ちょっとした用事で遥々とローマまで来たエリカは、本日も大層ご機嫌のよろしい太陽に、ついに両手を挙げて降参した。

 まだ初夏の6月とは思えないこのグリル火から早く逃れようと、急ぎ足でヴェネツィア広場からポポロ広場までコルソ通りを歩く。

 そのポポロ広場を最高のシチュエーションで見渡せるテラス席を備えるのが、かの「ローマの休日」でも登場した名高きCaffe'Rosati(ロザーティ)。

 同じくポポロ広場で鎬を削る、フェデリコ・フェリーニの愛した老舗Caffe'Canova(カノーヴァ)を真向かいに配しているが、今回はエリカにとって魅力的な幅広のカフェテラスを有するRosatiに逃げ込む事にする。ここでしばらくアン王女気取りといこうではないか。但し、シャンパンもスプマンテも飲まないし、煙草も吹かさないが。

 古めかしくも芸術性の高い建物や景色を尻目に颯爽と駆け抜けるのは実に勿体無いが、今は仕方がない、後で絶対に堪能しようとエリカは心に決めたのだった。

 帽子を外しながら「Buongiorno!」と言いエントランスに立ち入ると、すぐに食い入るような視線が集中した。

 それもそのはず。その活力に満ちた若く豊満な肉体を、涼しげなレモンイエローのパフスリーブワンピースに収め、膝下まで上品にある裾を辿ると足元はパンチングレザーでレースを模したクリスチャンディオールの白いバレエシューズ。腕には靴と揃い感のあるDOLCE&GABBANAのコットンレースのバッグ。つば広の麦藁帽子の下は、黄金そのものの髪が真っ白なうなじのすぐ上にアップヘアで纏められ、波打つ巻き毛はまるでギリシアの女神像とそっくりだ。

 華やか、御令嬢、高嶺の花、そんな言葉がすぐに浮かぶ存在感だ。

 若い美人が大好きなロマーノのウェイターは、同じく「Buongiorno!」と返しながらにこやかにエリカに近付いて来た。

「テラス席がいいのだけれど。通り沿いの席ではなく、なるべく日が当たらないところ」
「Si、Signorina、でしたら玄関横のこちらのお席はいかがでしょうか?」

 今入ってきたエントランスを出て、大きくテントの張るテラス席へと案内される。

 確かにエントランスの横にあるこの席は、歩きやすいのと同時にテントとテントの隙間から入り込む日差しすら当たらない場所にある。

「Molto bene、どうもありがとう」

 すかさずエリカの背後に回り、当然のように椅子を引いてくれる。

 汗ばんだ体を椅子に深く落ち着け、程よく疲れた体を癒すべくシシリーオレンジのスプレムータ(生絞りジュース)を注文した。

 様々な視線を浴びながら通りを眺めつつ、日陰でゆったりと注文した物を待つ時間は、それなりに楽しいものだ。

 アン王女のようにブルネットではないけれど、誰もが一度は憧れるお伽話のお姫様のような豪奢な蜜色の髪と実に女性的な肢体は、カフェテラス中どころか広場の人々の目を引くには十分過ぎる程だった。小さい頃から目立つ存在だったエリカには、馴染みのある視線なので、今更気にも掛けない。

 程なくして出て来たのは、背の高い大きなグラスにたっぷり注がれた、真っ赤だけどもちょっとくすんだ血の色のシシリーオレンジの果汁と、小皿に盛られたクッキー。

 ここは調子も口も良く、抜け目のないローマ人の巣窟だ。

 気を引き締めていかないと、若い小娘などすぐにカモられてしまう。

 これが『下心のある好意から』なのか『純然たるぼったくり目当て』なのか。どちらにしても迷惑である事には変わりはない。

 エリカは気を引き締めて、ウェイターに告げた。

「これ、頼んでないんだけど」

 不必要だ、という意味合いを込めて憮然と言うが、エリカよりもいくつか年上らしいまだ若きウェイターはにこにこと笑いながら首を横に振った。

「サービスですよ、Signorina!あなたのような素敵な女性にはぜひ、ローマに来てよかったと思って頂きたいのです!」

 絡みつくような艶めかしい目線で答えると、今度はお得意の口説き文句の出番だ。

 ロマーノだけに限らず、女性とのチャンスを逃さないイタリアーノの行動の素早さは、紳士からの淑女扱いに慣れたエリカでさえ舌を巻く。

「ローマへは初めて?案内してあげましょうか?いいリストランテも知ってるんですよ。どこに泊まってるんですか?今夜迎えに行きます」
「……っ、いえ、約束があるの。だからあなたとは無理だわ」
「約束は今日だけ?明日だったら大丈夫ですか?」
「いえ、あのね、はっきり言うと、恋人がいるからダメ……」
「ああ、それなら心配には及びません。僕は嫉妬なんてしませんから、恋人がいても気にしません」

 エリカが喋る間もなく、次から次へと矢継ぎ早にペラペラとよく動く口。

 そしてどこまでも自由で自分勝手な解釈。

 ナポリでは組織の恩恵のおかげか、エリカに対して無粋な口をきく輩は皆無だ。お陰で不愉快な思いはしなくて済んだが、同時にイタリア男のしつこい口説き文句の免疫ができなかった。その為、どの程度言えば諦めるのかが検討もつかない。

 イングランドのアッパークラス(上流階級)のように引き際を見定めてくれる相手なら、無視を決め込んでツンとすましているだけで済んだのに。相手に嫌われたらどうしよう、という考えはイタリア男達にはあまりないようだ。

 喋り通しの口元から目線を上げていき、ぐるりとパーツごとに見回してから改めて正面から見据える。なかなか甘いマスクの青年は、良く見るとアーモンド形の綺麗な目が印象的な好青年だった。

 きっとこのルックスと甘く巧みな言葉で何人もの女性をナンパしてきたのだろう。そして成功率は極めて高いのだろうという自信が、その表情から伺えた。

 だがしかし、軟派なイタリア男の食い物にされる気など更々ないエリカは、なんとかこの無駄に情熱的かつ執拗そうな青年を諦めさせようと頭を捻る。

 もういっそ飲み物は諦めて、早々に立ち去った方が早い気がする。そう思い始めた時だった。

「俺の連れに何か用か。悪いが先約はこっちなんだ」

 190cm近い大きな体躯を黒で統一した出で立ちに、鋭い眼光の組み合わせ。極めつけは、わざとシシリー訛りを滲ませた口調。

 『普通』ではないと理解するには十二分だった。

「…ミスターッ!!」
「あ、う…そうか、忙しそうだね。僕も忙しいので仕事に戻らせてもらいます。ゆっくりローマを楽しんでいって下さい…ッ」

 相手が悪いとさすがに気付いたのか、先程までのしつこさは嘘の様にさっさとその場から離れていく。そういえば名前すら聞いていなかったな、とエリカは思った。その分こちらも名乗らずに済んだのだから、丁度良かった。

 今頃、無事に逃れられた事を安堵しているだろう。

 黒ずくめの男、リゾット・ネエロは、一言エリカに断わりを入れてから、向かいの椅子に腰掛けた。

 先程の青年とは別の、シルバーの髪の毛が渋い初老のいかにもベテランウェイターといった彼に、カッフェをひとつ注文する事も忘れない。

「いつも言っているだろう、ミスターなんて慣れないし堅苦しいからリゾットでいいと」
「そっちこそ、いつもは地元人に見えるように話すくせに、わざとシシリー訛りを出すなんて意地悪ね。彼、相当怯えてたわよ、かわいそうに。でもすごく助かったわ!どうもありがとう」
「南イタリアの男は粘着質なんだ、バッサリ切り捨てないと尾を引くぞ。しかし偶然にも程がある……こんな所で何をしている?」

 確かに、北と南では熱視線からして粘着度の差があるように感じる。

 付き纏われるハメにならなくてよかった、とエリカは心底思ってしまった。

「えーっとね、ちょっとした用事よ、うん。物件の下見にね……それほど大した用事ではないんだけど、ちょうどタイミング的にいいかなと思って今日来たの」
「そうか。物件というと、セコンダ・カーサでも買うのか?やめた方がいいぞ。ここら辺は値段が高騰するだけ高騰して、しかもやたらと空き巣が多い。建物が全て古い挙句、修繕しようとすると細かい所までうるさく言われる。君向きとは思えないな。どうせ買うなら都会じゃなく、田舎の方がバカンスや週末を過ごしやすいと思うが?」
「あら、わたしのじゃないのよ。でも、そうなの?じゃあそれを伝えて諦めさせるわ。素晴らしいホテルもいっぱいあるんだから、滅多に来ないローマのアパルトマンをわざわざ買うことはないわね」
「ああ、空き巣の被害者を増やさないためにも、ぜひ教えてやってくれ」

 やってきた濃厚なカッフェに砂糖をスプーン1杯だけ入れ、リゾットは一口それを啜る。熱くても音は立てないように慎重に尖らせた唇が、この厳つい男に似つかわしくない程可愛らしく、ついエリカはふふっと声を出して笑う。

「…ん?」
「いいえ、なんでも。よかったらこのクッキーも食べてちょうだい。一人じゃ多いわ」
「ああ、戴こうか。……ところで、それはシシリーオレンジか?」
 エリカの飲み物を指差し、リゾットが問う。
「ええ、シシリーオレンジのスプレムータ。シシリーオレンジって、すごく甘くておいしいのね。カルフォルニアオレンジなんか目じゃないわね。色が不思議なくらい赤くて綺麗だわ。ルビーみたい!」
「ああ、シシリー産のものは皆、味も大きさも優秀だ。果物なんかは特に、スプレムータに最適だな、果汁が多い」
「そういえばミス……リゾット、シシリー出身だったのよね。わたしはまだ行ったことがないのだけれど、どんなところ?きっと、いいところなんでしょうね」

 グラスのストローに口をつけながら、南の島シシリーを想像する。

 丁度ブーツが石ころを蹴飛ばしているイタリア半島の、石ころの部分だ。

 地中海最大の島は、長きに渡り様々な支配者に統治されてきた。カルタゴの支配者フェニキア人と、そしてそれと敵対するギリシア人に始まり、ローマ、ノルマン、アラブと多民族に侵略され続けたシシリーは、本来の島民族以外がシシリー出身者として名乗っている。

 肌も髪も黒いアラブ人も、日光に弱い白肌と金髪碧眼を持つノルマン系も、同じシシリー人なのだ。

 イタリア共和国の中でもかなり特殊なこの島は、本土からの独立精神も旺盛だった。

 リゾットは軽く目を眇め、今は懐かしい故郷の情景を思い出す。

 この闇色の世界に足を踏み入れる前の、まだあどけなく無邪気だった頃の記憶が蘇る。

「そうだな…口では説明しにくいが、いい所だ。もちろん問題は山積みだがな。一年中深刻な水不足で夜中には断水になっちまうし、貧富の差もデカい。高台に行く程に高級避暑地で別荘だらけだが、下に行けば行く程、下町色が濃いし物乞いのロマ人も多い。だが……だが、皆強く逞しく、太陽と海に囲まれて生きている」

 ふとエリカに視線を向けると、好奇心と知性に輝いた瞳とぶつかる。

 上等なステップカットを施したエメラルドさながらに、鮮やかな色彩を放ちながらキラキラと光を反射し、まだ見ぬシシリーに思いを巡らせているのだろうその瞳には、神秘的な金色の輪が浮かんでいる。

 そしてリゾットは、目を逸らした。

 直視し続けられない不可侵の不思議な魅力が、そこにあった気がした。

 闇色に全身を浸しきった今の己とはあまりにもかけ離れている存在、そう思った。

 エリカは黙ったまま、楽しそうに次の話を待っている。そんな彼女の髪の色は濃密な黄金色で、蜂蜜のようにとろりとした光沢は高級シルクそのもの。リゾットはその色合いを、どこかで見た覚えがあった。郷愁に駆られるこの懐かしい色彩、鮮やかなエメラルドと金色(こんじき)。そしてワンピースドレスのレモンイエロー。

 ああ、とリゾットは納得した。そうだ、あれは昔いとこの家に遊びに行った際に見せてもらった果樹園。今でも目を閉じると蘇る、若草色の葉の間にレモンとオレンジが延々と続く農園の道。夕暮れ時は、沈み行く黄金の太陽がたわわに実るレモンを、自身と同じ黄金色に染め上げるのだ。

 闇色の男にとって、それは不可侵の記憶。誰であろうと蔑む事を許さない、黄金の思い出。

 あれから月日は流れ、自分も変わった。島を出てからは、一度も帰っていない。今もまだあそこは…と、そこまで考えた所でエリカが次の言葉を待っている事を思い出した。

「……君が好きそうな遺跡や歴史的価値も高いドゥオーモ(教会)も、沢山ある。もちろん食も豊富だ。君にはぜひ鰯料理を食べて欲しい。ドルチェもカンノーロが有名だが、ジェラート好きの君はブロンテ産のピスタチオジェラートが気に入ると思うんだが、どうかな」
「すごい、ステキね!行ってみたいわ…!歴史の遺産ももちろん興味あるけど、おいしい食事にも惹かれるわ!」

 きっとまだ見ぬ南の島に興味が尽きないのだろう。眩しい笑顔を満面に浮かべ、実に行きたそうに語る。

 案内なら喜んで買って出たい所だが、すんなりとそれを言い出せない何か蟠りのような物が、大きな碇のようにリゾットの肺腑の奥深くを重く固定している。過去は捨てたはずだった。なぜ今更、こんな理解し難い気持ちになるのか、よく分からない。複雑な顔でリゾットは黙り込んだ。

 それに気付いているエリカも、もちろん慰めたりなんかはしない。ただ何事もないように、さらりと言う。

「ねえ、ミスター……あ!ごめんなさい、なんだか癖でつい出ちゃうのよね。えーっと、リゾット?よかったら、今度案内してくれると嬉しいわ」
「…!!あ、ああ、だが…」

 あれから自分も変わったように、きっとシシリーの町も変わっている。土地勘が残っているかも分からないのに、と言おうとしたが、エリカはそれを言わせない。

「また今日みたいに面倒なことになったら、助けてくれるでしょう?」
「……ッ!」

 言葉とは逆に、いるだけでいいんだ、そう聞こえた気がした。

「…そうだな、ボスの目の行き届くナポリを離れたら、君みたいな金髪美人は男達の恰好の獲物だ。ボディガードは必要だな」
「ふふふっ、まあ!ありがとう。じゃあバカンスの頃、休みが取れたらよろしくね。楽しみにしてる!」
「ああ、約束だ」
「ええ、約束よ」

 にっこり笑って、エリカはスプレムータの最後の一口を飲み干した。

 この血のように赤いシシリーオレンジは知らぬ者から見たら一見不気味にも見えるが、口に含んだ途端まるで本来他のオレンジにはない第三の成分が含まれているんじゃないかという位に、芳醇で甘い。

 目の前に座るこの男も、組織の中でも特殊な部隊、暗殺を生業にしてきただけの事はあり、気付ける者だけにわかる『死の香り』や『血の匂い』を纏っている。

 しかし、エリカは知っている。否、知ったのだ。

 エリカの一回りも年上のこの青年は、見た目からは想像もつかない燃えるような情熱を持ち合わせ、情に厚く、そして優しい。

 この男を育んだシシリーの大地を、エリカはとても見てみたかった。


 きっと彼と同じく、地中海一大きい島の名に相応しく雄大なエトナ山をどっしり構えて、変わる支配者達など我関せず海から顔を出しているのだろう。


 まるで恋しい人のようにシシリーの大地を想像しながら、エリカはリゾットがカッフェの残りを一気に飲み干す様子に見入っていた。

 バカンスは、もうすぐだ。










スプマンテ=Spumante/スパークリングワイン
カンノーロ=シチリア名物菓子、ビスケット筒にリコッタクリームを詰めたもの
ブロンテ=エトナ西方の土地
セコンダ・カーサ(第二の家)=別荘






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