バーチ(Baci/口付け達)。
 それはバーチョ(Bacio/口付け)の複数形。
 ここイタリアで最も有名かつ親しまれているチョコレート菓子の名前だ。
 出来た当初はそのゴロリとした無骨な形にちなんでカッツォット(Cazzotto/拳骨)と名付けられていたが、そんな無愛想な名前をロマンチストなイタリアーノがいつまでも許しておくはずがない。

 ロマンチックで、尚且つチョコレート菓子に相応しい甘さを称えた、実に魅惑的で素晴らしい名前が新たに与えられた。

 その包み紙を剥くと、中にはコロリと丸っこいチョコレート本体と、Cartiglio(カルティッリオ)と呼ばれる五ヶ国語で書かれた愛や人生に纏わるメッセージや諺の紙切れが入っている。

 メッセージの種類は百何十種類とあるが、それらの多くが揃いも揃ってチョコレートよりも濃厚で甘ったるいのだ。

 この愛の言葉は、今やバーチチョコレートの名物となっている。

 そんなバーチのディスプレイの前で、メローネは歩みを止めた。







 メローネの行きつけのバールはナポリ湾から程近く、車じゃ入れないような狭く短い路地を抜けた先にある。路地は十数メートル先で袋小路になっており、少しだけ開けている。バールはそこの奥の壁面の中央に入り口を構え、通りに立ってそこを見ると、丁度入り口のドアが隣りと隣りのの塀との間にピッタリと額に収まっているように見えるのだ。

 きっとフィアットの小型モデルの様に小さな車ならこの狭い路地に入れるだろうが、通りから店が見えなくなるような真似は誰もしなかった。

 そのバールに、メローネは久方ぶりに訪れた。たまにはチームの奴らと来る時もあれば、大体は気ままに一匹で乗り込む。以前なら、朝一番にラッテ・マッキャートと共に甘いコルネットで頭を覚まさせたい時、小腹が空いたシエスタ前に暖かいニョッキを食べたい時、空が黄金色になる夕方にカッフェを一杯飲みたい時、そして美味いリモンチェッロにありつきたい時、そんな様々な場面で頻繁に訪れていたが、近頃はもっぱら御無沙汰していた。

 先述の様にバールで通い詰めていたであろうシチュエーションでは、今は別の場所に通い詰めているのだ。可愛い可愛い黄金の毛並みの子猫の所へ。

 彼の愛車の一つであるヴェスパ160GSに跨って、心地良い注目を浴びながら狭い路地へと入る。きっと店主はまだ、このヴェスパの音をまだ覚えているはずだ。店内に入ってお気に入りの席に腰掛ける頃には、カッフェはもうカップの中だろう。今の時間ならラッテを少し垂らしたカッフェ・マッキャートか、それともフワフワの泡が乗っかったカップッチーノか。メローネの場合、いつも腕のいいバリスタにお任せだ。

 入り口横にヴェスパを着ければ、それはすぐに目に入った。アーチ型のガラス窓の向こうに、ダーマ(Dama/貴婦人)の帽子の飾りの如く洗練された華美さでディスプレイされているそれ。

 青の洞窟の水面色の様な純粋な青を基調にしたそれは、バーチの定番カラー。大小様々な箱やプラスティックケースに入ったバーチという名のチョコレート菓子。

 そう、メローネはここで歩みを止めざるを得なかった。

 チョコレートといえば、可愛いあの子の大好物の一つだ。更に言うなら、そのチョコレートは猛烈な暑さに見舞われる夏の三ヶ月間程、製造停止になり工場も休業するのだ。停止した直後はストックされているチョコレート達が店頭を賑わせるが、徐々に数を減らしていき特定の種類の物しか置かれなくなる。九月にもなればまた製造は再開されるが、それはまだまだ先の話だ。

 もう六月。そろそろ工場が眠り姫の城になる時期だ。

 よくよく見れば、きっと母の日仕様の商品だったのだろうと思われるパッケージの物が、多数混ざっている。ケーキボックスみたいなボール紙製の箱の取っ手に可愛らしい造花のパンジーが飾ってあったり、はたまた百粒入りの特大ギフトボックス。ミモザの小さなブーケに混ざってバーチが花の蕾の様に包まれている物まであるのを見ると、どうやらこれは女性の日に向けて発売されたはずのものじゃないのか。肝心の記念日が過ぎてからでも、売り切れるまで売る所が実にイタリアらしくて、メローネは少し笑ってしまった。

 蜂蜜色のあの子が、夏にその可愛い顔を曇らせない為の魔法。それが大量に目の前にある。それらを見た時の彼女の顔が、今から物凄く物凄く、楽しみだった。

 浮き足立つのを抑えられぬままドアを開けると、ドアのてっぺんからぶら下がったベルが小気味良いカランコロンという音を奏でて店内と路地裏に響いた。

 店内は寛げる程度の明るさの照明と、落ち着いたブラウンを基調にした調度品。テーブルクロスがきちんと掛けてあるテーブル席はわずか五席で、丸型のテーブルには座面に渋いボルドー色のリバースレザーの張られた椅子がそれぞれに二脚ずつ。他は入り口を正面に構えた幅広いカウンター席で、木製の洒落たアンティーク調のスツールが十一脚並んでいる。カウンターの端に乗っかったレジスターは年代物で、レシートが出てくるだけで奇跡を感じる。レジスターの手前には背丈の高い花瓶に、これまた背丈の高いローズマリーがざっくりと生けられいて、丁度入り口側からはレジスターが見え辛くなっていた。

 そのカウンターの中でカッフェをカップに抽出しているブルネットの男が一人。まだ若くメローネと大して年が違わないだろうその青年は、ベルの鳴った方へパッと笑顔を向けた。愛嬌のある人懐っこいアーモンドの瞳を目が合い、メローネも自然と口許を綻ばせて声を掛けた。

「Ciao!」
「Ciao、久しぶりじゃないか。どっかで野垂れ死んで、ついに世界中の女性に平和が訪れたのかと期待してたところだ」
「ハハッ、言ってろよ。俺がいなくなったら世界中の女性の涙でイタリア半島の半分が海の中になっちまうし、この店の売り上げは犬の給料にも劣って、さあいよいよ店を畳む時間だぜ?」
「オイオイッ、それこそ二ヶ月も来てなかったくせによく言う!最近デザインの仕事はどうなんだい、先生?」
「Cosi cosi!」

 デザイナーはメローネの表向きの顔だ。以前彼が所属していた暗殺チームは他の一般構成員の様に、表回りの仕事を請け負っていたわけではない。組織の臭いすら感じさせてはいけないのだ。一般人になりきるという事も、彼らにとってはとても重要だった。

 得意の軽口に、いつものカウンター席。腰掛けるのは職業は伸び盛りのデザイナー。二ヶ月振りだが、店の雰囲気もバリスタのディーノも変わらない。きっとカッフェの味も、相変わらず美味いのだろう。

 軽い足取りで座ると同時に提供される、少しのカッフェにたっぷりのラッテが入り、真ん中に乳白のクオーレ(ハート)が浮かんだラッテ・マッキャート。

「……一応聞くけど、このクオーレは?」
「フフフ……それはアンタが俺に言う内容なんじゃないのか?どうしたよ、スキップしそうな勢いでバーチなんぞ眺めて。にやけた顔がマジ過ぎて、気持ち悪いなんてもんじゃあなかったね」
「あーれま、思いの外簡単にバレちまうもんなんだな。そんなにニヤけてたかァ?」
「幸せ者です、って声高々に叫んでる幻聴が聞こえるくらいだ。ついに身を固めた、なーんて事言わないよな?独身貴族仲間を差し置いて」

 変わった事はメローネの砂糖の量。砂糖はきっちりすじ切り一杯。あの子と一緒にティータイムを楽しむ時は、いつも決まって甘いドルチェと共に過ごす。だからドルチェの味の邪魔にならない様に、砂糖の量は自然と減った。

 今はドルチェはない。一杯入れて考えた後、もう二杯加えた。こんなに恥ずかしい程可愛らしいクオーレのラッテ・マッキャートも、きっとあの子にならとても似合うだろう。そんな事を考えながら、クオーレをそのままで飲む自分のおぞましい姿を一瞬想像し、それを打ち消すかの様に、丹念にスプーンでカップの中身を掻き混ぜた。

「まあこれでも食べなよ。自白剤だ」

 そうしてる間に置かれたのは、粉砂糖のお化粧たっぷりのカスタニョーロ(Castagnolo/穴なしドーナツ)。

「おい、今の絶対わざとのタイミングだよな。俺が砂糖三杯入れるの見てただろ?」
「何言ってるんだよ、イタリアーノなら甘い物は大好きだろ?糖尿なんて恐れる事ないさ!この国の人間なら全員糖尿病予備軍だ」
「そういう、死なば諸共みたいなのには巻き込まれたくないんだがな。まあ小腹も減ってたし、有り難くいただくよ」

 一つ摘まんで口に放り込む。予想通りの甘さが口の中に広がるが、決して嫌なものではない。ディーノの言葉通り、イタリアーノは全員甘党で、糖尿病予備軍で、そしてメタボリック症候群候補なのだ。

「で、さっきの顔からすると、まさか相手の子には本気だったりするのか?おっかしいなァ、あんたは色んな女の子と派手に遊んではいても、決して女が好きな訳じゃないって感じだったんだけどな!」
「面白い事言うじゃないか。なんでそう思った?」
「本当に女が好きなら、もうちょっと尊重したり大切にするだろ。存在を。一応優しくはしてるみたいだったけど、ちょっと違うんだよなァ。自分でも全くわかってないわけじゃないだろう?」

 その言葉を聞き、メローネは自嘲染みた笑いを零した。全くこのバリスタときたら、一般人の癖に妙に鋭い所があるからやりにくいったらありゃしない。

 その通りだ。女に対しての嫌悪感やら軽蔑にも似た感情は、いつしか自然と自らの中に定着していた。しかし女という性を蔑視しながらも、その神秘的な生態には敬意すら感じる時もある。ある意味、女というものにコンプレックスを感じているのだろう。

「君が色んな女の子と一緒に歩いてるの見かけたけどさ、そのどの子もここに連れてきた事ないよねぇ」

 …見られていたのか。この場所で日がな一日仕事をしているくせに、なんで目撃されてるんだ。こいつの情報網は侮れないな。最早メローネの中でのディーノは完全に油断のならない奴の位置に定着した。

「あいつらなんか連れて来たら、自分の部屋以外の唯一の寛ぐ場所がなくなっちまうだろ。それに目的はどうせ一つだけなんだから、わざわざ気に入ってる場所に連れ歩く必要も無い。……だが、エリカは今度連れて来るさ。正直、あんたに見せるのも惜しいくらいの子なんだぜ。しかし彼女は美味いカップッチーノが好きだから仕方ない、特別だ」

 これはディーノにとって意外な言葉だった。自分の領域に他人が立ち入る事を嫌うこの男が、歴代の肌を重ねた女達はシャットアウトしても、そのエリカという子だったら立ち入り可能らしい。きっと今まで遊んだ女性達とは、豪華なホテルのスイートルームで戯れた事はあっても、自分の家に招いた事などないはずだ。彼はそういうタイプだ、少なくともディーノにはそう見受けられた。

 今までの中では一番馬の合う女の子と付き合って、気に入っているのだろうくらいに思っていたのだが、これはなかなか面白い事になっているようだ。ちょっとからかうつもりが、本気で話に聞き入る破目になっている。

「それはそれは、楽しみに待ってるよ」
「あ〜〜、本当にもったいない。いや、見せびらかしたい気持ちもあるんだぜ、なんたってエリカは最高だからな。だがしかし、うっかり見せびらかしてストーカーでもついたら大変だ……あのデア(Dea/女神)みたいに神々しい微笑みを見ちまったら、誰だって一発でK.Oされちまう。見るだけならいいぜ、見るだけなら。エリカは見てるだけで幸せになれるからな。声を掛けるのは絶対にダメだ、俺だけじゃなくパッショーネが黙っちゃいないぜ」
「オイオイッ、最後のは洒落にならないじゃないかッ!まさか組織の女に手を…ッ!?」

 つらつらといつまでも続きそうな惚気の中に、突如思いもしなかった言葉が不穏に混ざり、ディーノの顔色はサーッと青褪めた。パッショーネといえば、イタリア全土の中でも特に南で勢力を伸ばしているマフィア組織だ。最近ボスが代替わりしたという噂もある。そんなヤバい組織の女など、災厄の塊そのもののはずなのだが。

「ハハッ、まさか。彼女は清廉潔白な一般人さ。ただ、ボスと幹部がたまたま縁があったらしく、エリカを凄く気に入ってるんだ。まあわかるよ、彼女の笑顔はまさにFiore del sole(太陽の花)だからな!」
「そんなに凄い威力の子なのかァ。こりゃ本当に楽しみだな。しかしそんな子をどうやって落としたんだ?その顔の他にどんな手管を使ったんだ?教えてくれよカサノヴァ」
「そりゃあもう、俺の誠意が伝わったんだろうとしか。彼女に小手先の手管は通用しない。ハイブランド品だけ与えておけばついて来るような安っぽい女とは違うんだ。……笑っている顔を見られるだけで良かったんだがなァ…天使の翼が傷ついてるのを見ちまったら、こんな悪魔でもしゃしゃり出たくなるってもんだ」

 その悪魔は既に天使に骨抜きにされている。

「堕天使は天使に腕を引かれ、再び天界へ……か。君、随分といい顔するようになったな。それも『エリカ』のせい?」
「…………彼女は本当に、俺の人生を照らす唯一の光さ…」
「………………………」

 メローネは目を伏せて恥ずかしそうに静かに笑い、それを見たディーノも照れくささが伝染し、微笑みながら無言でグラスを磨く。

 彼は本物を手に入れた。ディーノは残念ながらまだ御目に掛かっていないが、本物を手に入れる事はきっと何よりの至福に違いない。

 メローネとは親友という程の間柄ではない。友人ですらない。年が近くて気が合う、只の常連客とバリスタの関係。それでも暗闇を抱えた瞳を持った男が真実の女性と出会えた事は、純粋に嬉しい事だと思えた。

 しばしの静寂。耳を心地良くくすぐるのは、ショパンの旋律とクロスがグラスを擦る音だけ。

 先に口を開いたのはメローネだった。

「そういえばさ、いつからあんなにバーチを仕入れるように?随分と種類豊富じゃないか。前は定番の小さいのと、イベント仕様のは二・三種類だけだったろ」
「ああ、あれね。結構観光客が買っていくんだ。名前の意味を教えてやるとロマンチックで可愛い!って言ってね、人気あるみたいだな」
「へえ〜。このセンスと味が世界共通とは嬉しいね。俺もあれ欲しいんだけど」
「おっ、わざわざバーチとは珍しいな。どれがいいんだ?量が欲しいなら、あそこの百個入りの箱がオススメだよ」
「ああ、それも貰うがな。とりあえず全種類くれ。勿論、プレゼント用で」
「………………マジで?」



 帰り支度をするメローネの片手には、子供が丸々と入りそうな大きな大きなショッピングバッグ。色はバーチの青とは対象の真紅。そして持ち手の端には幅広の白いサテンリボンが結われており、贈り物だという事を全身で主張している。

「ヴェスパで来たんだろう?それ、もって帰れるのかい?」
「心配無用、余裕だ。いい土産になったよ、Grazie!」
「いえいえ、こちらこそ。お買い上げどうもありがとうございます、Signor……あ!ちょっと待って、余裕ついでにもう一つ」
「……??」

 レジスター横の花瓶からローズマリーを数本抜き取り二十cm程度に短くすると、手早く纏めてショッピングバッグと揃いのサテンリボンで小さな花束を作り上げた。

 最初は不思議そうに見ていたメローネも、あっという間に出来上がる姿を見て感嘆する。バリスタをやっているだけあって手先は器用なものだ。即興で作った割には、なかなか形が様になっている。

「可愛い小鳥ちゃんに愛の花束を」

 ディーノは花束をスッとメローネへと差し出した。

 ローズマリー。ここイタリアでは愛の花と呼ばれている。そのいつまでも続く芳しい香りに重ねて、変わらぬ愛と見立てるのだ。柔らかな花弁の聖なる青は純潔の色。

「随分と気が利いてるじゃないか、愛の花だなんて」
「アモーレを語り合うなら、バーチョと、愛のカードと、そして花束、だろ?」
「Grazie mille!」

 ローズマリーを受け取ったメローネは拳を掲げ、ディーノもそれに応える。拳と拳をコツリとぶつけ、男達は笑う。

「また近々来るよ、Ciao ciao!」
「ああ、楽しみに待ってるよ!Ciao!ciao!」

 メローネは再びドアベルをカランと鳴らしながら外へ飛び出した。太陽の香りを一身に浴びる。早くしないと、バーチが熱線で蕩けてしまう。急がなければいけない。早く届けなければ。

 両手いっぱいのバーチをあの子へ。



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