で廊下を走り抜けるだろう。
彼が大切にしていた書物を棚から引っ張り出して目の前で床に叩きつければ怒って布団から飛び出してきてくれるだろうか。叩きつけるなんて今までにしたこともないし、しても彼はきっと どうしたんだい? と優しくわたしを諭してその後にはすこし厳しく諌めるだろう。以前のようにそうしてくれたら、わたしはなんの心配もいらないのに。



弱虫と罵っても半兵衛様は愛刀に手を伸ばすこともないまま、そうだね、と力無く言うのです。 嘘ですよ。半兵衛様は弱虫などでは御座いません。 とわたしがいくら訂正しても彼は首を横に振ります。咳をしながら苦しそうに「この世は強者だけが残り、弱者は消えていくしかないんだ」と言うのです。そんなばかな。ならばいちばんの弱者であるわたしが生きていられるはずがない、とわたしが力一杯首を振って否定するのを見て彼はかすかに目を細めるのです。わたしは彼を尊敬していたのです。



彼の大切にしている書物を叩きつけるなんてことは出来ないしするつもりも毛頭ありません。しかし、いくつもある書物のうちの1冊に手を伸ばし、取ろうとしたら指先が他の書物の背に引っかかりバサバサと音をたてて床に落ちたのです。本から埃がぶわりと舞い上がりました。わたし以上に几帳面な彼からすれば考えられないことです。落としたりしてごめんなさい、 と謝罪すれば「いや、構わない。僕にはもう必要のないものだから」と懐かしげにしながらもあっさり言うのです。まさか。そんな訳ないでしょう。あなたはまだまだ秀吉さまと在り続ける為に生きなければならないのですよ、 と言えば「僕にはもう無理だ」と言うのです。わたしは独りどこかに行こうとするような、そんな彼を理解できませんでした。

一緒にふたりで年老いて、いつまでも互いに憎まれ口を叩きながらも幸せに生きて、最後は立派に育った子供たちに看取られ逝くというわたしの人生設計は打ち砕かれたのです。しかし、わたしたちはまだ生きているのです。弱者から死にゆく世ならば、きっと彼が消えたあとにわたしも消えてしまうだろう。そんなことを考えていてもきっとわたしという浅ましい存在と肉体は消えることなくぬくぬくと生き長らえてしまうのだろう。








そんななか、わたしのお腹にややが居ることが分かった。恥ずかいことに、我が身ながらつい最近わたしも知りました。無頓着にも程があると次女にも呆れられてしまいました。わたしにはこの幾月はそれほど目まぐるしく過ぎた月だけであったというだけなのに。
しかし逞しい我が子はもう四月もの間、わたしのお腹のなかで静かにすくすくと着実に育っていたのです。うっかり者の母のなかでもこれだけしっかりした子なのだから今から将来が楽しみだ。流石は半兵衛様の子。そして何より、このことで彼を驚かせて病状が悪化してはいけない。それが一番の難関である気がする。いっそ黙っていようか、とも思ったがそれを実行できるほどわたしも強いわけではない。



だから当たり障りないよう、平静を装いながら告げた。 ややが、出来た 、と。半兵衛様は虚ろであった目を大きく見開き、がばりと起き上がり、「本当に?」と聞きました。今まで見たことのない姿に驚いたし起き上がろうともしなかった半兵衛様がいとも簡単に起き上がった姿に戸惑いつつも しっかり、 はい。 と返事をすれば次の瞬間にはぼろぼろと音がしそうなくらい大粒の涙を溢しはじめたのです。硝子玉のような涙を流す姿に見惚れていれば「てっきり、美味しいものを食べすぎて幸せ太りだと思ったよ」と床に伏してからはじめて以前のような憎まれ口を叩いたのです。まあ、なんて失礼な。しかしその言葉は憎まれ口のはずなのにわたしはそれが嬉しくて仕方ありませんでした。わたしの以前より大きくなりつつあるお腹を痩せた長い指で愛しそうに撫でながら、 ありがとう 、と言うのです。その姿にわたしは涙が滲んでしまうのでした。半兵衛様のその涙がわたしの為でなくてもいいのです。ただ、あなたが生きてくれるなら、それでいいのです。


「 どうか、生きて下さい」


震える声を絞り出して懇願すると、そうだね、という返事が聞こえてきた。涙で滲む視界の真ん中で「こんなに泣き虫な君と子供を残しては、まだ逝けないね」と彼は涙を流しながらも困ったように笑ったのです。そしてぎゅうっと力強く抱きしめられた。彼の胸から伝わる鼓動に涙が溢れた。どうやら、わたしは自分が思っていたより心底彼を愛していたのです。


いとし、いとし、という心


007に提出
遅くなってしまい、申し訳ないです...

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