宿命とは。それは決して逃れられないもの。うまく逃れたつもりでも、果てしなく長い輪廻の中で時を変え場所を変え、必ず何度でもまた出会う。
 運命とは。様々な因縁が複雑に絡み合い、生まれながらに決められていながらも、己の心の動き、在り方、行いにより如何様にも変化するもの。どんな花に生まれようとも、五分咲きにも満開にもなる。
 人とは。魂、心、肉体から成っている。
 肉体は滅び、心は変わるが、魂は不滅だ。
 いつか別の肉体と、別の心を持ち、またこの世に生まれ変わる。
 永遠を巡る輪廻で、魂と魂の契りを求め探し、出会う。

 そして運命の奴隷は、解放を望む。









Fiore del sole**









 飛行機を降り立ったその瞬間から、陽光の強さが全く違う。それが南イタリアだ。

 四月上旬の良く晴れた日、エリカ・C・ジョースターは、ナポリの空の玄関カポディキーノ国際空港に降り立った。

「なんて明るい太陽……。ロンドンとは別人の顔してるじゃない、ハンサムさん」

 春の爽やかな風が、太陽に見惚れながら一人ごちるエリカを包む。エリカはそっと目を閉じて、己の目的を反芻した。

 ナポリに来た目的は、ジョースター一族の親戚でもあり今でも大好きな初恋の人、空条承太郎への協力のためであった。そして日本での友人、広瀬康一のためでもある。

 承太郎から掛かってきたコールによれば、なんでも康一は承太郎からの『ちょっとした依頼』でこのイタリアまで来て、見事に荷物の持ち逃げ詐欺に合い、パスポートやその他の所持品を盗まれた挙句、『ちょっとした依頼』のターゲットには逃げられ『ある物』を採取出来なかったと言うのだ。

 しかも詐欺の張本人は、どうやらそのターゲットの人物で、しかもスタンド使いの可能性が高いらしい。だが幸か不幸か、お陰で身元は分かっている。

 エリカのスタンドは、ターゲットを捕獲するのに持ってこいの能力だし、その特徴故に対生物に物凄く効果を発揮する。だから、承太郎から話を聞いた時も、康一の手助けをして無事に日本に帰して欲しいという言葉を聞き終えるとっくの前にすでに決心し、受話器を切った直後には真っ先に行動を起こした。何よりも国外に不慣れの康一が、本当に心配だった。

 そして『ある物』が何なのかを聞き出し、全ての話の流れの合点が行ったエリカは、当然同じジョースターの血を受け継ぐ自分にとっても他人事ではないと思った。そのジョースター家のために康一が危険な目に遭っていると聞かされれば、大人しく黙っている事など出来ようはずもない。

 事態は急を要する。民間機で面倒な審査をやっている時間はないので、自家用ジェットで出国する事にした。すぐ様フライトスケジュールを提出して、パイロットとエリカ本人の出国手続きを行った。それらは一般とは違い特別室で迅速に行われ、無駄な時間のロスも無く、小型ジェットは無事にエリカの本宅の最寄り空港の滑走路から飛び立つ事が出来た。

 そういった事情により、彼女は今ナポリの地を踏んでいる。


 ナポリ市街地の中心部へは、渋滞に引っ掛からない限り空港から車でほんの十五分程くらいだ。しかし今のこの時期、来年の2002年にヨーロッパ連盟加盟国全土で流通通貨を統一するのに伴い、今のうちに最後のリラを荒稼ぎしようとする者が後を絶たない。少しでも多く蓄えておき、ユーロに換金するのだ。

 詐欺の王道、あの手この手で値段を引き上げようとするタクシーには要注意だ。

 個人タクシーには乗らないようにしなければならないというのは、エリカもよく聞く話だった。何はともあれまずは康一とコンタクトを取らなくてはならないので、康一が宿泊するホテルへ急がなくてはいけない。

 エリカは細心の注意を払って、タクシーを選んだ。ちゃんと、荷物二つをトランクに入れて一人は後部シートに座り、合わせての料金を提示した。別に支払いに困るような事があるわけではないのだが、狡すっからいイタリア人にしてやられるという事が、イングランドのアッパークラス(上流階級)としてのプライドが許さない。

 割と良心的な値段に交渉成立し、そのままタクシーは順調に出発した。

 窓の外をエンドロールの様に次から次へと流れ過ぎる景色は、ゴチャゴチャと雑然としており騒がしい喧騒そのものだが、その中には思わず目を見張る程に見事な様々な建築様式が堂々と顔を並べている。

 豪奢なバロック様式とそれを取り入れたドゥオーモや教会、古代ローマの息吹を感じるロマネスク様式、装飾過多のゴシックとは正反対の洗練されたルネッサンス建築を取り入れたシンプルな壁の味がある住宅達、そして芸術性溢れるリバティー様式に、時折混ざる近代的な直線と程好い曲線と合理性で出来た高層建築。それらが立ち並ぶ景観は、どれだけ見ていても厭きる事はない。

 エリカが食い入るように窓の外を眺めていると、上品なパールグレイのDIORのハンドバッグの中で携帯電話が鳴った。SW財団からだ。ジョースター家の例に漏れず、エリカもやはりSPW財団と提携し、協力し合っているのだ。ここまで来た自家用ジェットというのも、実はSPW財団所有の物だ。スタンドが必要な調査の時には、エリカも協力を惜しまない。

 しかし今回は違った。先日ある盗品の調査を、エリカから財団へと依頼したのだった。きっとその結果連絡だろうという予測はついた。

「Hello」
『Hello、エリカ・ジョースター様の携帯電話で宜しいですか?』
「ええ、本人よ。」
『頼まれていた調査の結果なんですが…』
「ありがとう、待ってたの」
『例の盗品は、現在イタリア南部に別荘を持つある男が所持しています。本宅は北イタリアのミラノに構えているようですが、今は別荘で過ごしているようです。盗品が好きな男のようで、盗品を購入するとその後しばらく別荘のあるナポリに滞在しています。恐らく、その別荘が盗品の保管場所になっているのだと思われます』
「……ッ!ナポリですって…?」

 なんという偶然。エリカの今いる町に、これまたターゲットがいるなどと。驚きに見開かれた瞳をゆっくり瞬きさせてから、話を続ける。

「…そう、ナポリね。ものすごく偶然だけど、今ナポリにいるの。詳しいことはメールで送ってくれると助
かるわ。これからしばらくはナポリで行動するから。それじゃあ、また後で連絡するわね」
『承知しました。…旅の幸運を』
「…ありがとう」

 旅の幸運か、確かに今回の旅は何かが起きそうな予感がする。エリカはそう思いながらも、今回も無事に旅が済むようにと願うのだった。




 エリカの乗ったタクシーは、渋滞に引っ掛かる事もなく意外とスムースに市街地に着いた。

 康一が泊まっているはずのアートリゾートホテルは、ショッピングセンター内にある。運転手にその事を説明して、上手くそのショッピングセンターのアーケード街入り口に停車して貰った。

 親切にも先にさっさと降りて運転手が開けてくれたドアを降車した途端、周囲の目が一斉にエリカに向いた。そういえばイングランドの空港でもそうだったし、ナポリ国際空港でもそうだった。更に言うなれば、幼い時から人の目を惹き付ける存在だった。

 お伽話のお姫様のように豪奢な黄金の蜜色のロングヘア、白磁のように白く透明感のある肌は優しいピンクミルクベージュ、愛くるしくも美しく整ったその顔立ちの中心にはツンッと通った鼻梁、その横にある双眸は鈴を張ったようにはっきりと開き、子猫のそれの様に可愛い丸みを帯びている。瞳の色は妖精の大好きなエメラルドグリーン。よく見るとその虹彩には金色の輪がミルククラウンの様な形で浮かんでいて、近くで見るとハッとする程神秘的だ。

 血色の良いローズピンクの唇は口角がキュッと上がり、思わずキスをしたくなる程キュートなのだ。そのふっくらした下唇の下にある窪みは、彼女の愛くるしくも品のある顔の中で、一番セクシーで扇情的な部分の一つだ。それだけではなく、そんな彼女の顔が乗っかっているボディは男達の夢を詰め込んだように、隠し切れないふくよかな胸が理想的な女性らしいラインを強調している。これで目立たない分けがない。美意識も高いエリカは、自分に良く似合う服を選ぶのも上手だし、自己プロデュースも手馴れている。ハイブランドを上手に取り入れたエリカの好む品のある服装は、誰に対しても好印象を持たせる効果は絶大だった。

 だから彼女は今更、他人の視線などいちいち気になどしない。

 老若男女の様々な視線──羨望、驚愕、嫉妬、色欲──をすり抜けて、エリカはトランクから出して貰った荷物を運転手から受け取り、アーケードを颯爽と歩き出す。中年の運転手は親切にも荷物をホテルまで運んでくれると言ったが、丁重に断ってしまった。

 アーケード街を少し進み、見つけたホテルの若いドアボーイに招き入れられ「Buongiorno!」と元気に言いながらエントランスロビーに入れば、フロントデスクに壮年の男女のフロントマンが居た。

 突然入ってきた春のお姫様のような少女に、ブルネットの男は感嘆の溜息を吐き、赤毛のひっ詰め髪をした女は一瞬目を見開いた後に顔を強張らせて、接客に必須の愛想笑いをする事もなく無表情を装った。いつの時代も女の敵は女という訳だ。

 愛想良く話し掛けて来たのは、やはり男の方だ。勿論、男は皆狼という昔からの格言が当て嵌まる表情だが。

「Buongiorno、御宿泊ですか?」
「No、実は違うの。ここにヒロセ・コウイチっていう日本人が泊まってると思うんだけど、ロビーに来るよう伝えていただけないかしら?」
「そうですか、畏まりました。お掛けになって少々お待ち下さい。…宜しければ、そちらのお荷物はフロントでお預かりしましょうか?今晩のホテルがお決まりでないなら、ぜひ当ホテルをいかがですか?」
「ふふ、ありがとう。でも申し訳ないわ、前もって知り合いのホテルを予約してしまったの。次に来る時はここにするわね」
「そうですか、それは残念です。ナポリは良い所ですので、またぜひお越し下さい」
「Grazie」

 礼を言い、そのまま奥のロビーへ向かう。一連の会話の間、フロントの女は無言のままだ。きっと男に気でもあるのだろう、確かに自分とそこそこ良い関係にある男友達が他の女に見惚れている所など、不愉快以外に何でもない。

 ゆったりとしたバロック調のソファーに座って待つ事しばし、康一はすぐに来た。懐かしいツンツン頭を見るだけで、壮王町での出来事が思い出され気持ちが込み上げてくる。エリカは立ち上がってハグをして出迎えた。

「康一!久しぶり!」
「エリカちゃん!久しぶりだね!うわあ…!随分大人っぽくなったなぁ〜!」
「うふふ、そう?わたしは仗助からよく電話で話を聞いてるから、二年ぶりっていう感じはしないわね……フフッ。由花子とは順調なんでしょう?」
「や、やだなぁ……はっ、恥ずかしいじゃないか。それよりもエリカちゃん、例の事なんだけど…」
「そうね、本題を忘れちゃいけないわね。懐かしい話は用事が片付いてからにしましょう。さあ、座って。ここで日本語で話す分には、誰もなにを話してるのかわからないと思うわ。それで、荷物を盗っていったというのが今回のターゲットって本当なの?」

 康一も、エリカの横に腰掛けて話し始める。一見随分と親密に見えるが、この方が近い距離で話せるので好都合だった。由花子には絶対に見られたくないが。

「うん……承太郎さんに送って貰った写真とは髪の色や長さが違うけど、顔立ちは面影あるから多分そうだと思うんだ。今はジョルノ・ジョバァーナと名乗っているみたい。それに空港にいた警官が、彼は日本人とのハーフで、最近まで黒髪だったけど突然金髪に自然変色してしまったって話していたし……それはエジプトで死んだ父親からの遺伝だって本人も言ってたみたいだよ。エジプトで死んだって事は、きっとDIOの事を言ってるんだろう…!?彼はちゃんとDIOの遺伝子を受け継いで、スタンド使いだったんだッ!エコーズで足止めしたのに、奇妙な能力で逃げられてしまった…ッ!」
「……そうね、スタンド使いは惹かれあう……もはや、それは鉄則のようね。それに髪の色が変化……染めているわけじゃないなら、とても不思議な現象よね」

 真剣に考え込むエリカに、康一は申し訳なさそうに言う。

「女の子を助っ人に呼ぶだなんて、ほんっとに格好悪いし最低だと思うんだけど……本当にごめんね、エリカちゃん。来てくれてありがとう!」

 その言葉に、エリカは目を見張る。ああ、この友人はどこまでも遠慮深いのだろう。由花子の男を見る目だけは、賞賛に値する。

「そんなこと、気にしないでいいのよ。康一こそ、いつも承太郎や仗助の、そしてジョースターを助けてくれてどうもありがとう!……仗助はあなたのような友人が身近にいて、とっても幸せだと思うわ。この先もずっと、ジョースターをよろしくね?」
「そッ、そんなぁ〜!僕もいつも仗助くんには助けられてるよ!」
「ふふっ、仗助もなんだかんだで気のいいヤツよね。……そのジョルノ・ジョバァーナという男、写真と見た目が変わっていたと言ったけど、詳しい特徴と荷物を盗られた経緯を教えてもらえるかしら?」
「うんッ…!ジョルノ・ジョァバーナは個人タクシーを装ってて、客の荷物だけ乗せて走り去ってしまう手口だったよ。やってる事は小悪党なのに、なんだか凄く爽やかで……こう言っちゃあなんだけど、妙に輝いて見えたんだ。勿論髪が燃え上がるような黄金だったっていうのもあるんだけど、緑の瞳がこうキラキラと……君や承太郎さんみたいに、何か惹き付けられる輝きを持っているんだ。それに、すっごく女の子にモテてそうな所も、ジョースターの血って感じだったよ。女の子に囲まれてたし…」

 ジョルノの顔を思い出しながら語る康一は、記憶の中のジョルノは確かに強烈で他とは一線を駕する存在感だったのは間違いないと思った。

「まあ!そうなの?緑の瞳……ね。ふうん。でも、多少顔がよかろうが、それとこれとは話は別よッ……詐欺は許せないわ!ジョースターの血を引くならなおさらよ!まだ荷物は行方不明なんでしょう!?」

 怒りのあまり思わず声のボルテージが上がるエリカに一瞬怯えるものの、彼女のジョースター家に対する誇りを知っているだけに、熱が籠もる気持ちも良く分かる。だが、従業員や他のテーブルにいる客の目も気になるのは確かだ。

「エリカちゃん…みんなこっち見てるからもうちょっと声を…!……でも、そうなんだ…ッ!財布に入ってたお金も、パスポートも盗まれた鞄に入れっぱなしで……ここにチェックインする時も、SW財団に身元保証をして貰ったりして大変だったんだ………なんたって持たされてたカードも前払い金もないし…!パスポートなんか再発行に何週間もかかる挙句に、発行されるまでこの街から出られないらしいんだ!なんのためにヨーロッパに来たんだか……ハァ〜〜…なんとかパスポートだけでも取り戻せないかなァ…」
「…よし!絶対に取り戻しましょう。承太郎にはもう康一をジョルノ・ジョバァーナを近づけるなって言われてるけど、わたしのキャンディマンなら問題ないでしょう!そして、ジョルノ・ジョバァーナの皮膚をちょうだいする。ついでに髪の毛ももらっちゃおうかしら?そして!ちょ〜〜っとお仕置きして懲らしめないとね!」

 えっ、最後のそれは危険なんじゃ……と康一は思ったが、貝のように口を閉ざした彼の判断は賢明だ。このお転婆で行動力のあるお嬢様の一度言い出した事を止めるのは、至難の業なのだ。

「それじゃあ、汐華初流乃……いえ、ジョルノ・ジョバァーナの通っているという学校の寮に行きましょうか。最悪の場合、今日帰ってこなくても、数日張り込めば必ず寮に戻るでしょう。調べによると、継父とはうまくいっていないようだし、学校にはそれなりに出席しているみたいだしね」
「そうだね!…と、その前に…あの……ッ」

 言ってる間に、康一の腹がぐぅと悲しい音を立てた。それはそうだ、結局の所康一はナポリに到着してから何も口に出来ないでいたのだ。手配して貰ったホテルにも今し方着いたばかりで、送金もされてないからホテルのラウンジサービスでこれから食べようと思っていた所だ。

「えーっと………こっちに着いてから何も食べてなくて……」
「……かわいそうにッ!!すぐになにか食べるといいわ。食事は大切よね!康一が食事をしている間に、わたしは予約したホテルにチェックインして、荷物を置いてくるわ。時間を決めて、現地集合にしましょうか」
「うう、ありがとう…!何時にどこへ行けばいいかなぁ?」
「そうねぇ、一時間後の午後四時に、ネアポリス中等部寮の正門前にあるバールでどうかしら?どうせならそこで食べて待ってるといいわ。じゃあ、また後でね!」
「あ…、あの…!」

 さっそく手を振って立ち上がりトランクケースを手に取るが、康一がまだ何か言いたそうにしている。

「ん?なあに?」

 エリカがまだ何かあるのかという風に片眉を器用に上げて康一を見ると、なんとも済まなそうな、バツが悪そうな顔がそこにあった。

 そしてか細い声で一言。

「………お金……まだ送金されてないんだ…」
「………………」

 そうだった……とエリカは思い出し、ロンドンで旅の支度をする間にバトラーに換金所で用意立てて貰ったリラ紙幣と、念の為にクレジットカードを、そっと康一の手に握らせた。支払い元は当然、SPW財団だ。

「ありがとう……ありがとう、エリカちゃん…ッ!」

 こんなに格好悪くて情けないのも、ひもじい思いをするのも、ちょびっとは迂闊な自分のせいかもしれないが、九割九分五里はジョルノ・ジョバァーナのせいだ。絶対そうだ。騙される奴が悪いと言う者もいるが、騙す奴が居なければ騙される者も居ないのだ。康一は地獄の炎の如く闘志を燃やし、件のバールへ向かった。
 


 一方のエリカはホテルを出ると、足早にアーケード街を抜けて通りまで行く。エリカが緊急に予約をしたホテルは、通称卵城と呼ばれるカステル・デッローヴォという、中世の城が望める海岸沿いのパルテノペ通りにある。スイートクラスなら空きがありすぐに用意が出来るという話だったので、一人にしては手広のデラックススイートを抑える事にした。

 アーケード街から海岸までは歩けない距離ではないが、時間が惜しい今この時は車移動が無難だ。

 とりあえず広い通りまで出てタクシーを拾おうと、腕にはDIORのバッグを引っ掛け、両手には大小のトランクを提げて歩いていたら、災難はすぐにやってきた。ティーンエイジャーのブロンド美少女が大きな荷物を抱えてナポリを歩けば、すなわちそれは狼の群れに投げ込まれた羊と同じなのだ。いかにも育ちの良さそうな服を身に纏い、一人で危なっかしそうに歩いていれば尚更だ。

 今回の狼は、壮年だが先程のホテルのフロントマンよりは若く、まだ二十代といった感じだ。特別に彫りが深い顔立ちは若いはずなのに爽やかさは皆無で、ビッシリと濃く生え揃った真っ黒な眉と睫毛にぎょろりと大きい目玉の組み合わせは、くどさと粘着性しか感じない。他の国や北イタリアにはない独特の熱を帯びた粘着質な視線が、この南イタリアに居るとまざまざと感じられる。まるで見られている所から溶かされる勢いだ。

「Ciao Bella!ナポリには旅行で来たのかい?」

 エリカは無視を決め込んで足早に歩くが、効果は薄い。勝手に喋くりながら、歩幅を詰めて付き纏う。カメラを持つか持たないかの違いだけで、ピタリと密着して追いかけるその様はパパラッツィそのものだ。

「観光案内するよ!その荷物重くないかい?君の可愛い手には似合わないよ、持ってあげるから貸してごらんよ」
「結構よ!急いでるからあなたとお話ししてる時間はないの、さようなら」

 荷物の手を掛けようとしてきたものだから、慌てて男の腕を避けて拒絶する。それにしても、まるでお芝居の様な台詞がよくもまあこんなにポンポンと出てくるものだ。

「そんな冷たい事言わないでさァ。君みたいな美人を見掛けたら、声を掛けない方が失礼だよ!忙しいなら用事が終わるまで何時間だって待つよ。チェーナを一緒にどうだい?」

 エリカはお行儀悪くも一瞬舌打ちをしそうになったが、なんとか理性で押し止める事に成功した。その代わりと言ってはなんだが、蟀谷(こめかみ)がピクピクと引き攣ってしまうのは致し方がない。

 このまま、デートを承諾するまで鬱陶しく付き纏われるなんて、真っ平御免だ。この執拗な口説きにも、いつの間にかちゃっかり腰に回された手を我慢するのにも、いずれ限界というものがある。エリカは心を決めた。

「……いいわ、わかったわ。その代わりあなたにお願いがあるから、そこの路地にきて…?」

 蠱惑的に艶めくエメラルドの瞳で一撃。エリカがサッと横道に入ると、男は目を輝かせて嬉しそうに、あっさりと着いて来た。


 丁度同じ時、彼らの十数メートル後ろで、その様子を目撃する者が居た。

 ブローノ・ブチャラティ。彼は、現在この街を支配している組織パッショーネの構成員だ。今はしがない下っ端だが、いずれ生まれ変わった組織のボスの右腕となる存在である。だが、それはまだもうちょっと先の話だ。

 ブチャラティはつい先程まで、エリカ達が追っている件の人物ジョルノ・ジョバァーナと一緒に居た。彼と志を共にし、今のボスから組織を奪い、立て直す事を誓い合ったのだ。その為にはまず、怪しまれずにジョルノを組織のメンバーに入れなくてはならない。

 ブチャラティの上司であり、組織の幹部のとある人物にジョルノを紹介し面接させる手筈を整え、送り出して来た所だ。果たしてジョルノは大丈夫だろうか。逸る気持ちを抑え、市街地まで戻って来たはいいが、気になって仕方がない。

 そんな時に、いかにも良家のお嬢さんといった若い娘が、これまたいかにも軟派なナポリターノに絡まれているのを見掛けてしまったら、見過ごしておける訳がない。女性と呼ぶにはまだ幼さが残るその容姿は、スィニョーラというよりもスィニョリータと言う方がしっくりする。

 そんな彼女の服装は、淡いストロベリーホイップの色をしたシャーリングパワーショルダーのトレンチコートを羽織り、開かれたままのフロントからは爽やかなメロングリーンの膝上丈のボックスプリーツスカートと、そこにタックインされた白黒のドット柄のボウタイリボンブラウスが覗いている。スカートから伸びる形の良い足は一見タイツを穿いている様に見えるが、実は薄手の白いサイハイストッキングをガーターベルトで留めている。けれどもそれはブチャラティには分からない。

 足元は上品なグレイのシルキースエードに、ペールピンクのサテンリボンがアッパーのセンターに可愛らしく三連で並ぶバイカラーのブーティーは、少しだけ背伸びをした風にレディーライクだ。

 ここがアメリカならまさにプレッピーガールそのもののエリカが、使い込まれた豚革のアンティークトランクケースを抱えて歩く姿は、確かにブチャラティですら危なっかしくて放っておけないと思い、間違いなく声を掛けるだろう。但し彼の場合、下心はないが。

 彼女が自分でナンパを上手く追い払えるかどうか見定めていたが、人が二人並んでやっとこ通れるような狭い路地に入って行くのを見た瞬間、もうこれ以上は待っていられなかった。彼女のような娘がこんな所で遊び人の毒牙に掛かってしまったら、きっと一生暗い影が彼女の心を覆うだろう。そう思うが早いか、ブチャラティは二人が入って行った路地に走り寄った。

 角を曲がったら、二人は数メートル先に居る………はずだった。だが実際はと言えば、路地に入った所で出会い頭にぶつかってしまった。

「……ッ!?」
「キャア…ッ!」

 さすがに予想もしていなかった位置に人がいて、思い切りぶつかってしまった。ぶつかったのはどうやら少女の方だったらしい。男とは違う柔らかな衝撃があったと思った次の瞬間には、すぐに弾き飛ばしてしまっていた。黄金の絹糸が、ブチャラティの眼前を舞う。

「すッ、すまない、大丈夫か…ッ!?」
「…ぃ、ったぁ〜〜…っ」

 トランクケースは投げ出され、少女本人も地面に手を突いて転がってしまっている。どうやら強かにヒップを打ちつけてしまったようだった。この時初めて、少女の顔を見た。遠目で横顔しか見えなかったから気付かなかったが、少女ながらもかなりの美貌の持ち主だった。ブチャラティがそれ以上に驚いたのは、性別も違うのに妙な話なのだが、雰囲気とそして何よりもその瞳の輝きが、ジョルノ・ジョバァーナを思い出させた。意志の強い、己の決めた事を貫き通す瞳。その瞳を見た瞬間、息を呑む。

「……ッ!……本当に、すまない…、服も汚してしまって…」

 ブチャラティは慌てて手を取り助け起こし、汚れてしまったトレンチコートの裾を掃った……が、すぐに手を振り払われてしまった。

「触らないで!」

 強い拒絶の言葉。エリカは自分でさっさと汚れを掃う。
 ブチャラティは思わず目を瞬かせ、固まってしまった。

「……なにボーッとしてるの?トランク拾ってちょうだい。あなたのせいで落としたんだから」
「………………あ、あァ……わ、悪かった」

 人とは見掛けによらないものだ。淡いピンクミルクベージュの肌のふんわり優しい色合いと同じように、中身もそうなのだとは決して限らない。

 当然少女にぶつかり転ばせてしまった自分が絶対的に悪いのだが、腑に落ちない何かを感じながら黙々と荷物を拾う。そして気付く。路地の奥の積み重ねられた木箱の影に人の足が投げ出されている事に。

「………!!」

 てっきりこの少女は上手くナンパを断ったと思っていたのだが、どうやらただ単純に断ったのではないらしい。

 状況がおかしい。しかし、気付いた事に気付かれてはならない。

 平常を装って拾ったトランクを両手に振り向くと、少女は路地口に立ちじっと男を見据えている。どうやらもう手遅れの様だ。

 しかしバレた事に焦りもしないで、堂々と、薄く唇の端に笑みさえ浮かべて、少女は佇む。ブチャラティはその態度を奇妙に感じながらも無言で歩み寄り、トランクを差し出した。

 静かな緊迫感が、狭い路地に張り詰める。

「………Grazie」

 受け取りながらエリカは礼を言うが、差し出された手はトランクの持ち手を握ったまま離れない。エリカの片眉が、器用に持ち上がる。

「……放してくれないつもりなのかしら?」
「気付いてるんだろう、俺があそこの足に気付いた事に。……あれはさっき一緒にいた男だろう、靴が同じだ……君がやったのか?」
「…さあ?なんのことだかわからないわ」
「何故、彼はあそこに倒れているんだ?」
「知らないわ。貧血でも起こしたんじゃないの?わたしは狭い路地に連れ込まれたから、ただ『手を振り払った』だけよ。すぐに背を向けて走ったから、その後のことはわからないわ」

 それを聞いてブチャラティは、すぐさまトランクを掴んでいた手をパッと放した。

 何も知らないなんて嘘だ。彼女は何食わぬ顔で何の動揺も見せずに言っているが、それでもブチャラティは直感的に悟った。

 ここで尋問する事も出来るがどうするか。しかし判断が早かったのはエリカの方だった。

「それじゃあ、わたし急いでるから!」
「…ッ!ま、待て!」

 そのままパッと身を翻し、走り出す。思わず手を伸ばすと、蜜の様にとろりと艶めく髪に手が届き、指の間を滑らかな感触が伝う。今この指を握り締めれば、彼女を逃がさず捕らえる事が出来るだろう。しかし、まだ少女の年頃の女の髪を引っ掴んで止めるなど。

 本来ならば躊躇わずにするべきだ。彼女は大きな脅威を抱えているかもしれない。

 だが、どうしてもこの手を握り締める事が出来ない。そうしてそのまま少女は通りを来たタクシーを捕まえ、さっさと乗り込んで颯爽と走り去ってしまった。後部シートの窓ガラスから見えた彼女の口元が、『Ciao』と形作った。

 一瞬の躊躇いと思考が、彼女を逃してしまった。どうも今日は調子が悪いらしい。冷徹になりきれない。自分自身に呆然としながらも、しかし不思議と後悔や落胆はない。このネアポリスで何かあれば、また必ず自分の耳に届く事になる。

 何よりも、あの甘い色合いの髪を傷つける様な事にならなくて良かったのだ。

 転がっている男の脈も確認したが、ただ意識を失っているだけの様だ。

 唐突な出会いと謎めいた少女自身に奇妙な縁を感じながら、さてこの気絶している男をどうするのかと悩む番だった。






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