さわってごらん | ナノ


「もし、私が死んだらもう愛さなくていいから」

窓越しにしとしとと柔らかく降る雨を見つめながらいきなり呟かれたことばに思わず口から出たのは「は?」という間抜けな声だった。そんな声を聞いてゆっくりとこちらに顔を向けた牛丼の表情はひどく穏やかだった。彼女の左手の薬指にある揃いのシルバーリングを視界の端にいれると、いつもとは違う光を放っている気がして胸の奥が掻きむしられるようにざわついた。

「突然何を言い出すかと思ったらまた随分急な話だね」

「そう?私は今がぴったりだと思ったんだけど」

「自分が死ぬようなことを認めるなんて君らしくないよ」

「…そうかも知れないね」

「そうだよ」

「恭弥、怒ってるでしょ」

「どうしてそう思うの」

「私が突然縁起でもないこと言ったりしたから」

「そう思ったなら言わないでよ」

いつも馬鹿みたいに仕事に明け暮れていた頃の君ならそんな風に思ったりしなかっただろう、一瞬だけでもそんな風に考えてしまったことを悔やみながら座っていた椅子を引き直した。

ベッドに寝たきりの牛丼は僕の奥さんで、今ちょうど臨月に差し掛かる彼女のお腹のなかには僕との子供がいる。以前は稀に人の体のなかに本当に人が入っているのか疑わしく思ったりもした。だって普通に考えて無理じゃない?だって人だよ?そんなことを彼女に言えば「触ってみればいいのに」と平然と言ってのけた。それどころか、ほら早く触れと言わんばかりこっちに近付いて来ようとする。こういうところが彼女の凄いところだと思う。

でも頑なに触れようとしない僕に痺れを切らしたのか牛丼は一度だけため息をついて、言った。「大体ね、私はぽかすかお腹を蹴られてるのに誰もいませんって方が無理があるでしょ?」そういいながら彼女はけらけらと笑った。音だけ聞くとなんだか小馬鹿にしたように聞こえる笑い方かも知れないけれど、彼女の笑い方は本当に楽しそうに笑うからこの言い方がぴったりだと思う。

「恭弥?」と名前を呼ばれてはっとした。彼女のほうを見れば困ったようにこっちを見ていたからすぐに「なんでもない」と返した。それを聞いた彼女は一瞬だけ不満そうに顔をしかめるとまた困ったような顔をしてわらった。彼女はもう長く生きられないと言われている。信じられないし信じたくもない。遺伝的に受け継がれた持病だから仕方ないよ、と牛丼は笑った。僕は笑えなかった。だから僕はできる限り彼女の命を最優先して、なんでも物事を選択していこうと思った矢先に牛丼が妊娠していることが分かった。

確率としては五分五分だった。産むとなればそれ相応の負担が牛丼の身体にかかる。最悪の場合は命を落とすかも知れないとさえ言われた。なのに彼女は産むの一点張りだった。「すこしでも可能性があるなら、私は恭弥の子を産みたい」と言った彼女に迷いはなかった。なのに今になってなんでこんな風に考えてしまうんだろう。

そんな顔をさせたいわけじゃないのに、そう思っているとちょいちょいと彼女が僕に向かって手招きをしてきたので素直に近づいていくと僕のより一回りほど小さい手で僕の顔を両側から挟むように包んだ。その動作があんまりにもやさしいから断ることもせずそのままにしてみたら牛丼は嬉しそうに笑った。

「なに不安がってるの」

「君がいきなりおかしなこと言ったりするからでしょ」

「ごめんね。大丈夫だよ、恭弥の赤ちゃんは私が絶対護るから」

違う、そうじゃないんだ。僕は君にも傍に居てほしいんだ。そう言いたかったのに、君があまりにも愛しそうにするから僕は言えなくなってただ「その言葉、嘘だったら咬み殺すよ」とだけ言った。「まかせて」と彼女は笑っていた。




そして結果的に彼女の命と引き換えに産まれてきた僕らの子供はとても小さくて僕なんかが触れたら壊わしてしまいそうでこわかった。でも、それを上回るくらい愛しくてただ叶うのならばこのまま腕のなかにずっと閉じ込めておいてやりたいと思った。牛丼と僕の子供。やさしく抱き締めるとじんと腕に伝わってきた重さに彼女が命を賭けてまで護ろうとしたものの意味が分かった気がした。


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